「ひきこもり」のリアルを知るために ―井出草平著『ひきこもりの社会学』刊行記念座談会

2007年10月中頃、小山エミさん(id:macska)、井出草平さん(id:iDES)、荻上チキの三名で、井出草平著『ひきこもりの社会学』(世界思想社)刊行記念チャット大会を行いました。そのログを公開いたします。


ひきこもりの社会学 (SEKAISHISO SEMINAR)

ひきこもりの社会学 (SEKAISHISO SEMINAR)


chiki :こんにちわ。今日は井出草平さんの『ひきこもりの社会学』発売記念チャット大会ということで、macskaさんと著者の井出さんと、3人でチャット大会を開くことになりました。よろしくお願いいたします。


macska :最近の日本のことをあまり知らないのに出てきてしまいました。よろしくお願いしますですー。


井出 :よろしくお願いします。拙著を取り上げていただけるということで、非常にありがたく、また光栄に思います。macskaさんとは9月にこの件でチャットしたんですよね


macska :はい、本を読んですぐに感想伝えようと思って。


chiki :『ひきこもりの社会学』は、社会学井出草平さんの初の著書であり、日本のひきこもり問題について丁寧に論じている本で、私も以前のチャット以後に読ませていただいたのですが、「当事者」へのインタビューや言説分析、それに基づくひきこもりの社会理論化をしっかりと行っている良著だと思います。印象としては、デュルケム:ウィリスが3:7みたいな(笑)。今度は7:3も読みたくなりました(笑)


井出 :方法論はヴェーバーなんですよ(笑) 。内容はchikiさんのおっしゃるようにデュルケム:ウィリスが3:7ですね。デュルケムの『自殺論』を読んだことがある人は気づくと思いますが、よく似た類型が使われています*1。ですので、社会学的には「ひきこもり」を通じて集団凝集性の理論の話をしていることになります。ウィリスの方は、一つポイントがあって、ウィリスの言ってることと本で書いたことは結論が逆になってるんですよね。



chiki :確かに。「規範」についての見解が、分析手法は似ているのに結論が逆方向になっていますね。


井出 :ウィリスは階級論の人なので階級の再生産はダメだっていう立場です。基本的には。ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』の着想は階級の再生産が起こるメカニズムを示し、そのメカニズムを否定的に扱うんですが、肯定的に見出すものあると考えています。実際に書いたのは、ウィリスがほとんど描かなかった部分のことです。


ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)

ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)


macska :ひきこもりは社会的逸脱とされるわけだけれど、しかし当人たちは非規範的なわけではなく、むしろ過剰に規範的だという指摘をされていますね。


井出 :そうなんです。逸脱をする人は規範的じゃないものだというのが常識だと思うんです。例えば、泥棒とかだと、世の中の規範なんかどうでもいいくらいの勢いがあって、盗みをするわけですよね。非行少年の場合も、学校の規則なんてくそくらえと思ってるし。


chiki :ウィリス以後、そのフレームにのっとったうえで逸脱を肯定する言説も、これまでに多数出てきていますね。


井出 :でも、社会から逸脱しているはずの「ひきこもり」はびっくりするほど規範意識が高いんです。学校に行く年齢だと「学校に行かなきゃ」と思ってる場合が多いですし、学校に行く年齢を越えると「働かなきゃ」と強く思ってる場合が多い。「とにかくまともになりたい」という思いがすごいつよいんです。「ひきこもり」は「怠け」みたいに捉えられるんですけども、実は、本人はまったく怠けようと思ってる訳じゃなくてすごく真っ当に生きようともがいてる。逸脱してるはずなのに、すごく規範的だという矛盾ですよね。


chiki :そういう現実を前にして、“脱規範の豊穣な価値”等と、簡単に肯定できない。


macska :学校的な規範を過剰に内面化するために、どうしても無理がきて不登校になるタイプと、大学に入るなどして合わせるべき規範が明示的で無くなってアノミーに陥るタイプと、2つのタイプを紹介していますね。


井出 :「拘束型」と「開放型」っていう用語で本では書いてるところですね。


macska :「規範」を中心に分析するのはとても納得できるのですが、じゃあどうして過剰なまでに規範的な人が大勢でてきたのかとか、それがどうしてひきこもりという形で発現したのかという点が気になるのですが。


chiki :そこが気になるところですよね。最近、様々な言説史のアーカイブ化が進んだために、「昔はよかった」とか「最近の子どもは●●化した」とかいう言説が相対化されやすくなっていて、「●●という現象が最近になって生じている」という言説に慎重になる癖がついてしまったんだけど(笑)、ひきこもりがここ数十年の問題だというのが、本当なのかというのはもう少し知りたいんですよね。


macska :でも井出さんの言う数十年というスパンは、一般のメディアの扱いより既に長いでしょう。一般メディアの扱いではバブル崩壊後とかそんなレベルでしょ。井出さんは少なくとも70年代までは遡っている。


井出:そうですね。


chiki :30〜40代の人が「最近の20代は」とか言ったりする例にひきこもりを挙げるけど、「いや、あなたたちの年代にもいましたよ」とは言えるくらいには、長い(笑)。


井出 :そうだと思います。現象として捉えられるのは70年代半ば以降のことですね。ひきこもり状態になる人はいましたが、それは何十万という現象として捉えられるほど大規模なものじゃなかったとは確実に言える。このことは、不登校の増加を辿れば明示できます。「ひきこもり」の8割程度は不登校から出てくるので、不登校の増加を見れば「ひきこもり」の増加もある程度は推測出来るわけです。



これは長期欠席者のグラフです。戦後しばらくは経済的困難で長期欠席する生徒、栄養失調・医学の未発達などで病気になり長期欠席をする生徒がかなりいました。長期欠席者はたくさんいるんです。それが、1970年代には激減します。経済成長もあり、栄養状態も良くなり、医療も整備されましたし、なにより、子どもが働かなくても生きていける時代になった。ほとんどの子どもが学校に行けるようになった時代です。でも、その時代から不登校が現れるんです。経済的理由でもなく、病気でもなく、学校に行けない子どもです。



一定の目安として、不登校者率のグラフが使えて、これだと70年代半ばから微増、80年代に不登校が激増していったことが見て取れます。現代教育研究会が中学を卒業してから5年後の不登校の子ども達を調査したんですが、そこでは、不登校の中から就学も就労もせず特に何もしない状態にある生徒が2割程度はいるということが分かっています。これがすべてひきこもり状態にある訳ではないですけども、ある程度はひきこもり状態かそれに近い状態にあるのではないかと考えられます。


macska :不登校者の数字、この程度でいいんでしょうか。もうちょっとあるような気がしますが。


井出 :あります。


macska :学校が正確に報告していないんでしょうか?


井出 :保坂享氏が調べたところによると、病気として数えられている不登校が非常に多いとされています。とある市の欠席理由を詳細に調べた研究では、病気として休んでいる小学生599人のうち、明らかに病気なのは35人(長欠者の5.8%)、中学生924人のうち55人(長欠者の3.6%)です*2


macska :ああ、なるほど。



井出 :不登校は学校も隠しますよね。親も子どもが不登校より病気で学校に行けない方が傷つかないですし。


chiki :本人が隠す例もあるのでは。私もいじめが嫌で、仮病で休んでたっけ。でも実質あれは不登校だったかも。


井出 :本人も不登校の理由を周りから聞かれたりして、なんか答えないといけないから色々な理由を探して答えにしますよね。あと、都道府県で、不登校の数え方が違いすぎるというのも注意点です。不登校が多い県と少ない県がある。県によって数え方が違うようなのです。


macska :ま、とりあえず全体的な傾向として、70年代以降増えてきたというのは多分その通りでしょうね。


chiki :ひきこもりが増加についての分析はどうでしょうか。だんだん増えていく一つは、ひきこもりが年をとっても継続する上と、新たな層が加わることもあるのだろうけど。


井出 :増加はしたと思います。2002年と2003年に岡山大学が調査したところによると、全国でひきこもりを抱える世帯は41万人・32万人(点推定値)という数字が出ています。数十万単位で日本に「ひきこもり」が存在するのは確実でしょう。


不登校が増加したことが、ひきこもりを増加させたのと、あと、ひきこもり状態から離脱が難しいという理由があるのだと思います。不登校統計を信じて、その2割がひきこもり状態になるという仮定から推定すると、毎年2万7000人ほどが新たにひきこもりへ新規参入してることになります*3不登校統計からの推定値は正確さに欠けるので、現象を軽く把握する程度にしか使えませんが、数十万人規模で存在するということと、ある程度符合する数字ですよね。あと、ある程度溜まって行かないと数十万単位には積もらないので、「ひきこもり」というものは離脱するのが難しいと考えざるを得ない。少なくとも、離脱が難しいものが少なからず存在するという認識は必要かと思います。


chiki :不登校増加の背景はどうでしょう?


macska :不登校以外からのひきこもりもいますし。


井出 :不登校増加の背景とひきこもり増加の背景は同じだと考えてます。不登校以外からのひきこもりも、背景は同じです。2人の質問に一度に答えることになりますが(笑)。


「ひきこもり」の8割ほどが不登校出身です。「ひきこもり」の大多数は「不登校」になって、そのあとに「ひきこもり」になっている。ひきこもり状態であっても、そもそもの原因は不登校だと考えられる。不登校を経ない2割ほどに関しては、理論的に示唆ができています。それは、不登校を経ない「ひきこもり」も原因は不登校と実は同根なんです。不登校という形で表に出たか/出ないかという違いはあっても、抱えている問題は同じものだと考えられる。


macska :井出さんが指摘されているのは、学校的な規範のあり方と、その学校的規範の「外部」がないことですね。外部があれば、他でやりすごすことだってありえるわけだし、不登校でも、それ以外の部分でちゃんと生きていける可能性もある。


井出 :そうです。本の最後の方で書いてたことですね。


chiki :それは、内藤朝雄さんのいじめ論とも近いですね。学校という空間では、極めて閉鎖的な生態系を築くがゆえに息苦しいと。


井出 :よく似てる観点だと思いますよ。息が詰まる集団とは別の集団を持ってたら、そっちに行って息抜きができますから。


その観点に加えて「ひきこもり」の特殊性を強調したいのは、不登校は単に学校に不適応だということのみならず、そもそも集団への適応ができないという傾向にあることです。「ひきこもり」につながる不登校が特にそうですよね。学校に適応できなきゃ、学校以外のところ(例えばフリースクール)でコミュニケーションを確保すればいいというのは正しいんですが、そういうことすらできずにいる人もいる。これが「ひきこもり」問題として出てきたものですね。そもそも「集団」へ参加することが非常に難しいということです。


また、学校に行くというのと、集団に適応するっていうのも違った話なんですよね。学校という所は、一応、席に座って、授業を聞いていて、先生が言うような感じで生きていけば問題がないところではあると思うんです。でも、それは集団への適応は違う話。学校できっちりと宿題をしてちゃんと授業を聞くことと、友達を作ったり、見ず知らずの人と喋れることは違う。


macska :それはそうですね。


chiki:加えて、適応することと、適応力があることの違いというのも確かにある。


井出 :就労からの「ひきこもり」について日本社会学会で11月に報告をするんですが、就労段階のひきこもりについて考える場合には、この違いが非常に重要だと考えています。学校の段階では問題を持っていても、「規範的」に振る舞うことで、切り抜けられてきた人たちがいる。集団への適応ができなくても、きっちりと宿題をしてちゃんと授業を聞いていれば、学校では問題は表面化しにくいんですよね。でも、働き始めると途端に露呈する。同じような経路を辿るものとしては、本では大学で露呈するタイプを取り扱いました。


「ひきこもり」の問題ってのは「集団」への適応の話だと思います。不登校になって、学校以外の集団でもうまくやっていけなかった人もいる。これが不登校経験を持つ「ひきこもり」です。もう一方で、学校では真面目に振る舞うことで乗り切ったものが、そもそも集団への適応ができないために、学校の外に出ると途端に脆弱性を露呈する。それが学校以外からの「ひきこもり」です。


macska :映画『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』の主人公も、日本なら大統領暗殺未遂じゃなくてひきこもっていましたね。元ひきこもりの人が書いたものなんかを読んだりすると、あの映画をすごく思い出す。


井出 :アノミーって感じですよね。デュルケムのいうアノミーは暴力性が内向きになる場合と、外向きになる場合があるんですよね。内向きになると自殺、外向きになると殺人。


macska :陳腐な言い方をすると「不器用」となってしまうんだけれど、すごく純化された規範を内面化しているために、追いつめられてしまう主人公。仕事もできず、家族にも逃げられる。そこに銃があるのが米国の問題なわけですが。わたしも小学生だか中学生の頃、自分は周囲のバカは気付いていない世の中の矛盾に気付いているからこんなに生き辛いんだ、みたいに思ったことがあって、それはお前が生き辛いから世の中に矛盾を見出しているだけだろ、みたいに井出さんの本に言われた気がして。


chiki :ははは。


井出 :その生きづらさも社会に作られてるんだと思うんです。不器用な人間でもそれなりに生けていける社会に住みたいですよ、やっぱり。『リチャード・ニクソン』に関連して、精神医学的な補足を少し。あんまり面白くない話ですけどね(^_^;


社会学(デュルケム)で外に向かうタイプのアノミーというのは、精神医学的には統合失調質(スキゾイド)パーソナリティ障害か自己愛性パーソナリティ障害になると思います。両者とも自己愛があって、その自己愛の反転として暴力性が生まれるんです*4。現状の自己の認識が傷ついているかは別にして、あるべき理想の自分は割と高い状態で維持されている。イギリスでのスキゾイド・パーソナリティの研究であったり、日本でも、古典的な「対人恐怖症」にそのようなメカニズムが見て取れます。その古典的な対人恐怖症から、暴力性が抜け落ちて、無形性の抜け殻のような形の症例が増えているという報告があるんですよ。


それが現代的な「ひきこもり」ではないかという意見を精神科医の鍋田恭孝氏が言ってて、それは現代的なひきこもりの症例としてはある程度までは説得力があるように感じてるんです。確固たる理想があって、それが達せられない苦しみとかもがき苦しむ葛藤を抱えない、ひきこもり症例は意外に多い。


まったく空っぽというイメージまで行かなくても、ひきこもり当事者の願いっていうのは、すごくハードルが低いということは最低限指摘出来ます。「働きたい」とかその典型だと思うんです。小説家になりたいとか、プロスポーツで活躍するんだとかいう人ももちろんいるんですけども、全体から見ると多数派じゃない。彼らの達成しようとしているハードルは、学校に行きたいとか、働きたいとかすごく普通な場合が多い。


この部分に重要な示唆があるのは「ひきこもり」は反社会的な行動を取りにくいというところですね。アメリカのコロンパイン高校で乱射事件を起こすオタクの生徒のようにはなりにくい。


あと、社会に対して敵対しようと思っていないので、「ひきこもりは革命だ」と捉えるのは適切じゃない。彼らの多くは、普通に学校に行けたら、とか、普通に働けたら、とか、普通に暮らせたらいいなと願っているだけです。非常に「ささやかな」、そして、極めて体制的(笑)な思考をしてる。


chiki :「規範」について話す場合、ひきこもりを「脱規範」的に否定するか、あるいは肯定する場合があるよね。あれは甘えだ、的な言説と、その逆に「ひきこもれ!」的に言うものと。サンプルとなる言説を2つ出してみたいんだけれど、ひとつは作家、森博嗣さんの引き籠もり力という文章。ブックマークでも人気なんですが、井出さんの本で割と批判的に取り上げられている、吉本隆明の言説に近いものがある。


macska :「引き蘢もり力」の話、すごいね。


井出 :羽海野チカのイラストは好きだけど、書いてあることは別の引きこもりのことだよね。そういや、この間、斎藤環さんがテレビで8割くらいのひきこもりは何もやってないと言ってたけど、そうだと思いますよ。研究者や作家なんかの「引きこもり」と、問題になってる「ひきこもり」は別なものだと思います。「引き籠もり力」がダメだってことじゃなくて。


chiki :そうですね。その点は繰り返し確認しておきたい。もう一つ最近読んだ中でたまげたのが、『雨宮処凛オールニートニッポン』。ちなみに雨宮処凛の本は初めて読んだんです。いくつか雑誌に掲載されていた文章とかでだいたい想像はついていたんだけど、こういうノリ。

雨宮 すでにひきこもりが100万人ぐらいいるので、労働拒否はもう始まっているんですけどね、革命が。
AKIRA ひきこもりじゃなくて、立てこもり。
雨宮 そうそう、「おれはこの社会を拒否して立てこもっている!」
月乃 インターネットラジオだから、ひきこもりの人いっぱい聴いてますけど、親御さんが何か言ったら言ってください。「おれはひきこもりじゃなくて、立てこもっているんだ!」と(会場 拍手とイエーイという歓声)
雨宮 そうですよ。素晴らしい社会変革運動。くだらない就職とか、搾取されたりとか、低賃金でつまらない仕事をやってるより、たぶん社会は少しは変わる。何でそんな企業の金もうけの活動とか、営利活動に関わらなきゃいけないのか、私はそもそもわからない。


イエーイ、ですよ、イエーイ。インドア派で「文化系」なニートを想定しているだけなのか、仮にこういう「ひきこもり」がいたとして、「くだならい就職」で「つまらない仕事」をやってそれを支える親の経済や尊厳の問題とかはどうなるんだろうとか、諸々ひっかかる。世代間格差という言葉で肯定されたりするんだろうか。


macska :「ひきこもりが解決すれば日本経済復活!」とか主張している本があってすげーと思ったけど、「もっとひきこもって日本経済復活!」もまたすごい。


chiki :なんと極端なふたつだ。


井出 :そうそう。ひきこもりと日本の経済的な凋落書いてある本あった、あった。今の所「ひきこもり」を扱った唯一の英語文献ですね。ジーレンジガーさんというジャーナリストが書いた“Shutting Out the Sun”って本。邦訳が出てそれが『ひきこもりの国』っていうタイトルだったと思う。


chiki :売れてるみたいよ、結構。


井出 :まじか


macska :Sun と Son が掛けてあるという噂。


井出 :あ、なるほど。日本の経済的凋落と息子の隠遁を同一視するのが題名にも既に現れてるんですね、、、


macska :「ひきこもりで経済復活!」の方は、ひきこもりのイメージをもっとポジティブにしよう、という意図は分かるんだけど、こんなイメージが仮に広まったとして当事者たちが救われるとは思えない。


chiki :多くの人にとって、自説を補強するアイテムでしかないひきこもり。


井出 :当事者とか親御さんは置いてけぼり感ですね。


chiki :そのくせ、「当事者」という言葉のインフレ状態を招いているですよね、ある種の「論壇」では。


macska :参考までに、わたしの当事者力は53万ですよ。


chiki :そんな感じ(笑)。これくらいの「当事者」まで「理解」「想像」「配慮」できるんだというアリバイ作り、それで済まされるのは、ちょっとまずいよ。他の言説や、書籍への反応については何かどうでしょうか。


井出 :そうですね。40歳半ば辺りまでの人は割と良い反応をくれることが多いですね。「わかる」という感想と「わからない」という感想が、ちょうどひきこもりが生まれた世代とそれ以前の世代でくっきりと分かれるという印象です。個別では、自分の人生で苦しいところ読んでて気づけたとか、そんな感想ももらいましたよ。人の人生に役立ったというというのは嬉しいことでよね。嫌われてるのは、左翼の人たちからかな。
この本って、貧乏でも精神的に辛い人生よりいいんじゃないか?みたいなことを言ってる所があるんですよね。


chiki :それなら、金の再分配のほかに、人生満足度の再分配を議題にしろという要求が増えつつある昨今なら、なおさらもっと受けてもよさそうだよね(笑)。


macska :結婚相手を再分配しろという人もいたような。


井出 :そういう人にはウケいいかも(笑)


chiki :誤読が心配だなぁ。


井出 :でも、階級とかマルクスとか言ってる人たちにはウケが悪くて。貧困こそが最大の問題だと考えているわけで、そういう人たちに、他にも人生いろいろ辛いことがあって、そういう想像力を持ってもらえないですか?というと、カチンとくるみたいです。貧困で苦しんでいる人がいるのに、ひきこもりは働かずに怠けてけしからんみたいな感じです。


あと、発達障害の問題がありますよね。「ひきこもり」は発達障害か軽度知的障害でしょう、みたいな切断の仕方をする人が割と出てきていて、「ひきこもり」の存在を認めないんですよね、残念なことですけども。


macska :発達障害か軽度知的障害でしょう、ってそれで済ませてしまうとは。


井出:普通にあるんですよ。大きくみると、医療化の流れに沿ってなんでも「病気」として扱う社会がありますから。広汎性発達障害でいうと、自閉性障害の有病率は一般的には0.05と言われています。1万人に5人ですよね。イギリスで行われた調査*5では少し多めに出ていて自閉性障害が0.168%、アスペルガー障害が0.084%。それでも、1万人に何人いるかというレベルです。広汎性発達障害がそもそもそんなにたくさん居るというのは考えられない事態です。


概念が非常にややこしいというのも、不確実な知識が広まっている理由の一つだと思います。広汎性発達障害のルポとして評価が高い『自閉症裁判』も軽度発達障害と広汎性発達障害が混同されていました。広汎性発達障害を専門に扱っている人の中にも正確にこれらの概念を理解している人は少ない。


あと、質と量の問題ですね。ディスレクシアが一番分かりやいんですけども、例えば、左右の区別が付かないので「d」と「b」の区別が付かないというこがある。ひらがなであれば「む」と「す」の区別が難しい。これは、定型発達の人とは「質的」な違いがある。何をどう頑張ってみても、読めないものは読めないんですよ。発達障害というのは「質的」な違いを指す言葉であるはずですが、自閉症スペクトラムという量的な考え方が浸透してからは、広汎性発達障害以外の発達障害にも、ちょっとLDとかADHDっぽいというような認識が広まりつつある。勉強が苦手な子やちょっと落ち着きのない子が発達障害にされてしまっている。


ちょっと変な人がいると発達障害だと思えると安心だというのがあるんでしょう。これに加えて、発達障害の概念が難解なこと、発達障害が社会問題化されたこと、などが相乗効果で、発達障害バブルみたいなことが起こっている気がします。発達障害の社会認知が必要だからといって、広汎性発達障害がいっぱい居るというような誇大広告をすることは間違いです。このようなことを指摘すると、発達障害という概念の不支持者のように思われたりしますが、正確な知識を広めることは、発達障害の社会的認知の第一歩なんじゃないでしょうか。


「ひきこもり」との関連で言うと、広汎性発達障害の当事者とひきこもりの当事者では接し方がまったく違います。アスペルガー障害などの広汎性発達障害の場合は、字義通りの理解しかできないという事が言われるように、言葉の裏を読まないコミュニケーションをしてきます。一方で、ひきこもりの場合は、親の言葉の裏に自分を学校に行かせようとしてるんじゃないか、働かせようとしているんじゃないかと、必要以上に読んでくる。広汎性発達障害には「療育」と言われる、こういう時はこうするというルールのようなものを子どもの頃から教えていくことが必要になりますが、ひきこもりの場合は、そういうルールは嫌と言うほどわかっている。そういう世間のルールをわかってるからこそ、その呪縛から逃れられずにひきこもり状態になってしまうんです。


原因も状態も対処法もまったく違うものを一緒に捉えるのは、端的に誤りです。支援の場面でも接し方が違うので、方法論も全く違っていて、ひきこもりとアスペルガー障害などの広汎性発達障害を混同すると、支援が全く成り立たなくなる。ひきこもりとアスペルガー障害の混同は支援の場面では悪影響しか生み出さない。


macska :あえて心理学の分類を用いるならやはり人格障害の一種になるんだろうけど、人格障害というカテゴリは「ひきこもり」と分類するのと全然変わらないわけで、なんら理解にも解決にも繋がらない。


chiki :そうですね。


井出 :DSMなら回避性人格障害が一番当てはまりはいいですけど、人格障害は精神医学的治療が必要とされるI軸ではなく、II軸なので、当てはまっても何も良いことないですよね。当てはまらない場合は、何でも当てはめられる、適応障害っていうカテゴリもありますしね、DSMには。何でも当てはめられるということは、何もしてないことに等しいと思うんですよね。


macska :いや何もしてないですよ。


chiki :他の病気カテゴリにすらも適応できなかったからとりあえず、的な意味も含まれているようでスパイシーなネーミングですよね(笑)


井出 :そうそう


macska :ICD-9 には「excessive crying of child」という分類名もあるんです。子どもが泣き止まない症。


chiki :なんと(笑)


井出 :なんかいろいろ考えるんですね(笑)


macska :とにかく医者が何か相談を受けたら、コードをあてはめなくちゃいけないから。


井出 :需要があったら供給せざるを得ないところもありますしね。


chiki :病名もらったら安心する人もいるだろうしなぁ。


井出 :それはありますよね。


井出 :医者が悪いとかそういう勧善懲悪みたいな話ではなく、社会全体が医療化がしていて、人々がそういう理解枠組みで捉えたいっていうのが「なんでもカテゴライズできちゃうマニュアル」を作り上げているように思います。世論は、少年犯罪が起きたら精神科医に説明せよみたいなプレッシャーもかけてしまいますし。


macska :そういう説明くらい社会学者の仕事にしておいて欲しいところだけどね。心理学者や精神科医はほかに仕事たくさんあるわけで。


chiki :言語化できない状態というのは、不安という感情と極めて近いからなぁ。


井出 :DSMに準拠したスタンダードな診断も薬の処方や心理療法の振り分けを考える上で必要です。これは精神科医の仕事には不可欠だと思う。でも、精神科医以外までが、DSMに準拠していく必要もない。


chiki :芹沢一也さんの『ホラーハウス社会』にも、説明の言説が「犯罪心理学者」に求められていく過程が描かれていましたね。デマについて研究していてつくづく思うことなんですが、新しい現象やメディアが登場する、あるいはこれまで不可視だったものが「過」視化された場合に、説明の言説を求める欲求が高まるわけじゃないですか。でも、蓄積がないわけだから、既存の言語体系に無理やり当てはめたり、極めて偏ったサンプルだけを元に強引に理論化しようとしていて、結果デタラメなデマとかになることが非常に頻繁に起こる。けど、そろそろ私たちはそういう「わけのわからない現象」とであったときの対処法くらいは共有してもいいのではないかと。それはきっと社会学者の仕事なんだろうと思うので、井出さんに期待しちゃだめかな。


ホラーハウス社会 (講談社+α新書)

ホラーハウス社会 (講談社+α新書)


macska :それはchikiさんの仕事かもしれない。


井出 :そうだと思うよ。


chiki :そういえばそうなのかもしれない。じゃあ、がんばる。


井出 :がんばってー。もともと社会学者だったエドガール・モランみたいに学問の枠に捕らわれない幅で活躍していってほしい。研究対象もわりと似ているし。


chiki :ふぁい。


macska :で、カウンセリングはともかく、社会施策的な処方箋を聞きたいわけですが。


井出 :社会施策についてですが、変えられるものと変えられないものが当然あって、「ひきこもり」の場合は、1970年代からの社会変動と連動したものなので、変えられない部分が非常に大きいんですよね。1970年代というと、中流という意識が最も強かった時期ですし、高学歴化が達成され、階層論では平等化から固定化へ変動する時期だと捉えられています。ライフスタイルとしては郊外化が加速し、いち早く郊外化したライフスタイルを持つ家族の子ども達が学校に通い始める時期ですね。


で、日本国民はこの時期にはこぞって学校に登校している。その時代を経て現代に向かう社会変動イメージがあります。現代的な現象として「ひきこもり」を捉える時に、日本社会の変動とリンクしていることを見逃してはならないと思うんですね。大きな社会のうねりのようなものは、変えることが非常に難しいという面はあります。「ひきこもり」問題では、「規範的」という性質が抽出され、学校で規範的な生き方が認められるということは、出身階層がだいたい想像できてくるんです。家族の収入はよく分かりませんが、少なくとも、真面目さを教育している家庭に起こりやすいのは間違いない。勉強なんて二の次だという家庭だとかには生まれない。


あと、家族が閉塞しているのも特徴ですよね。一言で言うと「核家族」です。異物のない家族から生まれやすい。家に帰ったら、隣のおっちゃんが居間に座ってなんか食べてるという家庭じゃない。そういう生活を誰が供給してるのか?ということを考えてみると、近代的なライフスタイルが背景にある。郊外というライフスタイルは、他の地域と隔絶しますし、核家族という家族形態を保証してしまう。郊外では隣のおっちゃんが勝手に家に入ってくるということはあまり起きない。異物を排除するような生活の中で、唯一と言っていいほどの生活の中心は「学校」になってしまうんですよね。


chiki :進学率の資料を一応。


井出 :生産と再生産の分離が為されていることもあって、仕事と家庭は分断されていますし、親の知り合いは同じような階層の集まった住宅地で同じような人と結ばれる傾向がありますし。親の繋がりも子どもが一緒のクラスだというような「学校」を中心にしたものになってしまう。そういう学校からは少しズレつつも、大枠では「学校化」されてしまった空間では、異物が入り込む隙間がないし、その空間の中でより良く生きるということは、学校で認められる「規範的」な生活をすることになる。それが「ひきこもり」を導く原因になっていると考えています。でも、そうすると、郊外を潰しましょう、下町的な町作りをってことになるのかというと、それは施策としては不可能ですので。


macska :無茶ですね。


井出 :「ひきこもり」は「学校」を基点に起こっている「だけに」、学校を通しての「教育政策」で解決するしかないのではないかと思っています。


macska :うーん。確かに、政策的に比較的自由にあれこれできるのはそこだけなんですけど。


chiki :井出さんの教育観についてはこれまであまり語りあったことがないので、もう少し詳しく聞きたいかな。例えば内藤朝雄さんとかは、もしいじめを減らしたり、もう少しすごしやすくするためには、チケット制とクラス制を廃止すればいい、と主張しているよね。個別の賛成・反対はあるにせよ、特定の社会問題から「教育」を語ると、一元的になる恐れがどうしてもあるので、それだけ紙幅をさいて議論する価値はあると思います。「教育」ではなく、「教育政策」たるゆえんでもあるのだろうね、井出さんの教育についての意見は。


井出 :内藤さんはバウチャーを主張しているんでしたっけ?


chiki :バウチャーにはいろんな意味がこめられているので、イエス&ノー。再生会議的なバウチャーとは違うからね


井出 :アメリカでのバウチャーは宗教へお金を流すバウチャー、再生会議のバウチャーは私学へお金をながすバウチャー。


macska :そうそう。


chiki :内藤さんのバウチャーは、学校も塾も家庭教師もフラットに扱うバウチャーかな。詳しくは出たての『<いじめ学>の時代』をどうぞ。というわけで、教育についてちょっと議論したい。


macska :学校における教育政策というから、教育政策によって学校の外側に「学校」を相対化するようなオルタネティブを作るのが必要じゃないかと不安に思ったのだけれど、ここで言うバウチャーはそっちの方向にも使えるものだったわけかな。


井出 :アメリカのチャータースクールは公立の中に民間が運営する学校を作ろうというものだけど、そういうものがオルタナティブになるのではないかなと思います。アメリカの場合はコミュニタリアニズムというか、地域で公共のものを作り上げることを志向する傾向があるので、日本とは文化的背景が違う。もちろん、日本でも町衆が作った京都の番組小学校もありますけど、やはり日本全体から言うと特殊ではある。チャータースクールを日本に持ち込む場合は、普通の学校に行けない子どもへの方法の一つという位置づけにどうしてもなるように思います。


macska :ただ、バウチャーにせよチャータースクールにせよ、いろいろ選択肢を作ると、それを選べる家庭と選べない家庭の格差問題がありますね。


井出 :選べない家庭の出身者も少なからず居ますしね。


macska :それでも、相対化されれば少しは楽になるかなーという気もしないわけでもないんだけど、でも現実に不登校の話を聞いていると、学校に行かなくなっても、また別の学校的なものに行かされる、という話があるし。もうこうなったら、集団に適応しなくてもできるような職を作るしかないような気も。


chiki :プロオンラインゲーマーとか?(笑)


井出 :今の日本では、費用が高いですけども、フリースクールってあるじゃないですか。あれが減ってるんですよね。親は学歴が欲しいから、通信制とか単位制とかに入れてしまって。通信制とか単位制というはフリースクールに比べて「外部」が無いですから、後々の事を考えるとあんまり良くないんですよね。親には、自分の子どもが不登校になったら、人並みになるように願うのではなくて、それはひとまずあきらめて、いろいろなことを経験させて、人とは違った生き方を選ばせて欲しいなと思います。人並みから外れると、どうしても、元に戻そうと思いがちですけど、人並みにならなきゃという規範的な部分が「ひきこもり」を生み出すものなので、そういう枠組みから離れることが遠いようだけど、一番近い解決法になる。


macska :これは実際ひきこもった後の話になりますが、開放型の一部には、戸塚ヨットスクールとか自衛隊みたいなのは効いたりしますか? 自分で選択しなくても規律を与えてくれる組織ではありますが。


井出 :戸塚とか自衛隊は無理だと思いますよ。


macska :やっぱり。


井出 :万に一つ成功するかもしれないですけど、リスクが高すぎます。長田百合子さんも、ひきこもりを立ち直らせては居ますが、成功例ばかりに目を向けるのではなく、上手くいかなかった例を考えるべきなんじゃないかと思います。いかにリスクを低くして、本人のためになる支援をしていくかということを考えると、長田さんの方法は支持出来ない。戸塚さんは論外です。


macska :戸塚ヨットスクールというのはあくまでああいうタイプのものという意味で、戸塚さん当人に預けるのは論外だと思っていますが、成功しそうなケースをうまく選別できる方法はないかなあと。わたしは圧倒的に拘束型に近いタイプなので、そういうのはものすごく苦手ですが。


井出 :戸塚さんは脳幹が退化しているというよく分からない話をしているんですが、それに関連させると、「ひきこもり」は軟弱と言われたりしますけども、そういうことじゃないですよね。


macska :それは意味不明だ


井出 :最近の若者は〜的な説教話と結びついてしまうところがあって、長田さんなんか「たわけ!」と説教をするんですよね。2時間で直すっていう内実は、2時間説教をすることでして。


macska :うわー。


chiki :うざー


井出 :中年の鬱とか見ても脆弱なのは若者だけじゃないですよね。太平洋戦争で戦場に行くというのも一種の「弱さ」と言えばそう表現することもできる。ただ、状況に振り回されるというか、本人は良い人生を送りたいと思って選んだり努力した結果、なんでかわからないけど、非常に困った事態に陥ってる。これは、「ひきこもり」もそうですし、中年の鬱なんかもそうですよね。そういうことを、本人の責任だと切断処理をするために「弱さ」という言葉が使われているのは良くないですし、そういうために「弱さ」という言葉を使うのは不適切だと思います。


macska :説教して済む話じゃない。2時間で直ったというのは、その人と一緒にいることがそれだけ苦痛だから無理して直ったふりをしているとか?


井出 :2時間説教をした後に、寮に連れて行って、数ヶ月の共同生活をするんですよ。本当に2時間で直るわけじゃないです。悪言い方をすると拉致られる。


macska :ああ、すごい苦痛だ。


井出 :直る人もいるんですけどね。


macska :直って、本人は感謝してるんでしょうか?


井出 :感謝してる人もいますよ。ただ、そういうケースでも、別に説教が効を奏したからじゃないと思います。家族の問題なんですよ、たぶん。長田さんがやってることって、家族を壊すことには十分な機能をもってて。


macska :そういうプログラムにいかなくてもひきこもりから離脱する人はいるわけですし。


井出 :それはそうですね。当事者と家族が安定化した状態でずっといるんですよね、ひきこもり状態って。


macska :ああ。


井出 :子どもは扶養されてるので、ずっと子ども役割で、家族は小言は言いつつも、親役割をずっとしてて、それはそれで安定してしまってる。良い意味の安定ではないですけども、そういう安定状態を壊す機能は長田さんは持ってると思いますよ。壊すことによって、本人はひきこもり続けることができなくなって、改善するケースはあると思います。もちろんは失敗はありますし、その責任は誰がとるのかはよく知りません。


macska :ひきこもり続けることができなくなって、仕事はじめちゃったりするわけですか?


井出 :そういう場合もあるということですね


macska :ある意味すごいかも。リスクに見合う成功率があるかどうかは怪しいですが。


井出 :幼稚園より保育園の方が不登校が少ないという話があったりするんです。*6。集団に早くから馴染んでいた方が、不登校になりにくいってのは、ある意味当然の話なんですけどね


macska :集団に馴染むなんていう、単純な話だったんでしょうかね? 確率が下がるというのは確かに当然と言えば当然ですが。


chiki :素朴な疑問として、幼稚園くらいから場に馴染めていたら、今頃自分はもっとネアカになっているのだろうかと(笑)。


井出 :幼稚園が原因って言うのは、言い過ぎのような気がしますけどね。そういう単純な話ではないと思います。学校に行けなくても、他に社会があるというのは、ある意味当たってて、ある意味外れてると思うんですね。当たっている部分は言わずもがなですけども、外れてる部分というのは、そもそも不登校というのは、「学校」のみならず「集団」への参入の失敗だというところだと思うんですね。


macska :でも、学校の外がないからこそ、過剰に規範を内面化することになるとも考えられるわけで。外があれば、実際に外に出なくてもやり過ごせる可能性もある。


井出 :だと思います


macska :いつでも外に出られるというだけで、違いますよね。


井出 :いつでも外に出られるというのは内にいる事にも有益ですね。内に篭もる閉塞感ってありますから。そういう意味でも「外部」があった方が良い。ずっと「学校」の中で生きるんじゃなくて、学校の外で生きる場所を作って、いろいろな価値観に触れていく必要があると思います。


macska :ひきこもりは一般にオタクではない、インターネット中毒ではない、という話が本にありましたけど、もっとオタク文化やネット文化ができることがないのかと思ってしまう。むしろそれらにハマる方が社会性に開かれる可能性があるみたいな。


井出 :処方箋としては、近代の徹底か、近代の不徹底かでしょうかね


chiki :近代論に結びつけるのは、やや強引ではないかと。


井出 :強引に行ってみました(笑)


chiki :近代だから今の学校制度だというわけでもないだろうし。


macska :それを言うなら、近代でも特に日本に顕著なわけでもあるし。


chiki :学校制度が近代の成立に貢献したという議論は確かによく聞くけどね、それこそ因果の質を問う必要がある。


井出 :学校が近代を作ったのか、近代が学校を作ったのかは実際のところよくわかりませんよね。どっちの方向の因果もある。日本独特の近代という話でいうと、入れ子構造から浮遊した、近代の関係性みたいな話、そういやずっと前にしましたね。


chiki :してたね。


井出 :これですね
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20060523/p1

大阪大学に草野智氏(臨床心理専攻。支援団体で支援もされてる)が支援についての論文を書いているんですが、その中で、支援には支援者が「変な人」となって場に持ち込まれることが非常に重要だっていってるんです。


chiki :「感染」できる人ってこと?


井出 :一種の感染ですよね。支援者ってのは、勝手に上がり込んで居間で茶のむおっさんみたいな役割ですかね。外部を排除した核家族の中に、異物を挿入するみたいなイメージですよね。


chiki :古い言葉だとトリックスターか。異者であるからこそ規範をかく乱できる、とか。懐かしい。


井出 :そういう効果を期待出来ると思う。本人のガチガチな規範的な考え方に、そういう異物が入ってくると、いろいろな変化が期待出来る。


chiki :でも長田さんはだめ?


井出 :やっぱり失敗した時のリスクが問題になるのかな。支援は失敗することの方が多いんだけど、失敗した時には本人が抵抗したり、家族に捨てられたと言う感覚を持つので、状況が非常にやっかいになっちゃう。だから、失敗のリスクをなるべく押さえて、徐々にやっていくのが一番良いと思うんだけど。長田さんの方法が効果があったとしても支持はできない。


あと、大前提として、本人があとあとふり返って、煮えくりかえるような体験はそもそも支持できない。


chiki :その「効果」の目的とかもね。上山さんと話しているときとか、よくひきこもりとジェンダーについてもう少し精緻な分析が必要だよね、となるので、ジェンダーの話もしたいかも。


井出 :ひきこもりは男性が多いですよね。女性が少なくないというデータはよく見ると、摂食障害が含まれている場合が多い。摂食障害の過食・過食嘔吐ではひきこもり状態になることがあるんですよ。それを女性の「ひきこもり」としてカウントしてる。


macska :井出さんの定義では含まれないタイプのものですか?


井出 : 摂食障害とひきこもりは一緒にしない方が良いと思います。理由は2つです。一つは、摂食障害はひきこもりとは状態がまったく違うという点です。ひきこもりは拒食や過食嘔吐の状態にはなりません。ひきこもりを伴う摂食障害は過食か過食嘔吐ですけども、その場合食べ過ぎたり、食べたものを吐くことが問題になりますが、ひきこもりは何もしないことが問題になる。やはり核となる性質違いすぎる。もう一つは、括弧付きで現象としての「ひきこもり」と言った場合に、70年代以降に起こり、性別は男性で、日本で起こっているものなので、摂食障害は外れますね。ただ、ややこしいですが、現象の原因はおそらく同根だと思っています。


macska :社会構造の変化にまで遡ると、同根に決まっているわけですが。どの程度まで同根だと思いますか?


井出 :大学での「ひきこもり」を本では分析したんですが、その時に問題になっていたのは(1)課題の履行(2)コミュニケーション機会でした。つまり、課題の履行というのは、中学高校生活であれば、授業であったり、テストであったり、と「やらなければいけないこと」が決定されて上から降りてくるんですけども、大学に行くと「選択」の幅が広がると同時に、「決定」があまり降りてこないという生活になってくる。この生活の変化に対応出来ず、「何をして良いか分からない」という状態に陥り、ひきこもり状態になるケースがあります。摂食障害のケースで特に拒食症ですけども、今まで学校で規範的にすることで自分を保っていたけども、成績などが振るわなくなって、その代替手段として体重を減らすことに熱を上げてしまうタイプがいます。この2つは非常によく似てる。


macska :なるほど。逆に言うと、女性は代替手段として摂食障害があることで、ひきこもらないで済む(かもしれない)。比較して楽だとは全然言えないですが。


井出 :どっちもどっちでしょうかねぇ。質的に違う苦しさがあるように思います。


macska :まあ、精神的に離脱できれば、社会復帰は比較的やりやすいかな。


井出 :大学での「ひきこもり」で、(2)コミュニケーション機会を失うことが問題だとも論じました。中学高校ではクラスがあって、そこに朝から晩まで通うので、積極的にコミュニケーション機会を望まなくても、自然とコミュニケーションは保証される。でも、大学に行くと、文系私大なんかが典型的ですけども、クラスがないに等しかったり、授業を受ける人たちが毎時間違ったりして、コミュニレーション機会が自然と与えられない状態になる。この状態で孤立していきひきこもり状態になる人がいます。これもですね、摂食障害でコミュニケーションが上手く取れず、体重のコントロールでつじつま合わせをするパターンと似ている。精神科医の井上洋一氏の行った拒食症の3分類(井上洋一1998「Anorexia Nervosaの臨床精神病理学的研究 -発達論的視点による類型化の試み」『大阪大学医学雑誌』50-1.))ってのがあるんですが、その3分類が「ひきこもり」にも共通している。


macska :3分類教えてください。


井出 :井上論文と井出本の共通点は2つですけども、井上論文では「優等生型」「孤立型」っていうネーミングでした。もう一つは「密着型」です。メカニズム自体をみていると、意外に似ているという印象がある。まだ詳しく分析していませんが。


macska :いつかブログで紹介してくださると嬉しいです。


井出 :了解しました。


井出 :体重のコントロールに走るか、自室へのひきこもるかという違いをジェンダー要因でまだ説明出来てないんですね。


macska :できてないですか?


井出 :わかんないです、さっぱり。女性は見た目に重きを置かれて、本人もその規範を内面化しているから体重のコントロールに走る、とかですかね?


macska :体重コントロールの方は、語彙として社会やメディアから与えられているからではないかと。規範的に起きることではない。たしかに多くの女性は「理想的な身体像」を内面化してダイエットしたりしますが、摂食障害はそれとは別だと思います。その別の何かを、わたしはいつもコントロール感と言っているんですが。自分の体をコントロールすることで、不全感から逃れる。


chiki :なるほど


井出 :コントロール感というのは一番ピッタリくる言葉ですよね。


macska :女性の場合、体重コントロールということ自体はメディアによって与えられているわけです、人は誰も、与えられた言語でしゃべるしかないのと同じ。


井出 :それは、摂食障害へのプル要因ですよね、たぶん。プッシュ要因もあって、それは不全感を生み出す原因じゃないかなと。


macska :痩せるべきという規範に沿った結果ではないと思うんです。そんなにストレートな理由で摂食障害にはならない。


井出 :それはそうだと思いますよ。


macska :不全感がどこから来るのかというところで、伝統的にフェミニズム若い女性が置かれている社会的地位を持ち出すわけですが。


井出 :そうです。


macska :フロイト的には、母の拒絶とか言ったりしますけどね。


井出 :成長恐怖的な理解ですね


macska :そのあたりの価値観を逆転して、あるフェミニスト摂食障害は家父長制への抵抗であると言ってすごい絶賛してたり(笑)


chiki :そういうギャグみたいな議論してる人多いよね、ほんと。


井出 :精神医学の研究では成長恐怖は否定してる論文が多いですよね。成長恐怖型と捉えられる症例は確かに存在するんですけども、発症年齢が若いのと、数が少ないというのが精神医学のスタンダード的な認識だと思います。


macska :ひきこもりが日本経済を復活させる論とそんなに変わらないですね(笑)。まぁフロイト系ですから実証的な理論ではないでしょう。わたし的には、やっぱりコントロール感というのが一番しっくりくるなぁと思っています。とはいえ、そうまでしなくちゃいけないほどの不全感がどこから来るのかは、単純に「家父長制のせいだ」と言って済ませてしまうわけにはいかないと思う。仮にそうであっても、どういうメカニズムなのかと。


井出 :メカニズムが繋がってないんですよね、さっき分からないと言っていたのは。摂食障害で規範が登場するのは、プル要因じゃなくて、プッシュ要因じゃないかと思うんです。その部分は「ひきこもり」と同じだと思います。だから、つまずくパータンも類似する。ただ、引かれ方が違ってるのかなと。


macska :男性がなぜひきこもるのか、という方向はどうでしょう?


井出 :あんまりよく分からないんです。プッシュとプルの要因でいうと、プッシュの要因については割とわかっています。プルの方はよくわからないですね。個人的には、摂食障害を通して見ようとしている問題だというのが正直なところです。今のところの感触で言うと、摂食障害では体重のコントロールを代替手段に使うことができる一方で、男性ではそういう手段がとれないから生活を維持していくための代替手段がなくなり、社会関係を切断せざるをえないのではないかなと思っています。これは、きっちりとした説明ではないですね。


macska :次の本に期待ということでしょうか。


井出 :それでおねがいします(笑)。


chiki :井出さん、次の本出すとしたら、どういうの書きたい?


井出 :何が良いだろうね。 同じようなものは2度は書かないというのは確かだけど。本以降にやってる研究はやってることは2つあって、それを書いておきますね。1つはひきこもり家族についての研究。もう1つは不登校の量的調査。前者は上でも書いたようなライフスタイルの話をする予定。もちろん上に書いたような漠然とした話じゃなくて、分析的に書きます。まかり間違っても、こんな教育をしたから「ひきこもりになった」という話は絶対に違うと思う。親の個人の判断の間違いで、数十万人規模の現象に膨れあがるわけはないし。


macska :混合名簿のせいだ、とか言われたら…。って既に言われているような気がする。


chiki :トンデモ発言データベース作りたいなぁ。あるいはデマデータベース。


macska :トンデモ言説創作コンテストをやったけど、全然いい作品あつまらなかったよね。


chiki :事実は創作より奇なり。


macska :創作は、本物のトンデモ言説のパワーに負けてた。


井出 :後者は、不登校率の地域差を出す研究。郊外と言ってた話と関わるんだけど、不登校比率には地域差があるということが分かってるので、それを量的調査で証明したい。この2つは今やってる研究の中身ですね。あと、そろそろ海外との比較研究を始めて行こうかなって思っています。「ひきこもり」は日本にしかいないって話です。日本文化の影響を強く受けている現象ではあるけど、海外には本当にいないのかどうか。もしくは、別の形で現れているのか、といったあたり。研究の終了予定は、家族が2年後、不登校調査が3年後、海外比較が5年後くらいですかね。それくらいで一定の成果は出せるかなと思っています。ここまで行けば「ひきこもり」という現象の輪郭はほとんど描けると思います。


chiki :なるほど。井出さんは特に、ひきこもりの原因についての議論も積極的に行っていて、丁寧に議論をしていますから、期待しています。


macska : ほんとに丁寧かつすっきりした内容ですね。すっきりしすぎて、根拠なく「こんなにすっきりと理論化できていいのか」と不安になったりするのですが(笑)、考えすぎでしょうか。


井出 :考えすぎじゃなくて、その通りだと思います。「ひきこもり」に限らず社会現象というものは多くの要因が複合的に絡み合って起こってることです。たとえば、階層論で「良い学校に入れば良い収入が得られる」という命題がありますが、あの命題は分散の2割ほどが説明出来る。つまり、実際に起こってることの2,3割くらいはそのモデルで説明出来ますよということ*7。この数字は社会科学者にとっては非常に高い数値だと思いますが、一般的には低いって感じられるんじゃないでしょうか。階層の固定化とか階層化とか言われてる説明力もそんな程度です。


今回の「すっきりした理論化」ってのもそういう形で示したものです。「モデル」という考え方ですよね。 社会科学の特徴はモデルを立てて、そのモデルについての妥当性を測るものなんですよね。社会学も社会科学なので、そういう考え方をするんですが、今回の場合、「ひきこもり」の中でも「学校」で起こる「ひきこもり」に限定してありますし、原因も学校的な要因になっています。


ひきこもりは、男性が過半数を占める現象なので、ジェンダーの要因があることは間違いないですし、1970代から出てきた現象と言うところを見ると、歴史的な社会変動と関わりがあります。その中で、「学校」というところに限定し「規範」という要因に限定したモデルをこの本で扱ったということになります。そういう理由から、ものすごくシンプルな理論、シンプルなモデルの提示ということになっているんです。ジェンダーや家族、歴史的要因など主要要因については今研究しているところです。学校やジェンダーや歴史的な社会変動的要因などから複数の理論を出して、多面的に説明していくのが社会科学の中の社会学の王道的な方法になります。今回はそのモデルの一つを意味的に検証する作業をしました。


chiki :原因論ももう少しクリアに聞いてみたいです。


井出 :はい。原因論を考える時に、因果関係とは何か?ということを考える必要があります。社会学ではマックス・ヴェーバーの整理が一番まっとうです。ヴェーバーは「因果連関」と「意味連関」という2つの因果帰属の方法を提示しています。つまり、ヴェーバーの整理では因果は2種類ある。


「因果連関」というのはAという事象が起きると、Bという事象が起こりうることを指します。つまり、Aが起こるとBが起きやすいということですね。Aが起こるとBが確率論的に多く起こるという話です。計量の研究なんかで、相関係数とか出すじゃないですか。あれが、因果連関ってやつです。


ただ、相関係数が高くても、まったく関係ない現象ってたくさんあるんですよね。Aが起こって全く関係がないBが起こる。共変関係とか疑似相関とか言われるものですね。そういう場合、AとBがどのように関連するかというのは、相関以外の方法で測らないといけないわけです。それが意味連関として整理されている因果帰属の方法ですね。簡単に言えばAとBが「意味的」に繋がるということです。一般的に流通している言葉で言えば「メカニズム」という用語が一番近いのではないでしょうか。


意味連関は因果連関にとっての仮説にあたり、因果連関にとっての仮説は意味連関に相当します。2つの因果には相互関係があって、両者の作業が不可欠ですし、どちらが欠けても科学的な考察はできないんですよ。今回の『ひきこもりの社会学』で示した因果関係というのは意味連関についてですね。


macska :井出さんがコメントで解説してる


chiki :文学理論でいうストーリーとプロットの関係に少し近いのかな。小説の中で「姫が小槌をふるった。<すると>一寸法師が大きくなった」と書くのと、「姫が小槌をふるった。<だから>一寸法師が大きくなった」と書くのとでは、説明の体系や意味が大きく違う。


井出 :そうそう。<すると>の方が因果連関で、<だから>の方が意味連関だよね。


あと、因果の決定に関連させると「姫が小槌をふるった」「一寸法師が大きくなった」っていう2つの現象の相関の大きさは出せても、どっちが原因でどっちが結果かというのも分からない、という問題がありますよね。「一寸法師が大きくなった」から「姫が小槌をふるった」のかもしれない。どっちが原因でどっちが結果なのかということは、意味連関が決定出来ないとわからない。まずは、意味連関での意味的な繋がりを探して、その後にそれを量的に計量して、因果連関を決定する。そこからまた、意味連関へ戻して、意味的な繋がりを再度検討するという作業。これを繰り返すのが社会科学の方法論です。


調査だと、「意味連関」がフィールドワークやインタビューなどの「質」、「因果連関」が質問紙などで行う「量」の調査に相当します。方法的な制約があって、質でカバーできるところと、量でカバーできるところが必ずしも重ならないので、どちらか単独で示さざるを得ないこともありますが、基本的には意味連関と因果連関の往復、質と量の往復を行うことが科学である条件ですし、反証可能性を保証する構造を作っています。


macska :一寸法師のお話を調べて読んでいたわたし。


chiki :ははは。原典はあまり関係ないね(笑)


macska :関係なかった(笑)


井出 :科学的立場とはどういうものか?っていうことが社会学の中でも周知されていないので、本では「社会学とはどう定義されるものか?」というところから実は書いてあるんですよね。「社会学とは何?」と聞かれて答えられない専門家が多すぎる。


「因果とは何か?」ということもそうですよね。出身階層・収入とか(マルクスで言うと下部構造による決定ですが)そういうものを想定する人が多いんですが、ヴェーバーが宗教が資本主義経済が勃興した要因の一つであるという指摘をしたように、マルクスで言う上部構造が社会現象の原因になる場合もあります。


「規範」とか「文化」とかも現象の原因になりうるものですよね。社会学はそういう原因を探ることを第一の目的として持っている学問です。


マルクスの思想がまだ健在だった頃、ヴェーバーというのは、アンチ・マルクスの理論家として取り扱われていた所があって、学説史ではそのように取り上げる人もまだいますが、下部構造と上部構造の対立の点で言えば、その対立構造から見えるものが無いわけではない。マルクスは下部構造のみを原因として想定していて、エンゲルスは上部構造によって下部構造が規定されることを認めつつも、それは下部構造からの反作用に限定される。しかし、ヴェーバーは上部構造による下部構造決定を積極的に理論化した学者です。


下部構造による決定じゃないと「原因」にならないという意見が社会学から出てきたりすることがあるので、ちょっとビックリしてたりするんですよね。


macska :いま現にひきこもっている人がいて、そこから離脱するのが難しくて「治す」方法も確立されていないのは仕方がないとして、せめて本人の心の準備ができれば復帰できるような社会の側の準備はしておきたいですね。


chiki :そうですね。そのために、妙なバッシングなどは中和できるよう、ブロガーとしてできることはやりたいなぁ。


井出 :それは心強い。井出もがんばらなきゃ。「ひきこもり」を社会問題化するというのも、社会学者の仕事の一つですよね。社会問題の構築を分析するのみならず、その構築を行う主体でもあらねばならない。


あと、ニートと言う言葉の罪悪についても語らなきゃいけない。良い面と悪い面があったよね。平成20年度の予算概算請求のプレスリリースの中で、ついにニートと言う言葉は1箇所になった。安倍政権の再チャレンジ(?)の関係で、アウトリーチ事業をするそうです。若者サポートステーション関係の事業として予算が付くみたいですけどね。対応の方もまだちゃんとしてないところもありますが、精神保健センターを中心に対応も改善してきているようですし。そのような援助へ繋ぐことができれば、なんとかなる可能性があって、支援メニューもあるにはあるんですけども、保健所なり精神保健センターなどに相談が持ち込まれないという状況は依然として変わってないように思います。


chiki :検討の余地があると


井出 :情報がすごくあるところと、無いところの差が激しすぎて、支援や社会的資源が潤滑に行き渡らないという状態ですね


macska :あと、不登校の生徒の支援とはどう繋がっているんでしょうか。


井出 :学校に配置されているカウンセラーとか、適応指導教室とかが代表的ですが、不登校になってしまった後は、私学の通信制・単位制の勢いが増加してます。


macska :ああ、そっちになってしまうのか。それでうまくいけばいいんだけれども。


井出 :ただ、ソーシャル・ワークが円滑にいっていないという指摘もあって、不登校文科省、ひきこもりは厚生労働省というように分れていることに象徴的なように、支援・援助をする方も、連携が取れいない部分はあると思います


macska :ああ、分かれるんだ、行政で。


井出 : 不登校問題は教育問題で完結してしまうといった感じで。


macska :不登校が起きる背景を見誤ると、逆効果になるような対策をやってしまいそうな気がします。不登校が若い頃の一時期のことではなくて、ひきこもりの状態になって長引く可能性があるという認識が、不登校の対処の方に悪い影響与えていたりしないでしょうか。


井出 :不登校は放っておくと、ひきこもりになるという恐怖感はありますよ。不登校を抱える親御さんには強く感じます。


macska :そういう恐怖感を強く感じた親は、どういう対策をするんでしょう?


井出 :だいたいのパターンとしては、親の責任で学校に通わせようとしますね。


macska :個々の親には、それくらいしかやりようがないですよね。


井出 :そうですね。登校刺激っていうやつですね。


macska :行政がちゃんとやってくれないと。


井出 :行政としては、適応指導教室を提供してるんですが、学校に近いものだったりするので、学校の外で生きる場を提供して欲しいですよね。


chiki :たしかに。入院させられた精神病患者が、毎日単調な作業で病院内での秩序構成に適応させられることで、むしろ社会に出ずらくなるみたいなことが、不登校やその他逸脱にもあるんだよね。そういう状態にしてしまうとむしろ逆効果。


井出 :小泉政権の特区構想の一環で、数校フリースクール系の公立学校があるんですけどね。全体からみると少なすぎる。


macska :やっぱり必要なのは、変な人というか、学校的価値観の外を生きる人に出会える場所だと思います。実際の社会には、そういう人はまだたくさんいるわけで、大人になれば社会全体が学校的基準だけで覆われているわけではないと分かります。それを早い時点で知ることができたら、適応への強迫感は減るかもしれない。


井出 :そうだと思います。


chiki :そういう豊かなコミュニケーションへの遭遇があるといいよね。


井出 :就労体験も「働く」とか関係なくて「外部」を知る手段として、学齢期での就労体験も良いと思うんですよね。周りのセッティングは大変なんだけどね。


macska :なるほど。さっき出た若者支援のウェブサイトで「農業合宿研修」なんていうアイコンがあるけど、参加者大丈夫なんだろうか。外部と言えば外部ですけどね。でも合宿研修しちゃうと、一種の学校になっちゃう気がします。


井出 :合う人と合わない人がいるという感じですかね。大学でのひきこもりの人とかはまだいけるかも。


chiki :コミュニティであることには間違いないのだけれど、端的なコミュニティ不適応症候群、みたいなのはなさそうだから、ケースバイケースかな。


井出 :朝から晩まで学校にいるのはやめた方がいいですよね。クラブまで学校で抱えてしまって。なんでもかんでも学校で抱えて、学校が肥大化していくのはやめた方が良い。


chiki :中学校の頃、クラブ活動に入るのが強制だったんだけど、本当に困った。家でゲームやるのと、時代劇を見る以外に、やりたいことなかったんだもん。


macska :時代劇!


井出 :それ聞いたことないよ。


chiki :大岡越前とか水戸黄門とかが、夕方4時からやってたのね。小学校はそれを毎日みてた。なのに、中学校は部活のせいでみれなかった。加藤剛大好きだったのに。


井出 :時代劇サークルとかあったらよかったよね。学校の外で、それを一緒見たりさ、時代劇ファンが集まるところがあったら面白そうだと思うんだけど。違った年齢の人とかも交じって。きっと、時代劇とは関係ないことも勉強出来るよ。


macska :うちの大学ね、学生の平均年齢26歳で、パートタイムで大学に通っている社会人がすごく多い。


chiki :早稲田の二文的な楽しみがありそう>パート


macska :学問的レベルはどうしようもなく低いんだけど、女性学の授業はやっててそこそこ面白い。教える側より年上の学生とかいるし。


chiki : 今回のチャットも、多くの人にとってそのような意味で「面白い」ものになっていればいいなと思います。長くなりましたので、そろそろ終わりにしましょう。今日は本当にお疲れさまです。


井出 :お疲れさまでした、ありがとうございました。こんなに真剣に研究の話聞いてもらえる機会はそうそうなくて、非常にありがたかったです


macska :いろいろお話きけて良かったです。


chiki :楽しかったね、チャット


macska :データや資料を次々出してきてカッコイイ(笑)


chiki :そらでスラスラいえるのすごいよね


井出 :暗記パンを食べて覚えてるの


chiki :くれ!

*1:自己本位−集団本位の類型と開放型−拘束型の類型が対応する

*2:保坂享『学校を欠席する子どもたち』東京大学出版:58

*3:2004年度、中学校で不登校状態にある者は10万7人である。このうち3年生の2割がひきこもりに移行すると仮定すると、毎年8,658人が中学卒業後にひきこもりに移行していることになる。また、高校で不登校状態にある者6万7,500人である。そのうち1万4,245人は中学時にも不登校であったため、高校で新規に不登校状態に至る者は5万3,255人。このうち2割がひきこもりに移行すると仮定すると、1万651人が高校からひきこもり状態に移行すると計算できる。「ひきこもりガイドライン」によると中学時で不登校経験を持つ者は31.6%であり、上の計算値でいうと8,658人(毎年)に相当する。この数値から一年間にひきこもりへと新規に移行する(不登校以外を含めたすべての)人数が計算できる。計算すると、2万7,399人になる。つまり、日本で一年間に2万7千人あまりの人々が新たにひきこもりに移行していると考えられるのである。

*4:衣笠隆幸「自己愛とひきこもり」は自己愛型は誇大な自己があるが、スキゾイド型では自己像が傷ついているという違いがあるとしている

*5:Chakrabarti S, Fombonne E. Pervasive developmental disorders in preschool children. JAMA 2001 ; 285 : 3093-3099.

*6:http://d.hatena.ne.jp/iDES/20070831/1188538657
徳島大学教育学部「生育歴からみた登校拒否の発生要因とその予防について」> 問題行動教育基礎情報調査会『教育アンケート収録年鑑1986年度版』主婦の科学社

*7:付け加えるなら、良い学校に入っても出世できないっていうのは社会通念では支配的になってるかもしれませんが、実証研究では近年になるに従ってより強まっていることが確認されている。良い学校に入ることと将来の収入は非常に密接な繋がりがある。