メディアが生まれて叩かれて、また生まれて叩かれて。

Yahoo!ニュース - RBB TODAY - 8割が「電話番号が覚えられない」、5人に1人が「自分の携帯番号を覚えていない」―NTT-BJ調べ
驚くことでは別にないですよね。かつてであれば「電話帳」という外部メモリーがあり、それを参照しながら番号のダイヤルを反復するという体験を含めて「電話」だった。そのために「番号を覚える」という必要があったのだけれど、「電話」が「ケータイ」になり、電話番号をすべてメモリー出来る状態になれば、「覚えておく」ことが必要なくなる。多くの人が番号を覚えなくなるのは当然のこと。要するに、「番号を覚えさせられるような機会が減っている」というお話。そして記憶の外部化によって変わったメディア配置は、別のリテラシーなどを求めるようになる。


特定のメディアの配置によってもたらされた条件は、一定の間、人々に共通したふるまいや慣習などを広める。例えば「電話番号を覚える」というのもそのひとつ。仮に黒電話の頃からメモリー機能がついていた場合、「番号を覚える」という文化は生まれなかったろうし、「番号を覚えない人」が叩かれることもなかったろう。


文字や書物が出来たときも、「記憶の外部化」について批判する言説があった(例えばソクラテスによるものなど)。今ではそれは自明のものとして受け入れられていて、一方で電子機器で外部化する人は未だに叩かれることがある。


メディアの配置が変化すると、そのふるまいを内面化した人が、あたかもその期間に形成されたふるまいこそが最上のものであるかのごとく、あらたなメディア配置の条件を受け入れている人を叩く。それはこれからも続いていく。50年、100年経った時も、未来のメディア論者がそれらを分析しつつ、その時代での「新しいもの叩き」言説を検討することだろう。「今自明のものとされているメモリー機能でさえ、当時は叩かれていたのである」と。


メディアの配置によって振る舞いが変わることは、内面的な問題ではなく環境的な問題だ。だから個人的な反応として、「上の世代」の人が「下の世代」の文化やメディアを批判する場合、「でも、それが当時からあったら、あなたぜったい使ってたでしょ、それ」といつも思う。でも同時に、そういう自明性の世界を生きてきたのだから、ある程度はしょうがないとも思う。管を巻く権利はきっと、誰にだってある。一定の範囲内であれば*1

*1:その範囲をめぐる議論が重要なんだ