「いじめと現代社会BLOG」更新、そして内藤朝雄さんとの対話のこと。

いじめ研究を行っている内藤朝雄さんのインタビューなどを掲載した「いじめと現代社会BLOG」を久しぶりに更新しました。ロングインタビューを掲載して間もなく、引越し作業でネットが利用できなくなったためしばらく放置していましたが、ようやく念願の目次、そして感想リンク集をアップすることができました。これで、キャンペーン後にブログを訪れた人にも、サイトの内容が分かるようになったかと思います。


せっかくなので、内藤さんのインタビューについてコメント。内藤さんのインタビューは、4〜5時間以上の時間をかけ、様々な論点についてお聞きすることが出来ました。また、インタビュー後も、近くのバーで数時間語り合うことができました。内藤朝雄さんは実に面白く、優しく、知性に対して誠実な人だという印象を持ちました。そのように思ったからこそ、インタビューの流れとは別に、chiki は次のようなことをお伝えさせていただきました。

【chiki発言要約】
内藤さんの使っておられる「精神的売春」というフレーズが気になっています。本人が望まない形で、自分の最も大事な価値観を譲り渡すという意味のフレーズであり、問題喚起的な、関心を集めることを目的とした意図的なフレーズだということは分かります。
「精神的売春」という批判は例えば、「セックスワーカーの人はむしろプライドをもって仕事をしている人もいるが、精神的な売春は…」という意味が込められている。ですが、基本的には「売春」というのが社会的に劣悪なものだと思われている俗情を利用した形になっていますよね。俗情を利用することで浸透率を高めようという、その意図は分かります。ただおそらく、「売春」というフレーズを使わずとも、いやむしろ使わないからこそ多くの人に訴えかけられるコピーはあると思います。
(…)聖なるものと賎なるものを逆転させるという方法ですね。分かります。だからこそ、「売春」というフレーズである必然性はないと思うんですよね。
周辺的な理由をいくつかあげさせていただくと、セックスワークと言っても多種多様。例えば私の周りでは、学校に適応できないがゆえに、オルタナティブとしてセックスワークをするという子が何人かいます。友人の例をひとつ挙げます。学校でも家族でも承認を得られず、人一倍努力したにもかかわらずどこにも居場所を見つけられなかったが、セックスワークだけは短期的な承認が得られる。しかし彼女は、その選択が最良であるとは決して思えず、それが社会的にまずいことも知っている。そういう子は、そのフレーズだと二重の意味で否定されてしまいかねない。
あるいは、内藤さんの議論をまず参照する人というのはリベラルな人が多いと思うんですが、その人が口にしやすいフレーズであることも必要ですよね。キャッチコピーが広がるためには、本人の手を離れて一人歩きし、各々が各々の文脈で応用できるようなものである必要がある。精神的売春というフレーズの場合、特にリベラルな人たちの間、あるいは学校現場の人たちの間では、広がりにくいのではないでしょうか。
(…)そこでもう一つの理由なんですが、いじめ問題といった時、学校空間のいじめだけでなく、職場や地域になじめないというようなレベルから、日本社会になじめないというレベルなど、様々なレベルがあると思うんですよね。で、いじめを是正する際、社会においていじめられている対象を比喩として使うことによってその構造を反復してしまうということは、形式的な矛盾を生みうるのではないかと思うんです。
保守的な教員達の集まりの場で、「あなた達が行っていることは、実は精神的な売春ですよ」と伝えることは効果があるのかもしれません。私はそのフレーズをタブー化したいわけではなく、禁止することも出来ません。TPOもあると思うんですが、新聞などに掲載する際にそのフレーズがあると、学校で取り扱いにくかったりするというのもありそうですね。とりあえず、注釈としてお伝えしておこうと思った次第です。

【chiki発言要約】
ところで内藤さんは、ブログエントリーを書く際、フォントを大きくしたりしますよね。あれ、左翼や右翼のアジビラに見えちゃうんですよね。多くの人はギョッとしたりして、ブログの信頼度に大きな影響があるように思うんです。
以前「ネット右翼の例」として、女子高生が砂場で誰かをボコっているキャプチャー画像を載せてましたよね。あるいは、「右でも左でもないリベラル勢力」という主張を書く際、安倍晋三さんと石原慎太郎さんのツーショットを、ヒトラームッソリーニのツーショットと並べて掲載していたり。これは、手法的な批判はさておき、一部の人は面白がるかもしれないけれど、一般にはドンビキされるんじゃないかと思います。
仮に内容がまっとうでも、アジビラ調であるという理由で、見なくなる、距離を取る人はかなりいるでしょう。例えば内藤さんのブログは、デザインを変えて、フォントを拡大せず、形容詞など修飾語を抑えれ、メッセージ内容を前面に出せば、まったく違った受け取られ方をするのではでないでしょうか。
前に修飾語のポリティクスって呼んだことがあるんですが、淡々と事実を分析して主張するのではなく、否定したい対象には「許しがたい」「卑怯な」「非民主的な」という修飾語をつけ、肯定したい対象には逆のことをすることで印象を誘導するような方法がありますよね。でも、この方法だと、印象操作の部分、コンテクスト闘争ばかりが前景化してしまって、コンスタティブな議論ではなく、パフォーマンスばかりが先走ってしまうような気がします。そのパフォーマンスによって、距離を取られることもあるでしょう。
内藤さんは、素朴に読みやすいだろうと思ってフォントを大きくしているんですよね? でも、それは必ずしも、読者がそう感じてくれるわけではない。デザインがいいブログって、なんとなく内容も信頼できたりするので、「社会を変えたい」のであればそういう観点からもパフォーマンスも考えてみるといいかもしれないですね。


「いじめ」という問題を解決するための方法を議論する場を構築するという目標から、まずはコンスタティブな分析の共有が必要と思い特設BLOGを構築させていただきましたが、ある意見をバイラルで広めていってもらうためには相当の配慮が必要になります。PR においては、当然ながら「正しさ」や「論理的精緻さ」だけでは不十分。括弧つきの<正しいこと>を行動決定の上位に置く人というのはごく一部なので、それ以外の要素で何が必要かを検討しなくてはなりません。


もちろん、ご本人が「自分はとても不器用」だと仰るように、そういう配慮は別の人がやるのもいいとも思います。アイデアを出す人とコンテンツを作る人、それを PR する人はそれぞれ別でもいい。内藤さんの愛読者からそういう方が出てくるのであればそれもまたよしなのですが、過度に期待は出来ないかと思います。


固着し自己目的化した運動、自己表現を優先して採算度外視するアピールを批判する内藤さんだからこそ、同種の陥穽に陥らないでほしいと思ったため、僭越ながらかような指摘をさせていただきました。特に内藤さんが批判しようとしている対象は、どのレイヤーの問題でも「祭りのプロ」だったりするので。