「啓蒙のイロニーからイロニーの啓蒙へ」へのお返事を枕に、最近考えていることをつらつらと。

『表現者 2007年 03月号』触れたエントリーにおいて、「八木さんの、『基本法が悪いから○○とか××などの問題が生まれているのだ』ということは実はあまり信じておらず、“為にする議論”なのは分かっていたが基本法改正を実現させるためにあえて繰り返していたというような発言は、いろんな意味で貴重」と書きました。その部分について、id:NEAT さんより以下の指摘を戴きました。

おそらくchikiさんが引かれているのは下記の箇所ではないかと思います。

マスコミが議論していた愛国心だとか伝統、文化だというのは、私は目くらましだと思ってきたんです。

もしかしたら、 chiki さんの引かれた箇所とちがっているかもしれません。ですが、もしそうだとしたら、 chikiさんが指摘されているようにまで、解釈して良いかどうかは「微妙」ではないでしょうか?読者の判断を待ちたいと思います。

ところで、私には実は頭の良いネオコンと頭の悪いネオコンの区別がついていません(笑)。そもそも、良し悪しを、誰がいつどういう基準で判断するのか?というのがあるんですが、良し悪しなんか関係ないよ「やったもの勝ち」で勝ったものが「良し悪し」を決めるというのが私のネオコンのイメージです。だとすれば〈宮台真司〉が「本当に」動員したもの勝ち、勝てば官軍と思っているかどうかは「微妙」だと思います。その意味では、 chiki さんの仰るとおり、「いろんな意味で貴重」だといえるでしょう。いわゆる啓蒙がシニカルへの耽落しか生まないとすれば、そうした事態をこそ反啓蒙するための「あえて」…、いや、あまり纏めてしまうと、それが「啓蒙」だと怒られてしまいそうなので、この辺でやめておきます。


コメント部分が面白かったのでレスしたいと思います。が、その前に、引用している箇所は id:NEAT さんが指摘してくださった部分と異なります。chiki が念頭に置いていたのは、次の部分です。

西部 (宮台の“自称右”に対する批判を受けて)国状の一部として学級崩壊だの学力低下だの、あるいは子どもの生態で言えばいじめだとか引きこもりだとか、そういう状態が広がっていると言われている。仮にそうだとしたら、それが教育基本法のせいだとは直接的には言えないよね。それこそ国民の意識、態度の問題として、そういうふうな子供たちの状態が生まれているとしか言いようがない。ところが世間では、僕が知る限りこんな感じで整理されているんですね。「教育基本法で子供の権利のほうに思想が傾いている。かつて寺脇という文部官僚がいて、ゆとり教育の旗をふった。そしてゆとり教育が行き過ぎたから学級が崩壊し学力が低下した。そういう学校の混乱のなかで子供たちが精神の心棒を失って、いじめに走ったり、引きこもったりしている」と。
宮台 馬鹿げている(笑)。脳はあるのか。
寺脇 (…)大人たちが混迷している原因が、彼らの子供時代の教育にあって、それは教育基本法のせいだという議論ならば、それも変だとは思いますが分からんでもない。でも、そういう問題ではないわけですからね。本当に何かをやろうとしていて学力低下はけしからんと言うんだったら、大人の学力を上げろだの教養を身につけろだの美しい日本語を話せだのと言うことに、そもそも無理がある。つまり私は理念じゃなくて現実のほうを見てますから、現実のこの状態を解決するにはどうしたらいいかといったら、子供を絞り上げれば、あるいや甘やかせばいいというわけでもなくて、こっち側、つまり大人の問題だと思うわけですよ。そうするとますます、そういう現状と教育基本法云々という話はまったく乖離したものだとしか言えない。
八木 実際の教育の問題を教育基本法と結びつけるのは、基本法を改正したかったからで。その意味では為にする議論です。ただ、旧基本法のなかにも改正基本法のなかにもありますけれど、個人の尊厳とかいう言葉や概念を悪用して、子供の権利だとか言う勢力が実際にはあった。これはもちろん子供の教育問題に限らず、憲法を持ち出して過剰に個人主義や自由を言い立てる人たちがいるわけです。
(…)日教組が旧教育基本法の文言を盛んに利用しながらそちらの方向に持っていって、その結果、学力低下や学級崩壊になったという説明の仕方も、実は説得力があると私は思っています。そういう意味では最終的に教育基本法に問題があるとも言えるわけで、だから今回、基本法が改正されたことも、無意味だとは思っていない。十分意味があることなんですけど、ただ基本法を変えただけで今の教育が全部よくなるというのは、明らかに論理の飛躍がある。
(この後、いじめや引きこもりはリベラルデモクラシーの問題だと西部さんが言い、宮台さんが突っ込む)


「ただ…」以降はいつもの持論*1展開で、特に「諸問題を基本法に還元できるか否か」という議論を、「今回の基本法改正で十分か否か」という議論にすり替えているのは天然のなせる業なのかなと。それはさておき、アンダーラインの部分を文字通り捉えれば、これまで八木さんが「少年非行の増加」や「援助交際」はゆとり教育のせいとか、若者夫婦のセックスレスは「男女混合体育」のせいとか、いじめは日教組教育のせい&ゆとり教育で暇なせいとか散々言ってきたのは、基本法を変えたいための意識的なアジだったという発言にとれると思うんですよね(ついでに言えば、活字ばなれはジェンダーフリー教育のせいとかなんとか言っていたのも、「(男女共同参画基本法を改正したかったからで」ってことなのかな、やっぱ)。そもそもの西部さんの「世間」のまとめからして、八木さんの意見の要約に読めてしまうんですが。どう思います?>id:NEAT さん&みなさま。


八木さんのこの発言は、宮台さんが議論に参加することで生まれる「“あえて”振舞うほうがクレバーなんだぜ」的な空気につられて発言したのかもしれませんが、短期的な「動員」についていえば「賢明な」やり方だったと思う一方で、もし本当に自覚的だったなら八木さんの場合は舞台裏見せちゃいけないタイプの“あえて”だろ、とツッコミたい。“あえて”を共有する知的紐帯を作りつつ批判言説の直進力をあげるという宮台さん的アイロニー(これ、“アイロニー”じゃなくて“パフォーマンス”の方がいいですね)と、大衆を情報格差等を利用して“あえて”扇動する八木さん的オピニオンリーダー、というのは“あえて”の意味が違うと思うので。大丈夫なのかな、八木さんの今後。


ただ、八木さんが自覚的な煽り屋であるか否かというのはあまりどうでもよくて(八木さんの今後も)。気になるのは「シニカルへの耽落」というところ。以下は返事の枠をこえて、連想的につらつらと。


「シニカルへの耽落」といったとき、それが気分の問題なのか状態の問題なのかで話は変わってくるんですが(ていうか、シニシズムアイロニーの緊張関係のとり方って論者によってまちまちで、定義しながら進めないとえらいことになるんですが)、仮にある種の状態を指すのであればそれは避けられないことだし、「イロニーの啓蒙」でシニシズムに抗えるかどうかは結構ビミョーではないかと思うんですよね。つまり「耽落」という価値判断がされるようなものなのだろうか、と。


シニシズムは「啓蒙への虚偽意識」ではなくて「啓蒙された虚偽意識」。つまり「啓蒙」が完成・浸透すれば「よりすばらしきもの」になるということがありえないということ自体が「啓蒙」によってもたらされる状態。そして「啓蒙」のスタイル自体が分化・多極化しているということが自明になった状態にでてくる言葉だと思うので、これに抗うことって出来るのだろうか(「『よりすばらしきものになるということがありえない』というのはわかっているけど、こうするよ」という態度、あるいはそれによってもたらされる第三者効果的な行動パターンもシニシズムだと呼ばれるので議論が混同しそうですが、ここでは便宜的に一応区別)。そこで培われる「気分」の問題であれば「抗う」ことは出来ると思うんですけど、ただそこでは「自分はイロニーでコミットしている」という態度もワンオブゼムのトライブになるし、その意味で「シニシズムの状態」は変わらないだろうと。本人が「でもやるんだよ!」とかやたらアツかったとしても、別の仕方があることを私たちは知っているわけで、極めて個人的な意識の問題にならざるをえない。


それでも特定のトライブの作法こそ「啓蒙」にふさわしいとし、それを広げようとすることは可能。ただ、それが成功するとはあまり思えないんですよね。私たちは既に、人間としてありうべき作法とか必要な教養や知識、スキルとかがかなり分化、モジュール化している(ことを知っている)。あまりに選択肢が広がっているので、共通のOSとかをのっけることが厳しいし、強引にそんなことをしようとすればむしろシステムが回りづらくなる。例えば「保守」的な感性を共通のOSにしたがる人の気持ちはよくわかるけど、端的にうまくいかないだろうなと。


「ありうべき人間像」はトライブごとに違っていて当たり前で、例えば今の日本全体をひとつのトライブに染めるっていうのはムリでしょう。例えば最近「平和ボケ」ってセリフをあまり聞かなくなりましたが、chiki は「平和ボケ」という言葉自体にあまりリアリティや有効性を感じないんですよね。なぜ「国民」という変数にこだわった上で万人がほかならぬ軍事ネタ、戦争ネタ、歴史ネタに関心を持つ必要があるのかが分からないし、「有事の想定」を酒の肴に呑む事が、「昨日見つけたOSのバグ」とか「古田選手兼任監督の是非」とか「桜庭戦のヌルヌル疑惑」とかを酒の肴にするより意義あることだとは思えない(その手のコンセンサスはある程度あったほうがいいとは思いますが)。そもそも成員全員がシステムの心配をしなきゃいけない状態の方がおかしいし、国をシステムの最上概念にするという発想もムリがきている。


成員全員が様々なシステムのメンテナンスに対する予備知識がある状態というのは、原初共同体なら可能だったかもしれない。普段はそれぞれの仕事をしているが、システムにエラーが生じたら、誰でもそこそこ対応でき、有事になったら「立派な戦士」になれるというようなビジョン。でも今は、特定のシステムに興味を持つのは一部であることが常態で、仮に万人が特定のシステムに配慮しなくてはならないとするなら、それはよほどのイレギュラーな場合に限る。なぜなら単純に、かつての「市民」「国民」概念が有効だった時期と比べて、扱うべき情報が比べ物にならない数になっているわけです。


例えば「ライフラインが断たれたらどうするのか」とかいって不安を煽って気分をひきしめる番組がたまに放送されますけど、生活に密着しているかような情報でさえ、多くの人は「あらまぁこわい」とか言いつつすぐにスルーして忘却する。忘却に対して警世的な議論とかは頻繁に行われるし、それらに一定の機能はあるんですが、でも忘却できる状態であり続けるほうがベターでしょう。水道トラブルとかに対処できるような技術を万人が身につけるとかは不可能だから、「大多数平和ボケ、一部メンテナンスのプロ」という具合にモジュール化していくしかない。大多数が「平和ボケ」でいられる常態をキープするため、特定のジャンルに興味がある人は、「オレのジャンルのすごさにリスペクトしろ」とか言う前に、他の人に気づかれないうちにそれをキープすることを考えたりしていくしかないわけです。


そうすると、「和服の着方を知らなかろうが、踊りやお茶を知らなかろうが、せめて育児と料理くらいは女子なら誰もができるように」みたいに、「ありうべき姿」みたいなものも徐々に縮減されていかざるをえないわけですが、それすらもスタイルの問題になっている部分が多分にありますよね。そのスタイルを擁護すべく、「母の手料理を食べさせないと子供はアイデンティティが崩壊する」とか「母乳で育てないとホルモンバランスが崩れる」とか、かなり怪しい言説を飛び交わせる人もいますけど、それらはスタイルを擁護するために選ばれた言葉にすぎないわけで、逆の結果がでたとしても変わらずそのスタイルを好むと思うんですよね、その人は。もちろんそれで全然いい。


「保守」との絡みで、例をもう一つ。「ごく普通」のノンポリサラリーマンの子供に生まれた少年が、大学に入って小林よしのりやら西部さんやらの「保守」的な言説に触れ、「保守」的なライフスタイルに感染し、「保守」的な知識をガシガシインストールしていく。大学のキャンパスを歩いている同世代に対して「平和ボケだ」と罵ったりしながら政策パッケージを内面化していったり、「国を憂う」内容のシンポジウムとかに参加してみたりするのを行動様式として採用する。彼は別に「いままで家系的に保守だったから、自分も受け継ぐ」という意味で保守主義を採用したわけでもなければ(伝統としての保守)、「過去を選択しなおす」ような論理によって方針を定めたわけではなく(手法としての保守)、トライブやメディアの持つ人格的承認機能に触れ、保守主義的な言説に触れるのが好きな保守趣味的な人になったってことですよね。実際、同世代の「保守」な人とかは、「過去の人をリスペクトする!」みたいな態度にシビレているだけで、ガチで徴兵制復活して自分が先陣きって闘うとかはあまり言わない(論争とか言説のムードで「覚悟」を示して「リスペクト」を得るために言うことはあるかもしれませんが)。「死に方用意!」へのリスペクトと戦争批判、かつての戦士の意義と、核批判、市民擁護が同居してたりする般若の歌詞みたいなバランス感覚でいるわけです(PV歌詞)。


既にある程度「新しい生き方」なるものが浸透している状態であえて「伝統」というものを再インストールしようと訴えた場合、「過去を参照する」というロジックは既に通用しなくなっているわけなので、その実極めて時局的な政治判断としか基礎付けられない。それでもかようなしかたで保守主義へコミットした人たちを「日本の伝統を受け継いだ人たち」と評価するのであれば、それこそワンオブゼムの保守コミュニケーションというのが存在するということに他ならないわけですが、そのような選択が起こる状態自体が啓蒙によってもたらされたシニシズムだといえてしまう。


トライブを選択することは、啓蒙の仕方を選択すると同時に、そのトライブからみた他の諸トライブの観察方法を選択することでもあるから、保守な人は「伝統は大事だ」とか「今こそ国体の復活を」とか「サヨクはけしからん」とか言うわけなんですけど、そのパターン自体には他のトライブとの有意な差はほとんどない(ことを私たちは知っている)。大学に入ってNPOにハマって「環境問題は大事だ」とか「今こそリサイクルの重要性を」とか「劣化ウラン弾はけしからん」というのも、オタクになって「ガンダムは基礎教養」とか「今こそツイパラの復活を」とか「ギャルやヤリサーはけしからん」というのもあまり変わらない。そこで起こりうる「いや、保守主義を選択するのはそれらとは違って」というような反応自体も、トライブを選択したときに生じる「他トライブの観察」を守っているという話になってしまう。「あなたは『伝統的』なライフスタイルを選択している人なんですね」とか、「あなたは『スローライフ』を選択している人なんですね」とかの違いで済んでしまう。


これは特定の政治思想とかを貶めたいわけではなくて、もちろん「保守」に他のものを代入しても同じです。私たちの議論には、その議論が持つ人格的機能とか、立場やトライブの選択が必然的に含んでしまう他の選択肢の排除や緊張関係とかが多大に関わってくる。しかも、学的なコミュニケーションや「ある種の知的な気分」になっているときは「論理」のみがフレームアップされるけど(されたほうがいいと思うし)、普段はキャラとかテンポとかを重視してたりするので、プライオリティもその都度で変わる。


その中で、特定のトライブに対し、トライブの観察を超えた優位性みたいなもの、必然性みたいなものを何かの思想が見出せるかといえばかなりビミョーで、その時々、時代の気分とかで何が説得力を持つか、今は何が必要か的なバランスの話になってしまうのではないだろうかと(「底が抜けた」といわれるゆえんですね)。かような状態をシニシズムと呼ぶとして、それに対して価値判断するなら、chiki はかような状態は結構いいもんだと思ってるわけです。問題も多々ありますけど、基本スタンスとして。で、出来ればそれらに対して出来る限り寛容である状態であってほしいなと、chiki のようなワカゾーは思うわけです。


まだまだ長くなりそうだからこの辺でとりあえず切りますが、注意しておくと、別に人格的に「底が抜けた」状態がいいとか言っているわけではなく、トライブを選択したり、コミュニケーションにノったりすることで、その場その場で「底」みたいなものは補われていくと思うし、どのメディアも選択できない状態は厳しいから対処があったほうがいいと思う。

*1:八木さんお得意の、「教育勅語が否定されたために基本法が(゚Д゚)マズー→それを日教組が利用してさらに(゚Д゚)マズー→まずは基本法改正でサヨクを押さえ込んで(゚∀゚)ウマー→そのためには“為にする議論”で不安を煽って(゚∀゚)ウマー→改正したら“教育改革”で(゚∀゚)ウマー」ってこと。