『マンダレイ』にみる自由と監視のアポリア。

マンダレイ デラックス版
マンダレイ デラックス版


ダンサー・イン・ザ・ダーク』『ドッグヴィル』のラース・フォン・トリアー監督が放つ「アメリカ三部作」第2弾。1933年、ドッグヴィルの町を去ったグレースたちは、アメリカ南部の大農園“マンダレイ”に辿り着く。彼女たちが訪れたこの地は、奴隷制度が未だに残る閉ざされた世界だった。グレースは黒人たちを助けようとするが…。 (「Oricon」データベースより)


ラース・フォン・トリアー監督「アメリカ三部作」の第二弾『マンダレイ』(allcinema ONLINEへのリンク)をようやく観た。『ドッグヴィル』(以前書いた評)同様、ミニマルなセットのみによる演出で、ストーリー同様最低限の「構造」だけを繋げさせる構成。また、終始パントマイムによって演じられるという手法によって、「各人がそれぞれの役割を演じること」自体が強調される仕掛けになっているのも、前作と同じ。


ストーリーはこう(ネタバレあり)。ギャングの娘、グレースは、父親らと共にアメリカ南部の農園「マンダレイ」に到着する。その農園では未だに白人が黒人を鞭打って働かせており、70年以上も前に廃止されたはずの奴隷制度が残っていた。グレースは黒人たちをすぐに解放する。そんなグレースに、農園の主であった「ママ」がひとつの頼みごとをして死ぬ。その頼みとは、「皆のために、ベッドの下にあるものを燃やすこと」。グレースはこの依頼を断りつつ、「皆のために」いくつかの介入を行うことを決める。それは、グレースなりの民主主義「自由と平等」をレクチャーしようという試みだった(父親はそのような介入に反対し、その場を去る)。しかし、そのレクチャーはことごとく裏目にでる。その理由について考察させることがこの映画の肝だ。


グレースが来るまでの間、奴隷達を縛っていたいくつかのルールがある。それはベッドの下にあるもの=「ママの法律」だ。「ママの法律」とは、細かな決まりごとが百ページ以上にもわたって記されている古びたノートのこと。グレースはこのノートを抑圧の象徴としてとらえ、黒人に対し解放された後の自由を享受させるべく、ノートに書かれているいくつかのルールに抗う行動に出る。例えばそれまで立ち入り禁止にされていた雑木林を切って黒人達の家の修繕に使うこと、食料を対等に配分すること、コミュニティの決定は多数決によって行うことなどなど。


しかしそれらの行い=抗いは、短期的には「自由」の象徴であるかのように映ったが、しばらくたつとしっぺ返しをくらうことになる。例えば解放され、消費された雑木林は、元々は防風林として機能していたため、「マンダレイ」は砂塵に襲われてたちまち食糧難になってしまう。食料の対等な配分は、「抜け駆け」に対するルサンチマンの過剰性を生み、多数決はしばしば歯止めの利かない暴力を正当化するために行われる。「ママの法律」は、農園の秩序を保つための管理の手法として機能していたため、それを破棄することはその機能すらも破棄することになってしまう。


ママのノートの中でも最も印象的なものが、各奴隷に番号を振り、奴隷のそれぞれの役割を分類した項目だ。項目は「泣き虫黒人」「役立たずの黒人」「誇り高き黒人」「おしゃべり黒人」など7つ(この項目をめぐって映画の中ではある仕掛けが行われているのだが、今回は割愛)。グレースはこれを、権力による非人間的な管理の手法だと捉え、憤慨する。それぞれの役割にハイアラーキーが与えられ、上下関係を構築するための暴力的な行為だと思われたからだ。しかし、映画がクライマックスになると、実はそのノートの中身を多くの黒人が既に知っており、コミュニティの秩序を保つためにあえて「各人がそれぞれの役割を演じること」を守っていたことが分かる。「マンダレイ」では、奴隷制度がただ漫然と続いていたわけではない。「自由や平等」よりも、奴隷であるがゆえ、虐げられる立場であるがゆえの幸福を選択していたのだ。


「『自由や平等』よりも」と書いたが、これはいささか語弊を招く。物語の最後で、黒人の一人がグレースに対し、「農園の周りの柵はそれほど高くなく、ハシゴを使えばいつでも越えられたはずなのに、自分達がそれをしなかったのは頭が悪かったからだとでも思っているのか?」という趣旨のことを問う。つまりそこでは「役割から降りる自由」も、「演じ続ける自由」同様に実はあったのだが、彼らは「降りる」方がリスクだと考え(実際、映画の中では、「降りる」選択をした者は無惨な死を遂げている)、あえて「演じる」ことを選んでいたのだ。


物語のラストでは、グレースを除くコミュニティの成員が全会一致である結論に達する。それは、グレースを新たな「ママの法律」にすること。元々はママもまた、「皆の嫌われ役になる」という役割を演じていたのであり、絶対的な権力者というわけではなく、むしろ「平等に」配役されたプレイヤーの一人にすぎず、秩序を管理するための共演者であったのだ。実際、「ママの法律」は「ママ」が書いたものですらなく、黒人の一人が「みんなのために」作ったものであり、「ママの法律」は「みんな」が「幸せ」に暮らすための台本であった。すなわち、コミュニティの成員は、「グレース型の自由と平等」よりも、「マンダレイ型の自由と平等」を選択していたと言えよう。そして、それが映画の最後で「再」確認されたというわけだ。グレースは黒人達のそのような希求に耐えられず、即座に逃げ出すことになる。そして、次の舞台へと駆けていくのであった。


同映画は黒人差別の問題や、あるいはエンドロールにイラク戦争に送られる黒人兵士やブッシュ大統領を映すショットが流れることから、「イラク戦争批判」という文脈で解釈されがちだ(「公式サイト」およびインタビュー等においてすらそうなのだ)。だが、「グレース型自由と平等の押し付けがましさとその失敗」を嗤うこと(反ブッシュ的な態度をとること?)は簡単でも、「グレース型自由と平等」自体を否定することは難しいはずだし、一方この作中では「マンダレイ型の自由と平等」自体も非常にグロテスクなものとして映されているように、マンダレイもまた「アメリカ」の側面の一つとして描かれており(それも「南部」なのだ)、「介入反対=イラク戦争反対」として単純に読み取ることも不可能なはずだ。むしろここで問われるのは、「自由」のもつ二つのグロテスクな側面の圧倒的な対話不可能性だと思う。


ドッグヴィル』と続けて観ると、ここにある図式の反転が起こっていることがわかる。前作でグレースは、手痛いスケープゴートに合ったのちにギャングの父を利用することで、「権力の賢い使い方」を学んだ。しかし、『マンダレイ』では、根本的にそのような「権力」自体が通用しないのだ。権力者が民衆を「管理」しているという図式であれば、グレースの介入はパターナリスティックな論理(より賢い権力的な介入!)で正当化できるかもしれない。但し、「マンダレイ型の自由と平等」のように、成員すべてが「納得したうえであえて」差別的な劇を演じ、互いが互いを、そしてコミュニティを「管理」しているとしたら? この問いは「自由」に対する大きな問いとしてのしかかるだろう。


映画としてのスリリングさは、『マンダレイ』よりも『ドッグヴィル』の方が上だったと思うが、これは『マンダレイ』における葛藤の図式がより複雑化したことにもよるものかもしれない。そのため単体での評価が難しい作品になっているが、その点も合わせて3作目に期待したいと思う。次の舞台は「ワシントン」だという。そこではどのような「構造」の「管理」が行われているのだろうか。