トラックバック論あれこれ。

揉め事がいやなのでまずは抽象的にかきます。いつも見ている割と人気のブログAがあって、そのサイトに対して言及もなにもないトラックバックを頻繁に送っているブログBがあります。AもBも政治的なオピニオン系のサイトをやっていたりするんですが、ブログBは、ブロガーAとはイデオロギー的にはむしろ逆の立場で、淡々と(直接Aではなく)Aの立場へのヘイトエントリーを書いていたりするブログ。で、そういうエントリーを、読者数の多いAのサイトにトラックバックを送ることで、自分の側の意見に引き寄せようとしている。自分がA寄りの立場だとちょっと腹がたったりもするけれど、よくある光景だし、時にはそういうのも必要だと思う。



chikiは、こういうトラックバックをしばらく個人的に「横取りトラックバック」とか「寄生トラックバック」と呼んでいたりしたのだけれど、他の人がなんて呼んでいるのか気になって検索してみると「売名トラックバック」と名づけている人もいたりした。他にもこういう分類とかこういう分類とか、いろいろあって参考になった。



他にもいろいろトラックバックを分類しているサイトがあったりしたけれど、その多くは「トラックバックによる繋がり方」を分類しているようだった。一応、言及があるかないかという形式のレベルと、内容に関係があるかないかという内容のレベルにおいて大雑把に分類すると、次の4つになるだろうか。


  • 言及あり―関係あり
  • 言及あり―関係なし
  • 言及なし―関係あり
  • 言及なし―関係なし

言及のある/なしは、「本文に特定のURLが含まれているか否か」という話なので、単純に形式的な問題として理解できる。で、その関係の仕方、つまり「繋がり方」のコミュニケーションパターンはいくつかあって、中でもekken♂さんが行っていたりするようなものが秀逸だと思う。



「言及なし―関係なし」の場合は結構嫌がられるケースで、スパムとかはこれにあたるのだと思う。「言及あり―関係なし」というのは、「あとでよむ」とかクリッピングしているサイトとか、日記の最後に無意味に貼ってあったりとかだろうか。で、今回考えさせられたのは、「言及なし―関係あり」という組み合わせ。



最初に紹介したケースの場合、ブログの名前を売ること自体が目的というよりは、「より多くの人に自分の思想的立場に染まって欲しい」とか、相手側の立場の客層を自陣に横取りしたいという目的もあるだろうから、「横取り」とか「寄生」呼んでいた。でも、この名前だと「言及なしTB」が絶対的にまずいかのようニュアンスをもつので、どうもあまり気に入らない。そういうものも、ある価値のレベルからは認められるべきではないかと思っているからだ。



例えば、特に政治系オピニオン系サイトでは、言及はないけれど別のサイトの読者に向けて「それは間違い、こっちを見ろ」と誘導したりするもの、「関連して、こっちの情報もどうぞ」と認識を上書きしていくようなものもあれば、書き手に「これ読んで認識を新たにしてほしい」と促すものもあるし、その際も、新たなエントリーだけじゃなく、過去に書いたエントリーなんかからTBを送ったりすることもあったりする。他にも「とりあえずその議論にノってみる」というようなものもあれば、ほとんど内容のない形式的な揶揄だけのTBだってあるし、ほとんど嫌がらせとしか思えないようなものもある。これらの是非は、単純に言及のある/なしでは判断できないし、一方で内容の関係ある/なしでも判断ができるわけではない。言及も関係もあって、本人たちも喜んでいるけれど生産性がないトラックバックだってあれば、言及もないし関係もほとんどないし、本人たちも嫌がっているけれど生産性のあるトラックバックもありうる。そうするとどうしても、例えば「民主主義とインターネット」とか「インターネットと公共性」などの、形式や道徳レベルではない、ある価値的な議論が必要になるんだろう。「トラックバックはどのようなものであるべきか」というような話ではなく、「トラックバックはどのようなレイヤーで語られるのか」というような議論になるのかもしれない。



例えばこういうケースもあった。あるブログCのエントリーに反対するため、あるブロガーDがトラックバックを送った。そのトラックバックは、「Cは間違い。Eのブログのここを見ましょう」というようなもの。転載トラックバックというのか、代理トラックバックとでも呼べばいいのか分からないけれど、これもその行為自体で是非を論じることは難しい。このTBには、言及もあるし内容も関係あるけれど、「お前が反論しろよ!」というような反発や、誰に反論していいのか分からないようなストレスを生んだりもするので、ミクロ的には結構きついかもしれない。



でも、いまのケースでも、そういう行為が議論をより高いレベルに引き上げてくれることもあるし、トラックバックのそのつながり方がブロガー同士には一見ネガティブなものでも、もう少しマクロ的な視線からみたらポジティブな効果を持つことも考えられる。だから、形式的、あるいは内容的な分類だけで「こういうTBはだめ」と断ずるのは難しい。関係の仕方でも言及のレベルでもアウトだけれど、言説空間のマッピングとか、もう少し普遍的な価値からみたら正当化されなくてはいけないようなケースもあったりするからだ。関係的、形式的にアウトでも、価値的に肯定される必要のあるトラックバック、ということかもしれない。もちろん逆のケースもあるだろう。



TBを削除するか否かはしばらくは運営者にゆだねられるだろうし、基本的には自由にしていいと思うけれど(私もこれからTBを削除することもあるかもしれないし、時にはエントリーも削除するだろうし)、「TBを消すということを観察する」ということ自体も政治的な効果を持ったりもするので、そこでも価値的な文脈を持ってしまうだろう。また、具体的なレベルでも、例えば最近では「Yakalike」というFirefox拡張機能があるけれど(解説)、こういうツール等によってそういう議論に向き合わざるを得ない状況にもなっていくだろうと思う。



また、余談だけど、「はてな」などは言及のないトラックバックは自動的に受け付けない設定になっていて、これは一応スパム対策ということになっていたりする。これも微妙なラインだけれど、今のところは、そのはてなダイアリーにどうしても言及のないTBを送りたいブロガーがいれば、一回言及してTBを送ってから言及部分を削除すれば簡単に回避できるけれど、そういうのを利用したスパムとかができたらここら辺も複雑になりそう。



とまあ長々と書いてみたけれど、結局へたれな結論としては、価値に準拠して議論するのであれば結局は「ケースバイケース」でしかないといういうことになった。はっはっは。それじゃあつまらないからもう少し考えようと思ったけれど、価値を原理的に捉えるのは危ないし、さらには共通の価値基盤を作ったり、「価値が異なったりしても、互いの価値を表明しながらコミュニケーションをする」という価値すら共有されないだろうとぐるぐる考えて、やっぱりケースバイケースで考えましょうということになってしまった。はっはっはっはっは。慣れないことはするもんじゃない。