「保守」についての覚書。

保守主義のスタンスのひとつとして伝統主義(Traditionalism)がある。天皇主義を掲げる小室直樹さんはこれを「従来正しかったことは今でも正しい」、「いままでのやりかたを踏襲すれば今度もまた成功する」という考え方だと説明している。この考え方は、現状として「伝統」が機能しており、一方で、変革後にどのような効果がもたらされるかが極めて不透明である状態においては重要な参照項になる合理的な議論。しかし「伝統」が既に機能不全になっている状態では別。「伝統」が既にほとんど機能していない領域では、「伝統をこのまま続ければOK」というスタンスを素朴に掲げることはできない。



例えば今「保守」を自称する人の中には「復権」という言葉をキーワードにする人も多くいる。ところが、「伝統を続けよう」というタイプの伝統主義と異なり、「伝統をもう一度」というスタンスについては、現状維持を容認するというスタンスを取れないので、非常に丁寧に吟味しなくてはならなくなる。前者と後者では「伝統」の意味が変わる。前者は、現状肯定型の伝統主義。後者は、過去の「伝統」アーカイブに問題解決の処方箋を求める。



一度「伝統」がすっぽり抜け落ちた状態では、「どの伝統を参照項にするか」という段階で意見が分かれる。例えば流行のところでは、明治〜戦前までを参照項にする方や、戦後民主主義的なライフスタイルを参照項にする方が多く、時には――「江戸幻想」のような形で――プレモダンの中から恣意的にピックアップする場合もある。また、どの「伝統」を選択する立場であれ、それを(再)導入するとしても、(1)かつて、その「伝統」を選択していたことによって機能していたとする論拠と、(2)現在、社会の構造が変化している状態にも適応可能か、という議論が必要になる。



既に役割を終えた「伝統」、あるいは現状に適さないものであれば処方箋として無意味であり、現状に適さずむしろ毒になる可能性がある。また、その導入によって社会がどのように得をするのかという議論も――その場合の「社会」の成員には誰が含められて、誰が排除されているのか、という視点も含めて――必要になる。



すなわち、「伝統」は選択のアーカイブになり、伝統のキープを自己目的化することとは大きく異なる。また、保守は理念的変革へのアンチであり、ラディカリズムに忠実であることへの断念でもある。


岡田 では、もし日本の革新勢力というのがあるとしたら、革新勢力が目指すべきなのは教育制度の撤廃で、保守主義が目指すべきは、今の伝統のようなものを守っていくことなのでしょうか?


小室 そうではありません。日本には保守勢力っていうものはないでしょ(笑)。


岡田 それは国民全体が前にあったものを受け継ぎたいと思っているから、わざわざ勢力化する必要がないということですか。


小室 というか、「伝統主義」が強すぎるんです。保守主義って言うのは、単に伝統を守るっていうのじゃなしに、これはよい伝統だから守る、これは悪い伝統だから廃止するということです。今までやってきたことがなんとなく正しいと思ってるのは保守派じゃないんです。


岡田 なるほど。


小室 ところが「伝統主義」っていうのはそうじゃなくて、よい伝統でも悪い伝統でも、既に過去において行なったことをそのまま立たせてきたんです。それが一番はびこっているのが金融業界です。本人たちは犯罪だと思ってやるんじゃなく、今までやってきたことは正しいと思ってやってるうちに、大変な犯罪になる。こういうのは「伝統主義」であっても、伝統の選択でないんです。保守主義は、伝統の選択がなかったら出てきません。


岡田 その選択をする時の価値のベースって何になるんですか?


小室 価値合理的もしくは目的合理的であるか、あるいは自分の国の歴史に対する反省、そういうのが保守主義のモデルです。いまの日本人は全然歴史の勉強をしないし、歴史を知らないから保守主義ってあり得ません。
小室直樹 「日本は滅びる」岡田斗司夫 世紀末・対談)

保守主義は、伝統の選択がなかったら出てきません」。今の保守にこの言葉は重い。保守を自称する論考には、江藤淳が「保守は情念を重んじる」と言った意味を、最悪の形で理解しているような論も多く並ぶ(例えば単に俗情的なこの居酒屋談義を読めばいい。この放談が自民党の政策決定の論拠になっているのはどうかと思う。あと、左翼さえ批判すれば、かつて学生自体にマルクス主義であった自分より賢明になれたと思い込んでるけど、その実は身についたサヨク的な文法で批判と修飾語の対象を反転させただけの文章もどうかと)。江藤淳は次のように述べている。


保守主義イデオロギーはありません。イデオロギーがない――これが実は保守主義の要諦なのです。
(…)保守主義を英語で言えばコンサーヴァティズムです。しかしイズムがついたコンサーヴ――保守が果たしてありうるのか。保守主義とは一言で言えば感覚なのです。更に言えばエスタブリッシュメントの感覚です。エスタブリッシュメントとは既得権益を持っている人たちのことです。(…)
しかしエスタブリッシュメント既得権益を持っているが故に、その既得権益の存在基盤について考えざるを得ない。(…)彼らの考え方の根底にはやはり保守的感覚がある。また彼らは極めて排他的です。それを非難する人がいるかもしれない。しかし、いい悪いの前に、異物が着たらまず追い返す。この感覚が保守なのです。
江藤淳『保守とは何か』

保守感覚から出発しつつ、既得権益の存在基盤について徹底的に考えること。それはもちろん単に排除を肯定するものではないし、まして実存的不満を「伝統」などの大きなものを頼りに正当化して癒すためだけのものでもない。理性への断念を経由してから理性を再帰的に構築することは――時にリベラルアイロニズムと同様に――「倫理」を実現しようとする者の誠実な回答でありうるはずだからだ。