9.11選挙と新たな時代。

選挙後、選挙結果などについては友人と電話で既にたくさん話したので、BLOGで書くつもりがなかったのですが、id:sugitasyunsukeさんのエントリーに触発され、今後、多くの問題について考えるためにまとまったエントリーを書きたく思ったので、今回の選挙について少しだけ考えてみたいと思います。杉田さんのエントリーについて言及するのが優先目的でもあるので、選挙結果についての言及や政権評価というよりは、ちょっと斜に構えたようなエントリーになります。



今回、圧倒的な「改革支持」に現れているように、「現状のままでは無理」感をほとんどの人が共有しているのだと思います。これは大変真っ当な感覚だと思います。特に、90年代を経過しての切迫感は大きい。というのも、80年代から90年代にかけて、「戦後民主主義」が自明視していたものの多くが「崩壊」したからです。一時期は、文化的に「ポストモダン」などの用語で説明されることが多かったですが、価値観の変化にとどまらず、政治スタイルや経済スタイルの変化を意味するので、現在では「新保守主義」(主に政治思想)や「新自由主義ネオリベラリズム)」(主に経済思想)などの用語で説明されることが大変多くなっています。



さて、社会はどのように「変化」「崩壊」したか。詳細を省いた大きな変化については、「リベラリズムを巡って」というエントリーで簡単に図式化しているので、そちらをご覧になってください。また、現代思想(哲学)の枠組みで話題になることがある「ポストリベラリズム」という概念については、「第四回チャット大会:ポスト市民社会とコミュニケーション 」にて簡単に触れているので、そちらを参照にしてみてください。以下、大雑把に列挙します。



終身雇用の崩壊以降、フリーター増加や契約就労形態の増加などに象徴されるように、就労平均モデルが変化した。これは団塊世代に中心的であった「サラリーマンと専業主婦」というモデルの希少化を意味し、世代構成単位の変化を意味する。そのことは、価値観の多様化という現象と平行すると同時に、経済格差問題の深刻化、世代間ギャップの拡大も意味する。その際、国家レベルで深刻化されるのは、少子高齢化の深刻化と税収の確保です。肥大する国債の重圧も手伝って、政府は主に年金と税制、財政の問題に取り組まざるを得ず、これまで家族主体、企業就労スタイルが主体であった税制や次世代の増加を前提としていた年金制度を変え、国債を増やすばかりであった現在の財政に梃入れをする必要がある(財政はちょっと別の問題ですが)。一方で保守系言論人は、政府が問題化する先行き不安と合わせて価値感が共有出来なくなった不安を元に「若者」の道徳感と家族感を問題にする。



先も指摘したように、この一連の現象は、ポストモダンネオリベラリズム、新保守、ポストリベラリズムマイケル・ハート)、成熟社会(宮台真司)、歴史の終焉(フランシス・フクヤマ)など、さまざまな観点から論じられています。特に911以降、これらと共にナショナリズムからグローバリズム(あるいは<帝国>)への以降として捉える視点もあります。世界的な変化であると同時に、日本でも重要な問題であるということが分かります。



その感覚が、いわゆる社会不安をもたらしている現状で、眼前にいくつかの選択肢が現れます。都市型保守(ネオコンネオリベ)か、第三の道的リベラルか。アメリブッシュ政権は特に911以降、ネオコンネオリベの方向に進んでいるとされます。ネオコンが「復古運動」と位置づけられるように、宗教的価値観に基づいた教育や*1純潔教育*2を進めつつ、自由競争を建前に国内の就労問題には外交問題ほどには手をつけていません。ゲーテッドコミュニティ*3が注目を集めているのも象徴的です。



アメリカでは9.11以降、グローバリゼーションと合わさって、ネオコン*4ネオリベラリズム(+監視型権力+コミュニタリズム+etc…)という動きが強化された。それでは日本は「9.11選挙」以降どうなるのか、という点に着目をしていた方が多かったでしょう。結果は自民圧勝。webをめぐってみたところ、既に多くの方が「これでネオリベ化する」と認識した上で、喜びの声をあげたり悲観的になったりしているようです。



ネオリベラリズム自体への評価はさまざまです。chikiの場合、ネオリベラリズムとは関係なくとも、自己責任化や個人競争の存在、および経済的な格差が存在すること自体に苛烈な批判を加えるつもりはありません。ネオリベラリズムや監視型権力への移行に即反対、というつもりも一切ないです。しかし、多くの但し書きをつけたいと思います。



たとえば哲学者の東浩紀さんは、社会学者の宮台真司さん、ジャーナリストの神保哲生さんとの鼎談で*5、次のように述べていました(以下の東さんの発言はchikiが要約した骨子ですので、発言者の意図と異なる場合があります。)。



●社会全体が共通規範を持っていたころは監視技術はいらなかった。そういうものがなくなったときに監視技術が出てきた。それがなくなったのは、悪いことばかりとはいえない。社会全体を覆っていた合意形成や規範がなくなるということはライフスタイルが多様化するということ。ライフスタイルの多様化と管理社会化は表裏一体です。したがって監視社会化は決して悪いとはいえない。問題は、監視技術の精緻化によって何を得るのか、ということ。
●(…)監視技術が進むということは、その分合意形成がなくても社会が安全である、ということ。社会の安全を担保する装置が、合意性形成や規範意識から監視技術に変わった。または是か非かともかく変えようとしている。この時2つのレベルがある。監視技術に向かうこと自体の善悪という問題。それとは分けたレベルで、監視技術に向かうのはなぜかといえば社会の価値観が多様化するからだ、ということ。
●色々な人が住んでいて色々な規範がぶつかり、隣人が何を考えているかは分からないから監視技術が導入される。逆に言うと、監視技術を導入したころによって、価値観が多様な人間が生きれるようにならないといけない。監視技術自体の善悪は横においておくとして、監視技術の導入によって何を得ているのか、という議論をする。
●日本で起きているのは監視技術の道徳主義的利用*6。商店街に監視カメラが導入されている。昔は地方商店街は互いに知り合いだったから監視カメラは不要だった。今は、誰が来るか分からないから監視カメラを導入する。では、監視カメラがあるから誰でも来ていいのか、というとそうではなくて、日本では監視カメラによって軽犯罪が取り締まられる傾向にある。
●(…)監視技術は多様性を確保するためのものだったにも関わらず、監視技術の導入によって多様性が失われるというようなパラドックスが生じる。ここがむしろ問題で、監視そのものが悪かというものを喋っても意味がない。
●監視技術を導入するときのグランドビジョンがないという話で、電子パスポートを導入するとして、その目的が日本ではほとんどないんです。アメリカはテロ対策、EUなら人と物の流動性が極端に高まったので管理の必要があるが、日本がバイオメトリックスを導入してアジア最大の監視技術によって出入国を管理するようになったのなら、当然アジア最大に外国人を受け入れるようにすればいいんですよ。ところがそうはならないですよね、この国は。
●監視技術は導入するが、そのことによってさまざまな人が生きられる共生の社会を目指そう、というメリットが見えてこない。そこが問題ではないか。

また、東さんは「isedキーワード:ポストモダンの二層構造」において次のように述べています。


2003年に京都大学助教授の大澤真幸氏と共著で出版した『自由を考える』(NHK出版、2003年 asin:4140019670)では、僕は、近代社会からポストモダン社会への移行に従って、権力は規律訓練型権力から環境管理型権力に移行するという表現をしています。しかし、いまではちょっと考えを変えています。重要なのは、前者から後者への移行ではなくて、両者のバランスが変わったことだ、というのがいまの考えです。
近代社会とポストモダン社会の差異はどこにあるのか。僕はそれは、前者では規律訓練と環境管理の両者が調和してひとつの目的=大きな物語に奉仕していたのに対し、後者では両者の作動域が分けられ、規律訓練の目的と環境管理型の目的が解離してしまっていることにある、と考えています。

現在、「一億総中産階級」の幻想は崩れています*7。すべての国民を一方向に啓蒙するということは無理がある。「一億人でひとつのハビトゥスを共有しようという無理なプログラムを最近までやろうとしていた」(東浩紀)が、それはもはや世界的に見てもうまくいかなくなってきた、ということがあります。ただ、それ自体は悪ではなく、価値が多様化した社会に合わせようとしているという現状があり、その操舵がどのようになされるか、という点が問題だということでしょうか。



これをネオリベラリズムの議論にちょっと強引にひきつけると、ネオリベラリズムや「小さな政府」自体の是非は一度おいておくとして、それがどのように利用されるのか、どのようなビジョンのもとに形成されていくのか、ということが検討される必要がある。社会が多様化した、その現状に合わせて政府形態を変えよう、という作業自体は必要不可欠なであり、よい面も多くある。競争や格差は今までもあったので、これらをどう変えていくのか。それ自体を問題化する作業は必要ではあるが、同時にそれを今後どのようにケアしていくのか、というプランが重要になるでしょう。



現在の政権によって提案されているプランの妥当性については、ネガティブな印象が強い。懸念する対象は、憲法改正による軍の保有と義務規定の増加、基本は市場に任せるという「小さな政府」にも関わらず個人税主体の税制移行による増税を前提としていること、および障害者自立支援法案や精神保健福祉法32条の改変など、人によってさまざまででしょう。個人的に関心があるところでは、例えば「<憲法改正>について考えるためのメモ」で触れましたが、「構造改革」のキーパーソンである竹中平蔵さんは、儲からなかった人=頑張らなかった人と位置づけ、サッチャーよろしく<人頭税>を「コレほど公平な税制はありません」と言っており、これは完全に強者のロジックです。「個人の将来は個人が管理出来るしょう」というロジックで年金制度廃止を提案するホリエモンも近いところがある。形式的平等と実質的平等は異なり、機会の平等が整っていない状況で自由競争、自己責任の原理だけ押しつけると、勝ち組は勝ち続け、負け組みは激しく負け続けるケースがほとんどになってしまうわけです。



現時点で目指している「小さい政府」は、「小さい支援しかしない」という意味だ、という批判は既にあるようですが、これは言い換えれば「小さな政府」が「小さな共同体のキープ(現状保守)」にしかならない可能性がある、ということでしょう。現状のままで国家を運営するのは無理、とすれば、一部の既得権益層だけは現状保守できるように小さく縮小していきましょう、という発想。既得権、道徳、家族、国家の崩壊を憂いこれらの復権を望む人がいたとして*8、しかし日本全体でこれらを実現するのは不可能。であれば、一部キープだ、という発想に飛びつくような動きもある。例えば歴史教科書をめぐる論争や「バックラッシュ」では、流動化に対する保守による不安のポリティクスが問題視されました。これを極論化して、「家族制度を推進するため、子を産まない女性に課税し、専業主婦の待遇をよくしよう」的な動きがもし実現すれば(さすがにないと思いますが)、「小さな共同体のキープ」が出来るわけです。となるともちろん、その他の部分はえらいことになります。東さんの監視技術の議論のパラドックスのように、多様性を前提に小さい政府に変えていくはずが、小さな政府にしていくことで多様な部分が失われていく、という可能性があるということです。その場合、「<小さな政府>は導入するが、そのことによってさまざまな人が生きられる共生の社会を目指そう、というメリットが見えてこない。そこが問題ではないか」ということになるでしょうか。



いま、「可能性がある」と述べましたが、では、実態はどうなるか。



今回の選挙を、ポピュリズム或いは衆愚政治として批判する声が多くあります。「郵政民営化、賛成か反対か」というスローガンに基づいたイメージ選挙であり、グランドデザインについての議論になっていなかった、ということでしょう。そのイメージに「現状のままでは無理」感から、「現状打破」を望む層と、自分は小さく「現状維持」を望む層の投票対象が一致したということでしょうか*9。しかし、仮に「現状維持」ではない層の得票が「躍進」に結びついたのであれば、都市浮動票が大きな鍵になった、ということになるのでしょう。であれば、次回からの選挙からは「多様性」に対する配慮が必要不可欠になる。また、ネット選挙が導入されるのであれば、多様な意見の交換も可能にはなります。その潜在的可能性がどれほど高いかは、これまた意見が分かれるところでしょう。「それだけの検討を出来る国民は少ない」「その状況でのネット選挙活動はむしろポピュリズムシニシズムを加速させる」と見る人も少なくないようです。



chikiは、現状が悪化していく一方である、お先は真っ暗、と(左派的に?)憂うところまではいきませんが、確かに(保守的に?)明るい未来を夢見ることも難しい。というのは、多様性への配慮が必要不可欠になったとはいえ、どうもマニフェストやグランドデザインをしっかり検討して話し合っていく選挙スタイルにはもう少し時間はかかりそうで、その萌芽を見るということが出来ていないように思ったからです。「多様性への配慮」が必要な現状にも関わらず一方向に進んでしまい、そのことを指摘する声が小さければ意味がない。総裁交代以降も小泉的ポピュリズムが継続する可能性は少ないと思いますので、そのスウィング・バックはありそうです。また、さすがに、再配分を一切しなくなる、すべての弱者を無視して切り捨てる、という状況を看過するというような極端な状況にはならないでしょうから、多様性を意識させるように局所的に訴えかけていく必要が出てくるのでしょう。



そうすると、次のような問題が生じます。「局所的」に訴えることは成功するのか、ということです。当然のことながら、グランド・デザインについての話し合いがない状態では、局所的に障害者自立支援法案は廃案になっても精神保健福祉法32条の改変は行われた、ということは起こりかねません。「弱者の味方」を歌う党が「有害情報の規制」を主張しているいう笑えない冗談がある現状ではありそうな話。大きく見れば局所的変化であっても、その層にとっては大問題で、しかしその「痛み」を他の領域では共有できない。もちろん、これは今までの社会でもずっとそうで、これからもその問題は変わらない、と言う事も出来るとは思いますし、突然明日から大きく変わる、というわけでもないでしょう。が、漸進的に「小さな政府」となっていく際、多くの人が懸念する理由のひとつはやはりそこでしょう。小泉再選が決まったとき、日本経済新聞世論調査では「年金改革」を求める人が多かったそうですから*10、保障制度の強化もまた「国民の声」であるといえる。そこをきちんと対応しなかったら当然批判が出てくるはずですから、そのときまでに民主支持者やリベラリストは準備をしておく必要がある(もちろん自民支持者や他党も同様です)。つまり、批判の声を高める準備とグランド・デザインの準備。もっとも、これも今までもやっているはずですが、イラク人質事件の特に噴出した「政府に逆らう者は自己責任」というロジックのままでは決定的にまずいので、明らかに不十分です。内部に近い人から「そんなことはやられてない」という呟きもたまに見聞きします。



既にお分かりにように、chikiはネオコン的「一部キープ」的「小さな政府」ではなく、多様性を認めながら個別に対応するという意味での政策スタイルを望みます。id:kwktさんは「イギリスかアメリカか」というエントリーで「第三の道社会民主主義に進むには、一度(痛い目にあってでも)新自由主義を経るしかないのか」と指摘しています*11。個人的には、旧来型保守体制(あるいは福祉国家)でも、新自由主義でもない「第三の道」へと直接進む道はあるように思っています(破滅的なポストリベラルになる可能性ももちろんあります)。そのために有効な意見を述べるため、これからも勉強していきたい。少なくとも、次の選挙までを目標に。



ところで、chikiはBLOGをはじめてから、福祉*12、介護、ひきこもり、ニート、フリーターなどの問題に関心のある方に関心を持つ機会が増えました。これらに関心のある方で、熱心に議論をしている方は、ネオリベラリズムネオコンサヴァティブ、というカップリングに非常にアンテナが高いのが特徴的です(文字通りの死活問題です)。昨日のエントリーでは、id:sugitasyunsukeさんの「フリーターに関する20のテーゼ 」をご紹介しました。「20のテーゼ」を引用させていただきます*13



【1】日本型のフリーター労働者は、ある種の「階層」である。
【2】1980年頃から、国際的に若年不安定労働層が大量に生み出され、今も増加し続けている。
【3】若年労働者は今後間違いなく、一部の「勝ち組」と大多数の「負け組」へと二極化してゆく。
【4】フリーターの一定部分は、このままでは野宿生活者化するだろう。
【5】しかし、フリーターは真の「最下層」ではない。
【6】「フリーターは諸悪の根源だ」的な悪罵と非難は、今後も世論の中で醜悪にふくれあがるだろう。
【7】フリーター問題の根もとには、女性労働者の問題がある。
【8】考えるべきなのは、賃金格差や社会保障の格差だけでなく、仕事内容の格差――そこから生じる未来の衣食住の決定的格差――である。
【9】若年層に関する限り、正職員かフリーターかという対立は、ニセの対立にすぎない。
【10】統計的に、フリーターに陥りやすい層、フリーターからなかなか抜け出せない層がある。
【11】若年層の多くは、今のところ両親に経済‐生活財的にパラサイトし続けている。このことを自己検証的にえぐり出さないフリーター論は、意味をなさない。
【12】だが「若年労働層」も「既得権益層」も共に、自分たち以外の他者が強いられた生存の問題を真剣に考えてはいない。
【13】現在の若年フリーター集団の多くは、他のマイノリティ集団(たとえば外国人労働者/障害者/野宿者/…)たちの生活と存在から遠く離れ、断絶し、孤立している。
【14】それだけではない――一つのフリーター「階層」としての自覚を、当事者達が分有することも少なく、実質的に同じ底辺労働層に属するのに、互いに曖昧に切り離され、孤立した生存を続けている(属性は共有するが課題は共有できない)。
【15】ネオリベラル(新自由主義的)な価値観のもとでは経済的な貧しさは、そのまま本人の道徳的な「悪」と見なされ、自業自得とされる。
【16】表現や消費の自由は、むしろ、生産関係(所有の次元)の不自由や抑圧を覆い隠す。
【17】高度成長型の「労働者」や「家族」は(なくなるのではなく)変質の過程にある。
【18】具体的なたたかいに際しては、想像上の「敵」(エネミー)と現実的な《敵対者》(アドバーサリー)を、完全に区別し続けねばならない。
【19】極端に言えば、フリーターの生には《何もない》――少なくとも、資本や国家が要求するようなものは。
【20】今後のたたかいの主戦場は《存在権》――生存が単に生存であり続けることを肯定する権利――をめぐるものとなるだろう。

これまでのパラフレーズを踏まえれば、上のテーゼがいかに示唆的で重要な「テーゼ」であるかが分かると思います。id:sugitasyunsukeさんは人文的な教養をお持ちであり*14、そのうえで「いちヘルパー」として介護の問題にコミットしています。陳腐な物言いになりますが、俯瞰的な視点と現場の視点をもった鋭い言説分析であると共に、他の構造問題、差別問題にも関わる見事な現状分析で、現在グランド・ビジョンを語る際に必要不可欠な提起を行っていると思います。なにぶん、現在では、局所的事例に関心を向けつつ、グランド・ビジョンについて話し合っていく必要があるでしょうから、杉田さんのエントリーをめぐって多くの方が議論していただけることを願います。chikiも、時間をかけて対話させていただきたいと思います(テーゼについてはまた触れます*15)。



その点で、例えばひきこもり経験者であり、ひきこもり問題を多様な文脈との検討によって考察しているid:ueyamakzkさんの「当事者批評」観点や、多様性を前提した上で課題を共有するための言語の模索作業を行うことは重要であると思います。月並みな表現になりますが、私たち「いち国民」*16はこういうコミュニケーションを通じて課題を模索していき、公共サービスを提供する政治家へと問うていく作業が重要なように思います。



この呼びかけをもって、このエントリーはいったん終わりにしたいと思いますが、この件については終わることなく考えていきます。




(続く)





*1:進化論に対抗し、神の「知的計画」などを参照。

*2:「<性教育>について考えるためのメモ」参照。それと余談ですが、「受験国語研究」を提案し、自ら先駆者たろうと実践している石原千秋の愚弟子であり、塾や教育実習で在野ながら「国語教育」に数年間関わってきたchikiとしては、国語教育の<作者の気持ち、登場人物の気持ち>的「情操教育」に辟易としています。論理的思考は教えず、教師の恣意的判断に基づく情操教育のみ。授業要領にもそのよう指示。これで交渉能力が育つわけがないように思う。マイ教育論を打つ気はありませんが、せめてトップダウン的情操教育ではなく、オンデマンド的な交渉能力教育へとシフトしないものでしょうか。国語に限らず。

*3:【gated communities】…望まない人物を含む部外者による侵入や接触を妨ぐため、近隣住区を外壁で取り囲み、ゲートを設置するというもの。主に白人が利用している。単に外壁を設置するだけでなく、監視技術を導入して出入りを制限している地区も多い。ゲーテッドコミュニティの具体的イメージは、この記事の写真を参照にしてください。また、こんな風刺画こんな風刺画もあります。

*4:ネオコンに対して否定的な紹介になってしまいましたが、「ネオコンのポジティブな側面」にもあえて触れる必要があるでしょう。

*5:ビデオニュース・ドットコムの配信動画より。現在は視聴不可能。

*6:「監視技術の道徳主義的利用」を参照。

*7:ちなみに、「2ちゃんねる的保守」を、失われつつある大衆幻想の一回路として位置づける見方もあります。

*8:そのこと自体は趣味の問題で自由だが、経済的に優位な階層、あるいは権力を持っている階層の人が多いと問題が生じてくる。

*9:反小泉反自民を掲げていた人が、ニートやオタクに投票をよびかけているサイトをいくつか見ましたが、個人的にはニートやオタクこそ小泉支持に動くだろうと思っていました。

*10:個人的には、「少子高齢化」が、高齢者メインの少子化懸念でしかないのが気になります。年金問題とセットにして語ることは必要ですが、年金のために子供がいるわけではない。老人が若者にたかっているようにも思えてしまう。

*11:NEET概念の親元である、就労問題や移民格差の顕著なイギリスが是というわけでももちろんない、と承知の上での指摘だと思われます。

*12:「老い衰えゆく自己の/と自由−高齢者ケアの社会学的実践論・当事者論−」という、興味深いノートを見つけました。

*13:ちなみに、鈴木謙介さんは『カーニヴァル化する社会』でフリーターなどに顕著な近年の就労問題に触れています。同著は、既得権益を有した男性年長世代が新規社員を雇用せず相対的な弱者としての若者に「たかる」一方で、若者はそうしてようやく保護された親の既得権益に「たかる」ことで非正規雇用の状態を長期化させるという、「たかりあい」の構造を指摘しています。「ノリやフィーリング」にとどまらないための重要な指摘であるように思うので、明記しておきます。

*14:杉田さんのテーゼを人文的に言えば、68年以降(すが秀実)、ディシプリン型からコントロール型へ(フーコー-ドゥルーズパラダイム・シフトが起こり、リベラリズム的公共圏は機能を持たなくなった(マイケル・ハート)。そこでは――フェミニズムアポリアに顕れるように――主体化が困難になり、公共圏が機能しなくなったため「連帯」は論理的に難しくなり、生権力への抗いが困難な状況にある…ということになるでしょうか。

*15:褒めただけで終わっても意味がないですね。

*16:なかなか言い慣れない言葉ですねこれは。