イラクから始めること。

face to face

昨晩突然、大学生時代からの友人よりメールを頂きました。





それは、「香田さん殺害の動画をみてしまい、いてもたってもいられず途方にくれているので、chiki(と共通の親友であるid:shfbooさん)からイラクについての意見を聞きたい」というものでした。





chiki自身もここ数日はなかなか言葉にできなかったのですが、メールをくれたその友人に電話をかけて話をしているうちに、意見が少しまとまったように思います。しばらくイラク人質事件から関連して考えていたことがありますので、今日は少し長くなりますが(そしてサルの意見だとは思いますが)chikiの意見を、いくつか順序だてて書いてみます。まとまっていないところもあると思いますが、ご容赦ください。







理由について
香田さんが拉致されたニュースをchikiが知ったのは、仕事の昼休み中のことでした。昼食を食べ終えて(ちなみに吉野家です)町をぶらぶら歩いていると、電気屋の店頭に飾ってあるテレビから「邦人拉致!」の情報を聞いたのです。もちろんその時、「これは大変なことになった」と思ったのですが、帰宅してからネットでそのメッセージ動画(こちらからもダウンロードできます)を見たとき、本当に絶望的なものを感じました。今までの人質殺害動画と構図が似てたから、あるいはザルカウィ系という情報を聞いていたから、等の理由があるのかもしれませんが、おそらくほとんど直感でしかないと思います。chikiが29日に「彼が死んでいいという論理はありえない」と「擁護」している時も(こちら、およびこちら)、常に「駄目かもしれない」と感じてしまいました。すなわち、「おそらく彼は見殺しにされてしまうし、実際に動画が流れるまではバッシングも多く出るだろう」と思っていたのです。





そして、香田証生さんは殺されてしまったし、恐ろしい光景を納めた動画も出回ってしまいました。





問題の動画をみてしまったことで、言葉にしがたいほどのショックを受けた方は多いと思います。chikiもです(こちら)。それは、強烈なイメージとメッセージに圧倒され、もともと持っていた言葉や世界観を奪われてしまうような体験のように思えます(そしてそれがテロの目的のひとつ――つまり、極度の暴力と死の恐怖と共に、人知によって作りだされたこのうえない困難性と悪意を不可避的につきつけることでシステムに異議申し立てをすること――だと思います)。





そのような動画がネット上で「流れ続ける」事は、例えば「イラク」という「国際社会(グローバル社会)」が抱える大きな矛盾、解決困難な問題のイメージが世界中を徘徊し続けているような印象を受けます。ただし、当然のことながら、香田さんの「消えない」SOSの声と解消されないメッセージ、その「日本に帰りたい」という叫びは、「象徴」や「シンボル」とはまた別のものだと思うのです。もちろん、そのようにみなすことはいくらでも可能ですし、くしくも星条旗と共にイメージ戦略に利用され、邦人人質としてのみならずさまざまなレベルで象徴的に扱われてしまいましたが、彼の叫びはそのようなところに回収しきれるものでは絶対にない、と思っています。







ニュースについて
ところでこの10日間ほど、報道レベルではかなり大きなニュースが流れていて、そこまで大きく中心的に取り上げられることはありませんでした。島田紳助の「涙の会見」、地震の優太君の生と真優ちゃんの死、アメリカ大統領選挙、球団関連のニュースなどなどなど。ただ、どれにも共通していえるのは、そのニュースの語り方が、なんとなく本質に接近したつもり、語った気になれる程度の満足感を与えるものでしかないということです(結局、根幹的な部分については何にも語らない)。紳助が泣いた、あるいは活動を休止するということよりは、暴行の事実関係とその他のことを知りたいし、「優太君」が朝何を食べたとか「真優ちゃん」を乗せた車が今どこを通過したとかに関しては心底どうでもよくて(視聴者が「優」しい気持ちを味わえて満足なんでしょうか)、今、何が必要であるのか、何が起こっているのかを教えてほしい。アメリカ大統領選に関して、どの芸能人が誰を支持したとか「街の声」とかよりはもっと論じるところはあると思うし、球団のニュースで社長に一日密着するとか、何がしたいのか理解不能。もちろんこれは今に限ったことではない「いつものこと」なのですが、拉致殺害事件に関しては特に顕著に思いました。





chikiは、殺害シーンの動画を「お茶の間」に流したほうがよいとは全く思いません。流さない方がいいとすら思います(この点に関しては後にまた触れます)。ただ、それにしても「動画を犯行グループが流している」という報道をあまり耳にしなかったように思います。代わりに「悲しみを背負う」両親や肉親についての報道が中心だったような印象が強い(何かにつけてすぐ「親族」を撮りたがるけど、親族の意見を聞けば何か分かるのだろうか、という批判は常にありましたが)。外部との政治的な部分より、内面的な問題で終わらせてしまうだけでは、(相変わらずではありますが)まずいと思いました。また、「ご冥福を祈ります」という慣習的な言葉で済ませる番組やBLOGも、それだけでは基本的には何も発言していないと思います。BLOGに関して言えば、「発言」しなくてはならないというのでは全くないですし、追悼の意を表明することは悪くないと思いますが、使いようによっては忘却のための、想像停止のための、思考停止のための…つまり「これでこの問題はおしまい」と宣言するための言葉になってしまうことは確かだと思います。





以上のような点で、いくつもの報道は(今回も?)「御用ジャーナリズム」という批判のそしりを免れない部分があります。事実として4月の時も報道を制限させられていましたし(人質が首にナイフを突きつけられるシーンを流さないように政府が働きかけたそうです)、このたびの香田さんのニュースに関しても、政府の動向や対策、その他の事柄を明らかにして欲しいのに、彼の生い立ちや言説などを恣意的に持ってきて、しかもなんやかんやと分かるはずもないのに適当な意味付けをしてしまう。一方で地震という天災のもとには明確な図式を作れるようだし(「優」しさは大事だよね、というような)、野球が続いて欲しいという程度の人知は扱えるようですが(苦笑)、あんまりだと思いました。もちろん地震に関する考察も本当は困難なはずなんですが、きわめてイージーな部分だけ語っているのが現状としてはあると思います。






掲示板やBLOGについて
この点に関して、マスコミ嫌いをうたう掲示板やブログはどうだったかといえば、大雑把に言えば新潟を支援しつつイラクバッシングを行うという構図が多かったように思います。それもまた、とてもイージーなことだと思います。「地震の際にマスコミのヘリがうるさい」程度の分かりやすいものは叩くんですね。言ってることはごもっともだけれど、それも結局は「安心してテレビを見させろ、<善意の(気分を味わえる)傍観者>でいさせろ」と言っている程度のものでしかないように思います。もちろん地震に対するケアはとても大事ですが、だからといって別の次元のものをそこまで露骨に無視するのはまずい。





そのようなBLOGや掲示板が香田さんの拉致に関して掲げた論理、すなわち「香田さんが役に立つ/立たない」という区分けは、後付けされた稚拙かつ通俗的な論理でしかありません。また一方では「保険に加入している場合は云々、実際に費用はいくらかかったか云々、親にはどれくらい負担させるべき云々」と大真面目に論じることが「現実的」だと思っている人もいたりする。中には「我々の血税を返せ!」とか叫んだりしている人もいましたが、なんちゃってナショナリズム(ぷちナショ?)でしかない、単にケチ臭いだけの情念をさらけだしておきながら威張らないで欲しいと思いました。





さらには波田陽区の、ものすごい稚拙で、だからこそ暴力的かつ通俗的なゴシップレベルで「斬る」という一発芸をパロった言説が示し合わせたように多くありました。「助けてくれって言うじゃない? でもあなた、そこで死にますから! 残念! 自己責任、斬り!」というようなものです(書いていても呆れます)。2ちゃんのみならず、こういうことを喜んで自分のBLOGで書いている方が何人かいたのですが、その方は「侍」としてはもちろんニセモノで、そのかわりにホンモノのアホだと思います。波田陽区の評価はともかくとしても、ネタとして全然面白くないし、似たようなコメントがあったことからオリジナリティの欠片もないことが明白の、単にアホな発言です。





このように、色々な発言に目を通しているうちに、ふと「日記」と「ブログ」の違いについて考えさせられました。多くの「ブログ」は、「日記」感覚のもの、またはサークルなどの「部誌」感覚のものが多く、公共感覚というものが希薄だと思いました(希薄だからだめだ、と言うつもりはないですが)。また、例えば英語圏のBLOGでは、国や種の異なる者通しが(一応)語れたり、今回のような場合イラクの人と直接語ることも(可能性としては低いけど)可能になったりする。ところが日本のブログは基本的に日本語で書くため、おおむね日本人のみを読者として想定しなくてはいけない(当サイトもそうですが)。基本的に「外」と触れづらく、言説空間が閉鎖的、鎖国的な状態になり、それゆえ、きわめて日本的な世論に向けての独白になりやすい。もちろん、それはそれで構わないし、長所がないわけではないけれども、「世界」からみたら恐ろしくアホな状態ということもありうる。いつまでも「外」だから、「彼を無視する論調は、自分の首をも絞める」ということに気づかないでバッシングしてしまう(ほとんどの人が、「役立たず」として切り捨てられるでしょうから)。ちろん小泉政権になったころから徐々に「外」を意識するようにはなってきているとも言えるとは思いますし、ある意味過渡期ではあると思いますが、だからといって肯定は出来ません。







言説と対話について
例えばこんなことを考えたりします。もしかしたら途方もない無力感を覚えるような、どうしようもない暴力が繰り返され、人々がそのような混沌に途方もなく磨耗しきった時にようやく理性の声、対話の可能性に光があてられるかもしれない、というようなことです(苦笑)。但し、これはある意味ショック療法のようなもので、果たして持続するのかという気持ちもあります。そのような発想は、ある意味で「一発逆転」を狙っているような思考だと思いますが、そのような大転換は(いまさら)ほとんどありえないと考えて間違いないでしょう。それならばもうちょっとしんどい(無論、誰でもイージーにコミットできる良策を考えていくことにも意義はあると思いますが)、こつこつとした、それでいて可能なるアクションを模索するほうがいいと思います。





そういえば、一部の(左翼的な?)サイトでは、「現状から目を背けず、香田さんが殺害された動画を見る<べき>」と喧伝したりしていました。これもある種のショック療法のようなものだと思いますが、いろんな意味でまずいと思います。例えば「動画を見ることで、(自分同様に)絶対に(生まれ)変わるから見てくれ」というのは違うし、自分が見れるものを他人も見れるとは思うのは間違っています。また、見せてはいけない人というのもいると思いますし(ショックが大きすぎて支障をきたす人もいると思う)、見なくては語れないというのも間違いです。





そういう発想よりも、むしろ現地などで面と向かって、時にはBLOGなどを通じて、類型化に逆らうような一対一のコミュニケーションをすることの方が絶対に実を結ぶと思います。「○○人=敵」という類型化に還元されない、一人でも「○○人にもいいヤツはいる」というようなレベルまでもっていければたいした前進だと思いますし、NGOやボランティア、一旅行者はそういうコミュニケーションを行いえるとも思います。それは大変にしんどいことなんですが、しかし私たちは、常に論理化できない、類型化できないものと向き合いながらしんどい対話していますし(論理だけで対話している人など見たことがない)、それを「議論」になったとたん一度にそのことを忘却してしまうのはちょっと不思議です(あたかも何がしかの論理だけで思考している気になってしまう)。ネット上で「中の人」がいることを忘却し、あたかも字だけが自動的に浮遊しているような感覚を覚えるのも同様ですが、ただ、ネット上でも長く付き合っているとある種の類型化(またはキャラ化)では収まりきれない部分を意識することもあると思います。このように、「一発逆転」が無理でも、私たちは日本でローカルな一対一(?)の対話の訓練=実践を行い続けているはずですし、そのことは外と触れる準備=実践にも直接結びついていると思います。そのため、困難さを意識しながらも対話を検討してみたい、していきたいと思いました。「イラク」から何かをはじめることが出来るとするならば、私たちが具体的に話すこと、対話をすることをおいてないと思ったからです。










長くなりました。言葉足らずのところも多々あるとおもいますが、続きはまたの機会にしたいと思います。皆様のご意見を聞かせていただければ幸いです。