「外国人留学生のせいで避難所が閉鎖」流言の再検証

※予めお断りしておきますと、このエントリは特定個人を非難することが目的ではありません。「次の災害」の際などに流言が再拡散し、排外的な動きを助長したり、現場の共生を疎外することがないようにするため、改めて検証結果を掲載しておくことが重要だと思い、エントリを立てた次第です。


さて、東日本発災後から数日後、「避難所用救援物資を根こそぎ、近隣の外国人留学生(中国韓国で七割強)が運び出してしまい、避難所の機能停止により閉鎖」という流言が拡散しました。それから5年経った3月11日、一部でこれを「デマではなかった」と主張する動きがありました。そこでは、マナーの悪い外国人避難者や留学生が存在したことや、コミュニケーション上のトラブルがあったことを指摘するレポートが根拠として挙げられています。レポートには、確かに次のような言葉が引用されています。

「外国人避難者についての課題は,(1)避難所に持ち込んだ寝具や食器,自転車等を置きっ放しで避難所を後にしたこと,(2)言葉が通じない,という2点があげられる。(1)については一か月半過ぎたところ処分し,(2)については,避難所での炊き出しや注意事項を周知することが難しかった。しかし,学生ボランティアが通訳を申し出てくれたことや,拡声器や大声で避難者に呼びかけることで日本語でもどうにか伝わることも実感した。」
「体育館に避難していた 30 代とみられる夫婦から,外国人避難者が食べものを散らかしているという苦情があった。確かに,食べ残しのある食器などを避難所の床に置きっ放しにしている様子などが見られた。また,外国人避難者が避難所内のストーブのまわりを占拠している様子なども見られた」
「三条中ではトイレの使用法が滅茶苦茶で,使用法の表示をしたり呼びかけをしたりしても改善されませんでした。避難所を閉鎖した後のトイレ掃除は本当に大変でした。また,外国人が避難所に毛布,自転車,バイク等を置いたままにして引き取りに来ないので,その処理にも苦労しました」
伊藤芳郎・朝間康子『外国人避難者と災害時多文化共生』


但し、「外国人避難者との共生に課題があった」「外国人のマナーの悪さを指摘する人がいた」ことをもって、「避難所が閉鎖した」「略奪があった」等との書き込みが「デマではなかった」とはなりません。こうした正当化は、前に別エントリで、「"部分的な正解"へのこだわり」と分類したものに当たると思います。要は「当たってる部分もあるから流言ではない」というメソッドです。しかし、重要な部分が真実でなく根拠不確かなのであれば、「(断片な事実を元に構成された)流言」という評価が妥当となります。


実際、元のレポートでも、閉鎖の理由については、「3月13日(日)午後,通電による火災発生のため」と書かれています。なお、元のレポートは、災害時の多文化共生を実現するために書かれたものであり、それにも関わらずその一部を抜粋して、排外的な流言が肯定されることも問題です。


避難所はどうして閉鎖したのでしょう。この点については当時、複数の方がネット上で「火災によるもの」と報告し、流言は収束しました。僕もそれを信頼に足る情報として、ブログ等にまとめました。先のレポートはむしろ、その補強材料になるものです。


今回、より確かな情報を求めるため、実際に避難所の運営に携わった方々に、取材を行うことにしました。以下に、その取材の内容を報告します。


  • 避難所を巡回されていたKさんのお話

Kさんは仙台で、多文化共生のために従事されている。震災当時、Kさんは、外国人被災者向けに多言語での発信活動をしていた。三条中学校にも、閉鎖されるまでの数日間ではあるが、毎日巡回していた。

Kさんは避難所の閉鎖が決定した際、まさに三条中にいた。Kさん「避難所の運営者たちで校庭に集まり、ミーティングを行った。当時、復電による急な通電によってショートが起き、校舎からボヤが出た。近隣も復電したので、そろそろ家に戻りましょうかとなった」

Kさん「避難所となっていたのは、体育館と武道館。体育館は閉鎖したが、武道館の方の多少の機能を残した。武道館は畳なので、体育館の床よりはいいだろうという判断。高齢の方で、まだ帰りづらい人もいただろうからと」

三条中学校近辺は内陸なので(仙台駅よりも西)、津波被害はなかったが、インフラ停止によって避難してきた方がいる。電気の通電により、戻ると判断したという。

Kさん「しばらくしてから、ネット上でデマが広まっているのを知った。関東大震災のようなものが今さら拡散するとは思わなかったので驚いたが、かといって現場で実害があったわけではないと認識している。暴動や喧嘩があったわけではない。あくまでネットだけでの出来事だったと思う」

荻上「多数の外国人が来て物資が底をついたといった理由で、意思決定に影響があったりしたか?」Kさん「それは考えにくい。三条中学校は指定避難所になっているので、物資は補給される。あくまで、ボヤもあったし、復電で役割も終えたとの判断」

留学生が多い地域なので、避難所には多数の外国人が集まってきた。その時、三条地区ではない外国人も集まってきた。同じ国の人がいるからと集まったり、情報を求めるために人がいる場所にやってきたというのもある。

地域の人からすると、顔も知らない外国住民たちが、知らない言語で喋っていることへの不安感を抱いた方もいる。その時、マナーの面での不満が住民からあがることはあった。「外国人が散らかしている」といった指摘など。

あとは、原発の不安から、仙台から離れる外国人もいたが、自宅や寮などを片付けないなどいった不満を聞いたこともある。ただ、誤解があったりする面もあった。ある人が「そこの外国人がマナーが悪い」と言っていたので指さした方向をみたら、髪を染めた日本の若者だった、というケースもあった。

Kさんは震災後、多文化防災の研究会を作り、行政、関係者、当事者と、今後の多文化共生の観点からの災害研究を行っている。特に、外国人住民が参加しての地域防災の取り組みに力を入れる。留学生などの多い三条地区でも、関係者と避難所運営について協議している。

日ごろからの留学生などとの交流がない中では、災害時の対応ができるかと言えば難しい。だから、日ごろから顔が見える関係を築いておくことが重要とKさんは考えている。避難所支援の教訓を活かすためでもある。


  • 町内会長のTさんのお話

先生たちが三条中学校の避難所を立ち上げた。地域の6つの町内会長たちが連絡をとりあって避難所に集結し、お手伝いするようになった。自分が行ったときは既に外国人・留学生がたくさんいた。

Tさんは、ストーブの石油入れ替え、トイレ掃除、区役所から支給された食料、毛布の配布を手伝っていた。毛布の多くは、避難者自身が持参してきた。近くの留学生も、宿舎などから持ってきていた。

食料は当日はなかったけれど、翌日からは配給があった。配給は青葉区役所から届いた。朝・昼・夜と、役所の担当の方が避難所の人数を把握して、水や弁当などを配給。食料はだいたい足りていた。

避難所は、火災のために閉鎖した。通電火災が起きて、消防車が来て消火活動にあたった。火元の教室は、体育館の目と鼻の先。いくつか教室が焼け、学校そのものが被災したということで、話し合いの結果、閉鎖することになった。

その頃には余震はあったものの、三条中学校近辺は、潰れたりした家屋はほとんどない状態だった。多くの人が、自分の部屋にいって片付けしたりしていた。既に、地域の数か所で炊き出しもやっていたし、買い物制限はあったものの、スーパーやパン屋さんも空きだしていた。

水も場所によって出はじめて、電気も通った。留学生などの中には、まだ避難所から離れたくないという人もいたけれど、なんとかお願いして帰ってもらった。

初めての事だったので、避難所での課題はたくさんあった。外国人が多い地区ということで、よその地区から三条中学校に集まってきたリ、座礁された外国の方が自衛隊によって遠方から連れてこられたりしていた。とにかく外国人、留学生が多かった。

通訳ボランティアも足りなかった。高齢な方は外国人を怖がっていていた。留学生と一緒に雑魚寝したりするのを怖いと思って帰った地元の人もいた。

マナーの問題はあった。こそこそ喫煙する学生がいたり、トイレも汚したり、都合の悪いことは「日本語ワカラナイ」と言ったり、「略奪」という表現は違うが、一人で二人分の物資を貰おうとする人はいたり、自転車などを置きっぱなしにしたり。東南アジア、中国系が多かった印象はあるが、何人(なにじん)が悪いというわけではなく、一部にそういう人がいたということだ。

一方で、プールからの水汲みの時に、率先してバケツリレーを手伝ってくれる外国人もいた。掃除してくれる外国人もいた。但し掃除は、だいたいは地域の役員や学校の職員がやっていた。遠慮して、なかなか留学生に手伝ってと言えなかった。一部がマナーが悪く、一部が手伝ってくれた印象だ。

マナーの問題は、留学生だから、という側面はあると思う。外国語のできる東北大学のボランティアなどが注意事項を伝えたりしていたけれど、英語の人、インドの人、フランス語の人、中国の人、色々いるので、言葉の壁を感じた。ただ、それと避難所の閉鎖は関係がない。火事がなければ避難所は続いていただろう。

東北大の小田中直樹さんが、中国系の風評は一部のことで、デマなんだと書いたと聞いてる。ネットで見れるはずだ。小田中さんは英語ができるから、困った時に、通訳で助けてもらっていた。風評の影響というのはないわけではなくて、近くに国見小学校という避難所があったが、「国見小学校(の避難所)はよかった、三条中学校(の避難所)はダメだった」と言われたりした。

震災後、地域で避難所運営マニュアルの見直しをはじめ、翌年から「避難所立ち上げ訓練」を重ねている。留学生に関する決まり事も書いた。留学生も若者だから、お客様扱いするのではなく、出来ることはやってもらう。

留学生でも1年生くらいの人では、日本語が分からない人も多い。そういう人に、英語や中国語などで一時間くらい、防災のルールを伝えたりしている。また、留学生にAEDの使い方を教えたり、応急救護を伝えたりもしている。マナーとかしつけとか、そういうのよりも、具体的に参加してもらえる訓練のほうが、留学生も積極的なようだ。何日続くかわからない避難所生活なので、みんなの力で分担していくことが重要だと思う。


  • 三条中学校校長(当時)・伊藤芳郎さんのお話

伊藤さんは当時、三条中学校の校長を務めていた。卒業式の準備で、校長室にいたときに発災。生徒たちを校庭に避難させた後、順次、保護者へ引き渡していった。その後、三条中学校を避難所化。体育館、武道館を開放することにした。避難所設営には、残っていた生徒たちも積極的に関わってくれた。

仮設トイレを設置し、体育館にシートを引き、仕切りを設置する、武道館に畳を敷くなどをした。時間を置かず、次々と避難者の方が来られた。先生方で声掛けしながら、引き渡しと、避難者受け入れを同時に行っていた。

半年前にあたる10月に、三条中学校では町内会主催の防災訓練を行っている。東北大学国際交流会館の留学生も合同で訓練をしていた。そのため、留学生の方は、三条中が避難場所だと知っている。しばらく経ち、留学生達が、荷物を持って避難されて来られた。留学生には、家族がいる方もいる。そうした方も含めて来られていた。

避難に来られる様子は、みなさん整然とされていた印象だ。ALT、英語の先生、大学生ボランティアの人と共に、留学生らに情報伝達した。外国の方はたくさんいたが、名簿作成までは至らなかったので、正確な人数は把握出来ていない。印象は人によって違うかもしれないが、半分以上は外国人の方だったように思う。

備蓄物資は約600人分だったが、避難者が1000人以上いたので、最初は量を二分の一にして配布した。しばらく経ち、役所からも物資が届き、周辺のコンビニなどからも支援を受けたし、差し入れも届いた。一時的に物資が不足したが、配布はお年寄りや子どもに限定した。

13日午後、体育館の脇にある校舎の4階、美術室の準備室から出火した。ボヤ程度ではなく、その教室はかなり焼けてしまった。建物が近くということで延焼可能性を懸念したこと、火事の現場検証の必要があったことから、速やかに体育館にいる方々を校庭に移動してもらった。

火事の後、避難所を閉鎖させた。火事がなければ避難所はもう少し続けていたと思う。閉鎖についての意思決定は、教員や町内会長などで共に検討した上で、最終的に自分が判断した。

閉鎖させたのは、あくまで火事のため。加えて、通電によって電気が戻り、家に戻れる状況になってもいたことも考慮した。留学生は国際交流会館に移ってもらった。残りたがっている留学生もいたが、説得した。閉鎖できる状況が整ったため、合わせて判断した。

荻上「外国人のトラブルが遠因となったことはあるか」伊藤「それは一切ない。あくまで火災があり、危険だと感じたため。留学生らとの混乱もあったという指摘は、後になってから知ったので、レポートに書いた。つまり当時は把握していなかったので、意思決定に影響していない。逆に、火災があったのに避難所を続けるほうがまずいとも思う」

当時、ネットで三条中学校のことが話題にあがっていた時には、既に体育館の避難所は撤去されていた。書き込みについては知っていたが、ネット上の動きを見守ることにした。「略奪」という表現もあったが、避難物資は先生方で管理しており、勝手に持っていくことなどはできない。そのうち、数日で終息したので、学校の復旧にあたった。

避難所は、体育館を先に閉鎖し、武道館は残した。武道館は、すぐに避難できない地域の方や、体調が悪い方が残っていらっしゃった。その後、武道館も閉鎖した。

自分自身は目立ったトラブルは目撃してはいない。個別のことは分からないが、避難所として解決しなくてはいけない大きなトラブルがあったら、自分のところに情報があがってきたのではないかと思う。もちろん、うまく外国の方に情報が伝わらない、あるいは意思疎通が十分ではないということはあり、震災後、課題などをいろいろ伺って、レポートとして書かせていただいた。

留学生などを「お客さん」として見るのではなく、避難者と共にルール作りするのがよいと思った。後に、留学生にそういう趣旨のことを言われて、逆に勇気づけられたりもした

留学生のいる地域としては、日ごろの合同防災訓練を行い、留学生も含めて避難所の運営をしていく力をつけていくことが重要であり、意義ある取り組みだと思っている。地域としてプラスの方向になってほしいと願っている。


  • 補足

避難所の設置・閉鎖の様子については、「『多文化防災』の協働モデルづくり報告書」というレポートの中で、朝間康子氏(仙台市立三条中学校教頭・当時)のシンポジウムでの発言が紹介されています。一連の発言は、伊藤氏の発言を裏付ける内容になっています。

みなさん、こんにちは。国際交流会館の側にある三条中学校から参りました朝間康子です。当日の学校の様子をお話したいと思います。三条中学校では翌日に卒業式を控えておりまして、1年生と2年生がその準備にあたっておりました。在校生は 200 名ほどおりましたが、それぞれの場所で準備していましたので、
地震発生時に生徒の安否を一度に確認できる状態にありませんでした。揺れがおさまるまでの間、それぞれの生徒は教師の指示のもと、鞄で頭を被って落下物に気をつける、机の下にもぐるなどして、身を守りました。
私は子どもたちの様子が見える場所にいたのですが、子どもたちが伏せたりしている様子を確認しながら、いつまでこの揺れは続くのだろうと不安を募らせておりました。揺れがおさまってから生徒たちを校庭に避難させ、全員の無事を確認することができました。すでにその頃から保護者の方が生徒たちを引き取りにいらっしゃったのですが、だいぶ寒くなってきましたので、生徒たちにはいったん武道館へ移動してもらいました。
本来、生徒たちは集団下校してもらう計画でしたが、周囲の状況もまったく分からず、そのような状況で下校させるのは危険を伴うということで、保護者の方へ引き渡しすることにしました。ただ、仙台に戻って来られないという保護者の方もいらっしゃって、武道館で一泊する生徒もおりましたが、翌日には全員の引き渡しすることができました。生徒の引き渡しをするなかで、地域の人たちが学校に避難していらっしゃいました。そのなかには外国の方もいらっしゃいました。地域にはこれだけの外国の方が住んでいたのだなと改めて実感しました。校長の指示で、体育館と武道館を避難所としました。夕方には町内会の方々もおいでになり、その後の避難所運営にも協力していただきました。感謝申し上げます。
今思えば、あの時にああすれば良かった、こうすれば良かったと思うことがたくさんありますが、地域の方々と協働で防災訓練をしていたこともあって、すぐに子どもたちに仮設トイレを組み立ててもらい、5台設置しました。夕方からの炊き出しに備えて、備蓄庫にあった物資を体育館のステージの方に運んだのですが、それも中学生たちが一生懸命に手伝ってくれました。炊き出しの準備の間も、生徒の引き渡しや地域の方々の避難の受入を同時並行で行ったのですが、教職員が中心となってそれらにあたりました。先生方には、予想外のことも多々ある状況のなかでも適切に
対応してくださり、感謝しています。1,000 名以上の方が避難していらっしゃいましたが、外国の方はおそらく同じ国どうしの方で集まって避難し、情報交換をしている様子でした。学校では、学生ボランティアを募り、食料や水の配給を行いました。外国の方も多かったこともあり、学生ボランティアの方に日本語と英語で避難所運営に関するアナウンスをしていただきました。安否の確認のために掲示板を設置し、情報交換できるようにしましたが、入ってくる情報が非常に限られており、私たち自身もとても不安でした。残念ながら 3 日後に通電による火災が発生し、避難所を閉鎖せざるをえなくなりましたが、留学生をはじめとするボランティアにはお世話になりました。
http://www.sira.or.jp/japanese/activity/download/tabunka_bousai.pdf


なお、同レポートでは、課題面についても、様々な指摘がなされています。

佐藤 「言葉の壁」や「文化の壁」がある外国人被災者が、言葉の通じやすい人どうしで集まってしまう。これは当たり前と言えば当たり前なのですが、ネットワークを活かして特定の避難所にどんどん集まってしまう、ということがあるということですね。これは三条中学も同じだったと思うのですが、朝間先生いかがでしょうか。
朝間 三条中学にも地域外の方々がだいぶ集まるということがありました。おそらく、こっちにいるからおいで、というようなことがあったのだと思います。
佐藤 仙台市以外からご来場の方のために補足しますと、三条中学校の側に東北大学の国際交流会館という建物があり、そこに多くの留学生が住んでいるのですが、会館を出た後も会館の近くにお住まいになる留学生が多いようです。また、長く住んでいる方にはこの地域に店を出すケースもいます。外国人住民の「散在地域」と呼ばれる仙台においてもこの地域に比較的多くの留学生とその家族が住んでいます。それもあって、三条中学校が外国人の避難所のようになったということだと思います。片平小学校も近くに東北大学があるので、同じようなかたちだと思います。さて、先ほどに元気な若者が被災者となる一方で、他方町内会が支援者となる避難所の矛盾のお話がありましたが、外国人被災者は支援されるべき存在なのかということを考えたいと思います。仙台市の防災計画でも外国人は要援護者という位置づけになっていますが、確かに言葉の面ではそうかもしれませんが、マンパワーとしての外国人という意味ではどうなのでしょうか。
朝間 先ほども日本語と英語でアナウンスしてくれたという話をしましたが、やはり外国の方がその役を買って出てくれて、避難所の運営のルールなどを話してくれました。本校の ALT も積極的に活動してくれました。しかし、その時に、外国の方にそれ以上に運営を担っていただくという発想がありませんでした。今にして思えば、同じように避難していて、同じように力を出し合えば、もっと良い避難所運営ができたのではないかという思いが実はあります。私たちもそのような視点が欠けていたと思います。
佐藤 そのあたりについて、外国人被災者は支援されるだけの存在か、という点で、馮雷さんからお話いただけないでしょうか。
馮雷 留学生は若い人が多いですし、例えば、荷物を運ぶとか、救援物資を配るなどして自発的に避難所運営を手伝えば、みんな助かると思います。
今野 その通りだと思います。3 月 11 日は学校が春休みになっていました。実際に地域の力になってくれたのは中学生や高校生だったのですね。私たちは毎年、防災訓練を行ってきたわけですが、反省をしています。と言うのは、防災訓練には外国人住民や大学生も参加してくれていたとは思うのですが、私たちが計画したとおりに参加してもらっていただけだったと思うのです。例えばここで地震体験車に乗ってくださいよとか、ここで濃煙体験をしてくださいよとか、こちらで炊き出ししたものを食べてもらうとか。いわば訓練に参加してもらっていたものの、お客さんあつかいしていたのですね。訓練の時から積極的に参加してもらうようなかたちにしておかないと、実際に災害が起きてもお客さんになってしまうのは当然だな、と感じています。
http://www.sira.or.jp/japanese/activity/download/tabunka_bousai.pdf


災害後、「留学生のマナーが悪かった」などといった指摘で立ち止まるのではなく、これからの災害時共生の有り方をめぐって、丁寧な議論が継続されていることが伺えます。

  • まとめ

・改めて、5年前の元ツイ「避難所用救援物資を根こそぎ、近隣の外国人留学生(中国韓国で七割強)が運び出してしまい、避難所の機能停止」により「閉鎖」したというのは、やはり「流言」だと言えます。根拠の不確かさ、時系列の誤り、煽り文句などと相まって、より強い「略奪」といった流言まで拡大させてしまったケースだと言えるでしょう。
・災害時の多文化共生については様々な課題があることもわかりますが、取材に応じてくれた方々は、地域での日ごろの交流、当事者参加型の取り組みを継続することの重要性を口にしてました。実際に各地で、モデルとなるような取り組みが既に始まっているように思えました。
・最後に、このたび取材に応じて下さった皆さまに、厚く御礼申し上げます。