ネットいじめと現代社会 ―― 内藤朝雄×荻上チキ特別対談

2008年5月某日、立教大学および東京大学にて、内藤朝雄さんとの対談を行いました。当日は内藤さんのご好意で、「対談→立教大ゼミ院生を交えた討議→移動→東大院講義→質疑応答」という「チキさんスペシャル」(笑)と題したスケジュールを組んでいただき、内藤さんやゼミ生の方にはあらかじめ7月に発売した拙著『ネットいじめ』のゲラを読んでいただいた上で、多くの貴重な意見やフィードバックをいただきました。


そこで、ここにその時の対談の模様を公開いたします。対談は、いじめ研究の第一人者、内藤朝雄さんが「学校裏サイト」や「ネットいじめ」についてどのように考えているのか、現在必要な対策とは何か、メディア報道の問題はどこか、「寛容な社会」は実現可能か……などなど、様々な論点にわたっています。ひとつでも、何かみなさまの参考になれれば幸いです。




議席にエントリーすることと専門家の役割
チキ:内藤さんと会うのは約半年振りですね。今行っている調査などはありますか?


内藤:最近はフィールドワークではなく、執筆に力を注いでいますね。


チキ:講談社現代新書の、一般向けにいじめ理論を解説する本でしたね?


内藤:そう。でも、結構苦労しているんだ(笑)。学者向けに書くときは楽で、サクサク書ける。また、一般向けに、複雑な論理を一切用いないで書くものも、サクサク書ける。ところが、「高校生にも分かる相対性理論」みたいなのが一番難しい。『いじめの社会理論』に書いたことを、一般にガチンコで分かりやすく書くということを要求されているので、難航しています。それでも着々と進めていて、その難しいハードルを越えるときの喜びはありますね。


チキ:一つのフレーズが浮かぶと、そこから先はサクサク書けるというのはありますね。そのブレイクスルーのために2、3日かかってしまったり。


内藤:漆を何度も何度も塗り重ねるような作業だよね。でも、乞うご期待ということで。


チキ:その点、学者向けの文章は、書く分には本当に楽ですね。どれだけ圧縮しても、解凍してくれるという期待があるし、解凍できない人の自己責任にも出来る(笑)。ただその期待も、今は個人的にちょっと薄れつつあったりもしますけど。その意味でも、一般向けに書かれる本には、ある種の役割が担わされますね。


内藤:学者といえば、チキさんの本のゲラを読んで驚いたのは、尾木直樹さんがすごい発言をしているんですね。


荻上:彼はメディアでは、なぜかネットに詳しい人であるかのように扱われていますね(汗)。意外とリベラルな人からも、それが疑いなく受け入れられている。実際はすごいメチャクチャなんですが、学者の体裁をとったポリティクスが行われているので、本の内容だけでなく、そういう言葉が流通してしまう構造も批判しなくちゃいけない。


内藤:そういう発言が流通していると、後藤和智君みたいに憤るよりも先に、「これをしなきゃ流通しないのか」という暗い気持ちになります。こうやって世の中にアピールして、発言力をつける方がてっとりばやいのか…と。自分の今後の歩み方についても悩んでしまう(笑)。


荻上:もちろん内藤さんは学者でいてください。現状との接続は他の人と分担すればいいと思います。その点、書籍というのは「発言業界」へのエントリーシートのようなものでもあって、本書もそのように機能するでしょう。どうしても「よりベターな一席確保」ということを考える必要もあるんですよね。そういう振る舞いを、内藤さんをはじめとした方が、「正しく冷める」ような批判的注釈を行ってくれれば、全体として適切な批評装置になると思う。例えば僕の使っている「中間集団全体主義」という言葉は、内藤さんの定義とは微妙に異なっていますし。


現状について言えば、ネットいじめに関しては、「専門家」が全く役に立たないし、的をはずしたことしか言っていない。特に、ネットいじめに関する語りの多くが、従来のいじめとの差異が強調されすぎています。しかし、質的な違いはもちろんある一方で、共通点も多いし、なによりいじめ研究の延長で考察することが重要です。


例えば今は、(1)「匿名であるがゆえに陰湿化する」、(2)「誰もがターゲットになるうる」、(3)「発言者の特定が出来ないため、対処が出来ない」、(4)「どこまでもいじめが追いかけてくので、よりストレスが強くなる」……といった発言があまりに繰り返されて、受け入れられつつあります。しかし、これらの「特徴」をそのまま信じるのは、いくつかの点で誤りです。


ゲラにも載せていることで繰り返しになりますが、ひとつずつ簡単に触れていくと、(1)いじめはもともと陰湿であり、ネットが登場したがゆえに突然うまれるものではない。(2)ネットいじめにおいてもターゲットにされる「キャラ」には偏りがあって、それは教室で叩かれる人と実は大差がなく、潜在的だったものが顕在的になったということ。(3)ネット上にかかれたものに関しては、現在では作業は煩雑であるものの、デバイスの特定は比較的容易に出来るので、従来のいじめ以上に特定がしやすくなっているため、的確にやれば対応はスムーズにできる。少なくとも、放課後の教室に全員を残して行われる「沈黙学級会議」みたいなのよりは遥かにマシ。(4)もともと学校空間で「誰かを叩く」というコミュニケーションが求められやすく、それがネットというメディアを通じて行われるという関係がベースにあるというのは、強調される必要はある。いじめのアウトプットは変わったかもしれないけれど、ストレスが続くのは「ネットによってどこまでも追いかけてくる」からではなくて、ローカルな関係を切れないから、という具合に。


このように、現状では観察者の側が、やや目先の「ネット」の方に目を奪われすぎなので、既存のいじめ研究と社会情報学とを、あるいは学校文化や現代社会について考察するためのコンテンツとを繋げながら、一歩ずつ議論を進める必要があるわけです。例えばネットいじめについて考察するためには、学校空間での、ケータイをめぐるコミュニケーションがどのようなものであるかを観察することが必要になる。そしてもう一つは、ネットリテラシー教育がいかに可能かを吟味することですね。


後者は、今の学校の先生にはあまり期待できない部分ではある。理由はいくつかあって、一つは単に、ネットやケータイを知らない人が多いし、ネットやケータイはそもそもコミュニケーションを学校に留めてくれないため、学校だけで対処できる問題ではない。それに、陰口の可視化は、その学校の環境や評判の可視化でもあるため、学校に関するネガティブな評判を許さないという態度をとりがちなので、繊細な議論がしがたい状況にある。


ネットというのは口コミを可視化してくれるメディアですが、企業や商品のネガティブな情報でも、消費者や就職を考えている人にとっては重要な判断材料になる。もちろん風評被害の問題と裏表であるわけですが、学校勝手サイトにおいても、同様の現象が起こります。


受験シーズンから入学シーズンにかけて、次のように2つの興味深い場面がありました。一つは、これから入学する高校の勝手サイトを作って、これから同窓生になる生徒同士が自己紹介をしあっているような場面。もう一つは、中学校の勝手サイトで励ましあいながら試験勉強をする生徒同士が、「あの高校は、サイトが荒れているから、本当は暮らそう」といった情報交換をしているような場面。学校に入学する前には、その学校のことをネットで調べたりするわけですが、勝手サイトは生の口コミ評価だという形でも利用されていた。これはおそらく一般化はできないけれど、学校はそのような、評判の可視化を嫌がるだろうなと。


学校のパンフレットには、教室がどれだけきれいか、どんな設備があるか、どんな部活が賞をとっているか、卒業生がどこの学校に進学したか、校風と校長の笑顔はどのようなものか。そういう情報ばかり掲載されていますね。しかし生徒にとってはやはり、いじめが起こりやすい環境であるか、風通しはいいかどうかといった点が重要になる。そのニーズが可視化されるプロセスによって、環境の最適化というルートも一方でありうると思うのですが、デメリットとしてのみ受け取られるのも、ちょっと残念でした。


それともう一つ。そもそもリテラシーを上げれば、ネットいじめが解決するかと言えば、そういうわけではない。ウェブ上の炎上などを見れば分かるように、高いリテラシーを駆使して叩くことはよく行われるし、逆にリテラシーだけでは集合行動への抵抗は難しいことは証明されてしまっている。「リテラシー」が魔法の言葉のように、それがあるだけで何か良いことであるかのように使われているけれど、リテラシーがどう使われるかによって左右されるし、仮に価値判断をそこに含めるにしても、それは「みんなが善良な市民になればいじめはなくなる」と言っているのと同じように、無理なプランです。だからこそ、既存のコミュニティの観察が、いっそう重要な意味を持つようになる。だから本書では、「騒ぎすぎ」を批判する作業と、「観察」をアップデートする作業の両方を行っているんです。


■「ネットいじめ」と「不安業界」
内藤:実は僕は、これまでネットいじめについての関心がまったく湧かなかったんです。マスメディアなどでの報道が流行しているのは知っていたんだけれど、チキさんみたいに積極的には発言しようと思わなかった。どうしてかっというと、基本的にいじめの問題は大きく要約すれば、学校の狭い空間で、ベタベタした関係、つまり「仲良くなりましょう」ということを強制すること。それから、学校に法律が入らないこと。この2つが圧倒的に問題であり、この2点を改善すれば、ネットいじめもかなり改善されるという確信があったからです。それは自分の長年の研究に基づいて、そう思っていた。


議論にはいつも、何が重要かというポイントが求められるわけですよね。人々がマスコミなどで「こんなことが起きている」と大きな話題にすると、そこに「お座敷」が出来る。マスコミで発言したり、本が売れたりすると、「店が開く」、つまり話題についての市場が出来る。その市場で発言をしないと、影響力をもてなかったりする。どれだけ、そのお座敷で作られているポイントが間違っていても。そういう状況に、どうしてもやる気がわかなかった。


しかも、元々僕はネットいじめについては、次のように書いていました。まずは『いじめと現代社会』からです。

 社会全体に波及する画期的な新しいテクノロジーが生まれると、そのテクノロジーによって人間存在が根底から変わると過大にまくしたてる「文化評論家」は、昔から存在しました。昨今、話題のインターネットの功罪に限らず、新しいテクノロジーは人びとを不安にさせるからです。人間存在が根本から変わってしまったと騒ぐネタにされやすいのが、若者や子どもです。お年寄りとかおじさん、おばさんを槍玉にあげることは、まずありません。
 すこし冷静になって考えてみれば、どんな新しいテクノロジーでも、それが普及していく際の騒ぎが一段落すると、普通の身のまわりのものになります。電話が普及しはじめたときも、面と向かった生のコミュニケーションが、電話によるコミュニケーションに代わってしまうのは、疎外された人間関係を生み出すからよくないと主張する人はいました。
 たしかに、電話を使って深夜に何百回も無言電話をかけるような人があらわれました。しかし、粘着質でストーカーじみた人間の欲望事体は、人間の歴史と共に古いものです。(…)
「近頃の若いやつは、本来の人間の姿からはなれてしまったから何とかしなければ」などと大騒ぎするほうが問題です。求められていることは、新しいテクノロジーを社会になじませていくための冷静な分析です。(…)
 現在の状況は、よくある人間の愚かしさがネットの普及によって広い層に拡大して露出しているだけの話で、それ自体は何ら政治的に危険なことではありません。アカの他人がネット上でいがみあったところで、実際に暴力が蔓延することはなく、ネット上で悪態をつきあい、うんざりしておわるだけです。ただし、リアルワールドでの陰険な人間関係がネット上のやりとりと相乗効果を起こして、さらにエスカレートすることは、おおいに考えられます。

いじめと現代社会――「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ――

いじめと現代社会――「暴力と憎悪」から「自由ときずな」へ――


また、『「ニート」って言うな!』では、次のように書いています。

 リアルワールドの接触なしで、ネットの関係だけで人を殺す、というようなことは、じつはほどとんどありません。
ですが、閉鎖空間のもともと危険なべたべたした人間関係が、ネット上にまでもちこされ、ネットの現実感覚変調作用によってさらに危険なものになる可能性は否定できません。佐世保の事件で言えば、日ごろから濃密な人間関係があって、それにネットの影響がプラス・アルファされた、ということです。このこと自体は、ネットを原因にする理由にはなっていません。リアルな人間関係のうえにネットがプラス・アルファされているだけです。

「ニート」って言うな! (光文社新書)

「ニート」って言うな! (光文社新書)


つまり、そもそもの問題は、「閉鎖空間のもともと危険なべたべたした人間関係」に閉じ込められることだという、『いじめの社会理論』などで指摘してきたことが本筋で、ネットというテクノロジーの問題というのは枝葉のさらに枝葉というような感じなんですが、「お座敷」に集まる人たちが重要だと考えるのは、ネットだったり、あるいは「ヴァーチャルリアリティ云々」という議論だったりしてしまう。


こういう議論のポイントの流行というのは、昔からよくあることです。それこそ、いいものを食べないとキレやすくなるとか。こういうポイントに対して、一回一回批判する――後藤和智君のような、ある意味で立派な労働者みたいな感じで、湧き出る虫を一匹ずつつぶすような――作業をしなくてはならないのかと、頭を抱えるわけですね。かといって、学術雑誌でおたかくとまって事実だけを言っても、議論のポイントは作れないし、毎回議論のポイントの流行にのっていくのも違う。この間宮台真司さんと話したとき、後藤君みたいな人って必要だよねという話をしてたんですよね。


ネットいじめに関しても、いじめと同様、警察が正しく機能するようにすればいいと思うんです。しかし、NHKのBSディベートでそういう発言をしたら、全てカットされました。犯罪の低下のグラフを見せたりしながら、安易に若者の問題にする報道への批判などをしたら、カット。確信犯的なんですね。やはり、新しいテクノロジー叩きで飯を食べている評論家やメディアはいつまでものさばってしまうんですね。


荻上:「不安業界」が、モラルパニックによって利益を得る構造はありますよね。そして、「擬似問題」が蔓延してしまう構造も。もちろん、それをキャンセルする必要はある。ネットいじめに関して言えば、そういう言説は役に立たないばかりでなく、対策のための議論にとって有害になってしまいます。


先ほど内藤さんの仰られた「外部帰属化」の話の通り、メディアが登場すると、それまであった問題にもかかわらず、短期的には新しいメディアに原因を求めるような言説が集中します。最近の問題で言えば、硫化水素の報道もそうですね。マスメディア上では、ネットで知識を得た人たちが、ネットで知り合って死んでいる。だからネットはまずいよねという話になっています。テレビ報道などによる浸透などはどう考えているのか、という点ももちろんありますが、そもそも自殺をしたい人たちがネット上で方法や気分を検索しているような状態、つまり元々日本は自殺率がかなり高くて、そのごく一部がネットを媒介に情報や手段を取得する、というポイントについてほとんど語られない。


この間の文部科学省の調査では、50%のサイトに誹謗中傷があった、と報道されました。その他にも「暴力誘発情報が27%のサイトにみられた」という言葉が使われていて、内藤さんがご専門の社会学的にも「なんじゃそら」ということになるでしょうけれども、それが実際の割合や効果の面で、どのように既存のものと違うのか、あるいはそういう書き込みをする場面そのものはどうなっているのかといった議論はされていない。あたかも誹謗中傷がかかれることが、即問題であるかのようで、それは現実を無視しすぎています。


僕達は子どもの頃からずっと、様々なトラブルにあっているはずです。しかし、ネット上でトラブルにあうこと自体が、直ちにネットの欠陥であるかのように、そして実際のトラブルよりも遥かに強力で致命的なものであるかのように無前提で語ってしまう。新しいメディアへの観察は、このような「日常の喪失」を、論者自身がもっとも強力に演じてしまうということが起こりがちです。あるいは子どもであれば、即「大人」よりも未成熟である、だとすればとてつもないほどの影響をそこから受けるのだ、という具合に。それも、自らが子どもだった頃さえ忘却してしまうような状況です。


いじめに関する実態調査(例えばMMD研究所)の中には、ネットを通じていじめの相談をしたことがある子どもも少なからずいる。また、直接相談せずとも、ウェブ上のコミュニティを、現実の実りのないコミュニティによって得たストレスをガス抜きするために使っている人もいる。中学時代の僕もそうでした。だからネガティブがあってもOK、という話ではもちろんなくて、そういう細かな状況をまずは見ないことには、議論の精緻化は出来ません。だから、こういう本を、多くの一般の方や、あるいは内藤さんのような研究者の方にパスを送りたいと思っていました。


ネットいじめの方法論は、主要なパターンは二つあります。ウェブへの書き込みか、メールを使ったものか。前者は、サイトやブログなどでのテキスト交換し、本人の知らないところで行われた書き込みを本人が見てしまったり、そこで操作された「キャラのポジション」が実際の中間集団で適応されること。より厳密には、実際の「キャラ戦争のセカンドステージ」が、ウェブ上に設けられること。副作用としての情報流出に関しては、いじめとはまた別のロジックで考察する必要があります。


もう一つは、メールなどで直接本人に罵倒やパシリメールがいったり、周囲の人にメールが回されたり。いずれにせよ、いままで「コミュニケーション操作型のいじめ」と呼ばれていたものの延長にあるものですね。であれば、そこにある具体的な権力関係に着目し、手当てやキャンセルをすることが必要になります。その場合のメールは、言語内容自体が問題というよりも、言語行為によって権力関係が媒介されることが問題となるからです。その他にはもちろん、本人の見られたくない動画や写真をアップロードする、といったものもあり、それらは別途対応が求められます。そこは一度、切り離して考えたほうが分かりやすい。


簡単にまとめると、学校勝手サイトの書込みで「問題」とされるべきは、ある中間集団内のコミュニケーション操作、評判を共有する集合ならではの問題であること。つまり、内藤さんの理論同様、中間集団の中からある秩序が前景化する構造そのもの、と言うことになるかと思います。


■「ネットいじめ」といじめ学との接続
内藤:ここで確認したい、あまりに単純明快なことは、メールで「○○買って来い」と送るようなケースは、2ちゃんねるでやりとりをしている見ず知らずのもの同士の間には発生しないということですね。狭い中間集団で、付き合う相手を選ぶことが出来ずに、そこで作られた秩序を変えられない中で上下関係が作られるということ。根幹にはそういうものがあったうえで、クラスが舞台になるか職場が舞台になるかネットが舞台になるか、手紙が使われるか電話が使われるかメールが使われるか、ということなんですね。繰り返すと、いじめの原因は、市民社会の論理が介入できない中間集団を解体できないことです。だから、ネットの規制の議論は、正解から目を背けてしまう。


荻上:大学生などになると、学校勝手サイトでのトラブルって減るんです。単純に、顔を突き合わせ続ける必要が、高校までと比べて少ないからですよね。そこでの強制性が弱い。これは当然、通信制の学校とかの勝手サイトも同様。これは、リテラシーの問題とはちょっと違う。リテラシーが高いことと、モラルが高いことは別で、リテラシーが高かろうが、「やっちゃう奴」は出てくる。2ちゃんねらーなんかは、そのリテラシーをふんだんに使って、ガッツンガッツン情報弱者などを叩いているわけじゃないですか(笑)。リテラシー的に未熟だからネットいじめが起こる、というわけではないんです。


とあるIT系の会社内にSNSが作られた際、そのサイト内でいじめが起こったことが問題になりました。「今日のA」みたいなトピックスを立てて、みんなで陰口や失敗談などを共有していた。社員はみんな、激しくリテラシーは高いんです。そして、そこでは「社会人としてまずいから」という合理化も働いているため、説教なども通じない。決定的に、職場の雰囲気がよくなかったわけです。人間関係のキャンセル、移動可能性の拡大を導入すること以外に難しかった。このケースは、(ネット)いじめをリテラシーの問題、教育の問題、技術の問題ばかりに回収することの限界を表しています。


重要なのは「場」や「空気」の強制性で、その意味で、大学生までネットを禁じたほうがいいという発想は、高校までの、現状のクラス制度を肯定するために用いられる論法としても機能する。これは重要です。教育論者達が、いじめの解決を通して、どういうモデルを理想を考えているのかが浮かび上がってくるからです。その多くは、それぞれが持つ「理想の教室」に還元したい。でもそれは、いじめを生む同調圧力の温存と、不可分ですね。


僕達に今すぐ出来る具体的な方法は、対応フローチャートを作成し、共有すること。まずはその作業から始めなくては。各ステークホルダーの対応を可視化し、共有することで、試行錯誤を進めていくしかない。


内藤:特に、警察が面倒がらずにしっかり動くことは必要だよね。いじめはこれまで、内々で処理しようとしすぎたから、こういう時の対策が苦手なんですよね。以前、ストーカーに殺された人が、殺される前に何度も警察に相談していたが、相手にされなかったことが分かったとき、マスメディアに叩かれましたよね。ネットいじめについても、報道祭りをやるなら、通報を受けてスムーズに対応できない体制などを叩くとか、そういうほうがまだ生産的だと思う。


■「権力と監視」をめぐる混乱
荻上:そうですね。もちろん、警察が「未遂」書き込みすべてに反応したりする監視体制の正当性を与えることへの懸念も必要です。一方で、最近「第三者機関」という言葉はなんだかいいもののように語られていますけれど(笑)、権力構造が不透明でありながら、強力な「第三者機関」というのは結構まずい。そこでつい、「誰がやるんだ」というところで、議論が止まってしまっているように思いますが、現在警察が持つ役割を円滑にすることは求められる。


内藤:管理社会的なイメージで語られる問題は、官僚組織のなかの疑似共同体の問題だったりします。監視社会や管理主義について言っておくと、それらが直ちに悪いというわけではないんです。オーウェルの『1984年』的な、徹底的な管理に対して、自治的な民衆の生き生きとした動きが重要だと言う図式を前提として、監視社会に対してオピニオンを発しているケースは非常に多いんだけれど、官僚主義の弊害と言われているものというのは、実は官僚主義が純粋化されて暴走しているという話ではなくて、官僚システムの中に、人間的なネットワークの擬似共同体がはびこるということです。官僚システム内のさまざまな疑似共同体が官僚システムを「つかいこなす」とき、「官僚システムの暴走」と呼ばれる事態が生じます。旧ソ連の官僚システムは、「赤い貴族」の所領システムでもありました。


「警察を使いすぎるか/使い過ぎないか」という問題ではなくて、「警察をどのようなシステム内で透明化するか」ということが問題です。しかし、そういうことを指摘する人がいない。監視社会に反対だから第三者機関がよい、という感じになっている。警察は、どさっと使う必要があるときもあるんです。監視社会批判をする人は、どういうわけか政治的な左派に多くて、それは同時に国家権力批判と結びつくから、警察の介入などに対しても否定的なスタンスを取りがちなんだけれど、必要な時は、どんどん使えばいい。重要なのはそれをどうコントロールするかなんですね。必要なときは、スムーズにサクサク動く必要があるわけで。


荻上:法の過剰、不当逮捕といったケースに歯止めをかけつつ、必要な機能を担わせること。そのためにも、現状のネットいじめに関する議論が、適切に共有される必要があるわけですね。なかなかそういうことはされない。ネットいじめ、誹謗中傷、犯行予告によって逮捕や送検されたケースはこれまでもたくさんあるので、警察ではある程度の流れは出来ているはずですし、連携も求められていくでしょう。ディスコミュニケーションに対するセーフティネットの構築は進められていくでしょうね。


内藤:あとは、手間の問題がありますよね。本当に小さな書き込み一つ全てに対応するように動いていたら、警察はパンクしてしまう。駐車違反の取締りが外注化された際、不当なケースを減らすよう、細かな指導を行っていましたよね。だから、ちゃんとネット上の犯罪を取り締まれるようなシステムを構築するための、技術者や行政、あるいはチキさんのような人が話し合えるような場が設けられていくことが必要です。


荻上モバゲータウンや魔法のアイランドの熱心な取り組みなどは有名ですね。論者レベルでは、下田博次さんなんかは、様々な会議に呼ばれているみたいですね。下田さんの議論は、著書なんかでも単純な間違いや露骨な誇張があまりに多いので頭を抱えてるんですが。


内藤:宮台さんの同僚の、前田雅英さんなんかも、あちこちでデタラメなデータを使ってるでしょう。もともと誰を呼ぶかで会議や懇談会の結論は決まっていて、ちょっと違うことを言う人が発言しちゃってもカットする。専門家としての良心を持たない人ほど、求められている役割を淡々とこなす人ほど活躍できる(笑)。どうすればいいのだろうか。どれだけ叩いても、「その業界の中で生きていくことができるからいいもん」と居直られる。


荻上:僕もいくつか取材を受けましたが、彼らの中にはもともとあった取材の方針にそったコメントばかりを取りたがる人も多くいますよね。「荒れている学校裏サイトのキャプチャーをください」とか「何か悲惨なケースを教えてください」とか言われたこともあるくらい。長々と説明して、「こういうケースもありますが、実際には〜」と語ると、「こういうケースもあります」で切られて、そこだけ使われるとかね。媒体レベルというよりも記者レベルでまちまちですが、結局、アジェンダセッティングできる人が勝つ。だから、できる側に回る。舞台にあがり、仲間を増やす。そういうゲームに変わってしまいますね。それを部分的には担う必要もあるでしょう。


内藤:政治的な思惑も関わってくるからね。


荻上:論点パッケージの中に押し込められちゃいますからね。その時代ごとに、左翼/右翼的な、正統性を供給するための言説空間同士の大きな対立が呼び込まれ、そこを経由することで事物を判断するクラスターが生まれる。


内藤:それで儲かる人もいるからね。それを批判するのも、極めて単純な作業になっちゃう。後藤君とか、「少年犯罪データベース」とかの仕事は、とても貴重で。


荻上:ひとつの理論でひっくるめて総括しようとしない態度ですね。その言説バランスについては、メディアが日常化していく過程において、その風景を自明のものとする世代の、知に足のついた発言がじっくり浸透していくプロセスに期待しています。ブロガーはそういう手法を割と好む。無論、それが既存のアジェンダにどれだけ影響力を行使するかは、その都度計測される必要もありますし、限界もありますけれど。


ネットいじめについての分析は、ネットいじめについての対策を探るほかにも、様々な示唆を含んでいます。ローカルないじめの発生プロセスをシミュレートしたり、ウェブ上のコミュティ分析や情報社会論などにも意味を持つでしょう。あるいは、その文化的背景に着目することで、学校文化や日常でのコミュニケーションモデルについて考察するヒントもある。メディアイベントの構築プロセスについても然り、ですね。それは学校勝手サイトに限らず、SNSMMORPG、出会い系サイトなどについても同様に言えることではあるんですけれど。


内藤:複数のモジュールが入ったり切れたりしながら、その場に応じてリアリティが構築されていく。その研究フィールドとしてはすごく面白いですよね。あるいは、否定的言説の研究をするのも面白いかもしれない。


荻上:僕は今、それを準備しています。というか、最初の本が『バックラッシュ!』でしたし(笑)。


内藤:そうだった(笑)。


荻上:トンデモ系の本やサイトを数千チェックし、今回も膨大なサイトに目を通しました。それなりに楽しめるからいいんですけど。


内藤:正義感とかじゃ続かないだろうけれど、面白いメカニズムを発見しようとする好奇心からなら、森の散策みたいで楽しめるよね。


■「メディアの影響力」について
荻上:僕自身、中学や高校のときから、学校勝手サイト的な利用の仕方はもともとしていたので、基本的に楽しめました。


ちょっと今日、ゼミ生のみなさんにレジュメを配りましたけど、そこに3つの掲示板を載せてます。一つ目はスレッドフロート型のPC・ケータイ両用の掲示板ですが、スレタイからも、基本的にピースフルなサイトだというのはお分かりいただけると思います。「トリビアスレ」「しりとりで1000を目指すスレ」「恋愛相談スレ」とか。しりとりスレが、見事に1000までいっているという、なんというチームワーク(笑)。で、もう一つはモバゲー内のサークルで、こちらはケータイ専用で顕名度の高いサイトですが、これまたピースフル。文化祭で発表するソーラン節の練習について相談しあったりしてますね、これ。3つ目は、PC・ケータイ両用の掲示板ですが、誹謗中傷が並んでますね。実名で「死ね」と書かれていたりする。


ごらんいただければ分かるとおり、単純に言って、学校勝手サイトの中にも「裏化」するサイトとそうではないサイトがあると。これらを分析するためには、アーキテクチャなどに着目するほか、ローカルな人間関係の距離関係や、それと場との結びつきについて考察する必要がある。時には人間関係をケータイなどに「外部化」することによって、コミュニケーションストレスの縮減にも機能する。情報量の多い人間関係を楽なものに変えることができる場合と、逆にストレスフルな空間にしてしまうこともある。


内藤:インターネットがなくても、もともと存在したものとか、盛り上がっていたものがあって、それらがどう変わったのかという議論にしないとね。日本の場合、ネットがあろうがなかろうがいじめがあって、コミュニケーションのためのメディアが登場すれば、応用されるというのは分かっていたはずだから。


荻上:ネットいじめ、あるいはウェブ上のネガティブな集合行動については、海外でも多くの事例が報告されています。海外のかなりキツイいじめ動画をたくさん見ているし、自殺や殺人につながったケースも同様に報告されている。ネットがあるがゆえに顕在化された問題群と取り組みが必要なのは、いずれの国でも同様ですが、同時にそれらの国で共通して存在している背景や、変化について知る必要がある。もともとあった自殺願望が、樹海か、硫化水素か、ネット経由のオフ会であるのか。そういう選択肢のトレンドとは別の形で、です。


内藤:さもないと、樹海に向かう電車が原因だ、というレベルで議論が進みますからね。もちろん樹海へ向かう電車は補助自我にはならないが、例えば銃は全能感を与えるための補助自我になる、とは言われていますね。ただ、ネットの場合、銃のそれに比べても、ある方向へと導く直接的な影響力は持たないわけです。銃には「撃つ」という一つのアクションが明示的だけど、ネットは、もともとある自我によって、アクションが多様に分かれる。ある種の全能感をもたらすことはあっても、それの結果は大体がチンケなものなんですよ。


荻上:「死ねばいいのに」と書くとか(笑)。


内藤:(笑)。だから、銃の全能感と同列に置くことも難しいだろうと。


荻上:ネットはコミュニケーションツールですから、元のコミュニケーションに対する欲望を見なければならない。その意味で、樹海を一つのメディアだとすれば、樹海自体がそういう欲望を誘発しているわけではなくて、「樹海=自殺の名所」という社会的・記号的な意味づけが、ある種の欲望や背景と結びついたときに初めて機能するものです。ネットも同様で、未だに「ネット=アングラ」という位置づけをしたがるメディアが多いけれど、そういう言語作用がもつひとつの効果として――例えば「学校裏サイト」に関する報道が増えたことで、メディア経由で学習し、悪口を書くために利用しようとする生徒も多くいたように――ある種のモードと感情が結びつくということはありえる。それは、ネット自体、匿名自体がそれだけで何かを誘発するというものとは別の、丁寧な観察が必要で。


同時に、ネット自体がコミュニケーションツールであるので、その意味付けの仕方も、ネットの側から常に更新されていることには注意が必要です。文脈を与えられるだけのものではなく、利用者達が様々な文脈をそこに読み込んでいくものだから、マスメディアの観察の言葉がチープだから現状はまずい、という話ではもちろん終わらないんです。


内藤:全員がそのサイトを見れば、ほとんどの人が同じような気分になるというような「スーパーサイト」があれば別だけれど、ほとんどの場合はそういうものではないからね。そこでようやく技術的な問題について触れると、普通の会話は一度喋ると消えますが、ネットでは残る。残るがゆえに、ただ喋るのとは違う問題が起こる、ということは教える必要があります。家の冷蔵庫にあるものを勝手に食べるのと、店に並んでいるものを勝手に食べるのが違って、前者は躾の問題だけれど、後者が窃盗などの法の問題になるように、意味づけのレベルが変わりますよ、ということは知られなくてはならない。それはキツく教え込まないと。


■「教育」に可能なこととは何か
荻上:そうですね。ネットのルールを知りつつ、中間集団の関係性をメンテナンスすること。これらはある程度は啓蒙可能なものですよね。仲間同士で話しているつもりでも、広く読まれてしまう状況にあることで、トラブルにつながるようなケースがあるというように。


内藤:ネットリテラシーの議論を、ネットを特別なものであるかのような形で議論をするのは間違いですよね。見ず知らずの人と交わる場での秩序をめぐる議論ですから、マナーではなく、法と同じように教えるべきだと。店ではお金を払わないと窃盗になるということを教えるのは、小学生の時点で既に当たり前に行われている成功事例ですよね。ネットもある年齢で、そういったことはある程度教育可能でしょう。


荻上:となると、ほとんど国語教育の議論になってくるわけですね。むかしネチケットという言葉がありましたよね。ある種の道徳論的な形でネットを教えるというスタンスですが、僕の師匠の石原千秋は、受験国語研究を通じて、日本の国語教育が空気を読むための道徳教育が実態で、コミュニケーションやリテラシーといったものを高めるようなものではないと喝破していますが、「リテラシー」というのをもともと教えがたい環境にある学校空間、という問題が出てくる。


先も言いましたけれど、リテラシーというのを信用しすぎたり、高度なものを求めすぎるのもまずい。「可能なるリテラシー」を、いかに共有するかといった議論が必要で。その場合、例えば「死ね」と書いてはいけません、といった教育は、意味をもたないわけですね。応用可能性が低すぎて。


内藤:「空気を読みましょう」と言っているようなものですね。


荻上:そうそう。広く何でも当てはまるアドバイスか、具体的だけど限定的なアドバイスかに偏ってしまう。また、「死ね」という言葉を書き込ませないようにすることは、実は技術的に出来てしまう。しかし、言葉が文脈に依存するものであることを忘れてしまうと、一つの言葉をなくすだけにしか機能しない。世俗化可能な方法で、しかし実効性もそれなりにある対処と言えば、具体的な方法論を現場から作り上げていくしかない。「ネットは有害で、オトナには分からない世界だからしょうがない」と言ってくれる論者の言葉に癒されている場合じゃないです。


内藤:僕が嫌だなぁと思うのは、電車とかに電車のマナーのことを描いているマンガとかあちこちに貼ったりしているような状況。マナーというのは破ってもいいものなのだから、空気を読みましょう、思いやりを持ちましょうといった言い方ではなくて、法律やルールの話をするべきで。そのためにはもちろん、学校にも法が入らないといけないのと同じように、ネットにも法が入らなくてはならない。ネットリテラシーとして今議論されているのは、法的な部分と、マナー的な部分が混同されがちなので、法的な部分、そしてその背景にあるものを丁寧に教えることからはじめないと。


荻上: マナーを万人に共有するという発想は、どうしても無理が生じますね。リテラシーに期待できる部分と、環境設計に期待できる部分は分けなければならない。その意味で、例えば「チュートリアルが埋め込まれたシステム」という発想、つまり操作していくうちに自ずとリテラシーが身につけられる環境設計という発想は重要です。それほど難しいものではなくて、例えば監視や、「ペナルティ」のシステムがかなりしっかりしているモバゲータウンのようなサイトにも、既にその萌芽はあります。トラブルばかりが報道されがちだけれど、オフラインのトラブル率と比べて遥かに多いとは言いがたいですし。


内藤:ネットはもはや、誰でも使うようになっている。だったら、お金を万人が使えるようになった社会と同じように、その基本的な使い方やルールを教えなくちゃいけない。その場合、例えばお金の払い方というものが「リテラシー」という言葉で議論されないように、ネットについても極めてシンプルな扱いにされていくのがいい。現在でも、どんなにガサツで頭が良くなくても、ちゃんとそれなりに使えたりするんだから。


それから、僕の理論に、「絆ユニット論」というものがありますよね。複数の「絆ユニット」を用意して、自由というものを確保する。危害や攻撃を禁止しつつ、いいなと思う絆は太くし、これは不幸になると思う絆を細くする。それらの作業を、幸福と魅力を持って、試行錯誤が出来る状況を可能な限り整える。そういう試行錯誤がなければ、自己が育ちません。それはどのメディアでもそうです。ネットは、狭いところに閉じ込められた人にとっては、別の豊かな絆となるメリットもあり、それはデメリットよりも大きいと思う。自由に絆を太くしたり補足したりすることが、個人で出来ない空間というのが有害だからで、それがネット上に延長されているときにこそデメリットの面が大きくなるけれど、それは狭い空間に閉じ込めることをやめることでしか解決できない。ネットいじめそのものをキャンセルしようという発想から行われるべきは、ネットではなく閉鎖空間としての学校の解体になるはずなんだけれど、そうは言わない。僕もネットはなくすべきじゃないと思う。


■インターネットと「つながり」の二面性
荻上:ネットは、絆ユニットの管理ツールとしても機能します。ローカル空間の移動障壁によって遭遇できない仲間と出会うことも可能にするし、既存の友人とのつながりをメンテナンスすることにも活用される。他人のキャラと、自己のキャラを装飾しつつ、コミュニティに選択的にコミットしていく。ネットを使えば豊かになるわけでもないが、貧しくなるわけでもない。だから、学校勝手サイトについても、それを豊かに使うための方法論を共有する話にしてほしい。出発点は「学校裏サイトのまずさ」でもいいので。


内藤:学校勝手サイト以外でも、学校以外の友人とつながれるチャンスがあるというのは非常にいいですよね。


荻上:地域にもよりますが、義務教育期間中は、「学校外に出る」ということ自体が特別な状況になってしまうわけですからね。「ジモト」に縛られてしまう。


内藤:旧来型の制度や人間関係の弊害の方が大きいのに、新しい技術の問題にすることで、旧来型の制度の不備を正当化しちゃってるよね。田舎で、暴力団や暴走族やヤンキーがいて、それにおびえている子羊ちゃんたちがいて、暴力などが蔓延している空間があったとき、ただしく警察が機能していない地域もまだある。そういう取締りを地道にするとか、よりよい環境を作るために、もっと優先順位の高い課題、根本を是正するための作業というのはたくさんあるわけですよね。ネットで悪さをする一部の人をしっかり捕まえる。


荻上:ところが学校勝手サイトへのバッシングからフィルタリングへの流れを観察すると、ネット上で子ども達のコミュニケーション可能性があることそのものが問題であると語られています。しかしそれが、「卒業するまでは問題を起こしてほしくない」という学校側の欲望が、細かな議論をすること、その外部にある現状から目を背けさせてしまっているのなら、「現場」には期待できないということになります。それは「教育」にとっては本来、致命的なはずで。


内藤:児童ポルノの話と同じで、何を考えるかは自由だけど、行動は規制されるとか、そういった基本的な近代社会のシステムとしてかなりの程度考えられるはずです。「心の問題」に踏み込む社会は陰惨な社会だから、表現に関してはレーティングなどをしつつ、しかし行動ではないから許容する。犯罪の蔓延は、秩序の崩壊や貧困といったものへの着目が重要なのに、擬似的な問題ばかり取り上げて、問題先延ばしで、自由を奪ってしまうばかり。ネット上で行われる、違法的な行為は取り締まられるべきだけど、ネット利用自体を取り締まるのは別で。例えば道路でおちんちんをみせちゃうような人を捕まえても、道路を歩いてはいけないということにはしないように。


荻上:余談ですが、「おちんちん実際にみせちゃう奴」は、ネットのお陰で多少は増えてる気はします(笑)。ヤフーチャットとかにネカマでログインして、恋愛板とかに行けばすぐに分かります(笑)。「そういう場」が顕在化したということなんでしょうけれど。


内藤:(笑)。


荻上:もちろん、送られてくる動画を開かなければいいので、どこまでを合意とみなすかで難しいんですが。もちろん、そういう「場」の棲み分けの方法論などは、経年的に共有されていく問題ではある。そのときに、何がそれらをクリアしてきたのかということは、振り返って参照されなくてはならないでしょうね。


(了)



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