荻上チキ著『ウェブ炎上』とサンスティーン著『Republic.com 2.0』

10月9日、ちくま新書より『ウェブ炎上 ネット群集の暴走と可能性』という本を出します。本書で取り扱うのは炎上現象。「炎上現象はなぜ起こるのか」という疑問から出発し、多くのケーススタディを分析。ウェブ上の集団行動を分析する理論やタームを共有することで、多くのユーザの方にカスケード現象との付き合い方をアップグレードしていただければと考えています。というわけで、みなさんどうぞお友達に勧めてください。


さて、macska さんが実質マイナーアップデートだったサンスティーン『Republic.com 2.0』というエントリーで、サンスティーンの議論を批判的に言及しながら、「消化不良な分は、来月出る chiki さんの本に期待するとしよう」と書いてくださっている。大変嬉しい一方で、ちょっとだけガクブル。というのも、本書でも確かにサンスティーンの議論に触れつつ批判的な検証もしてはいるのだけれど、一般の方に「入門書」としても手に取っていただきやすくするということもあって、サイバーリベラリズムについての理論構築を図るという議論にはそれほどページを割けていない。


元々ブログを用いて、本には書けなかったことやレスポンスなどを含めて議論を深めていきたいと考えていたので、とりあえず macska さんのエントリーについてコメントをしつつ、今後の議論に備えたいと思う。というわけで以下はやや“硬い”文章だけれど、本書はもっと柔らかいです。


macska さんは、サイバーリベラリズムの議論可能性を牽引したサンスティーンの主張の根幹には同意しつつも、いくつかの点で消化不良な点を感じていることを表明する。例えばアルカイダのケースを「集団分極化」で説明してしまうような、極めてアメリカ的なカスケード状況に巻き込まれてしまっているという現状認識の問題、反対派意見へのリンクを義務付ける「マストキャリールール」でいいのかという対応策の問題などがそれだ。これらの疑問点に私も同意する。また、旧来のマスメディアの、電波や周波数の再分配といった発想ではなく、アジェンダセッティングパワーに対する責任を一旦フラットに捉えなおし、歯止めとしてフェアネス・ドクトリン等の検討が必要があるとの認識も共有する(ドクトリンという手法が妥当かどうか、その内容はいかなるものか等は別途検討したい)。


私もつい先日『Republic.com 2.0』を入手したばかりで、まだ全部は読みきれていないが、1.0から比べて基本的な認識はあまり変わっていないようだ。そこで私からのサンスティーンへの議論への応答の一つには、マスコミ学会での発言でも触れ、本の中でも論じている「二重のカスケード」問題がある。すなわち、A対Bという議論のうち、Aの情報ばかりが氾濫することでBの立場が弱くなったりすることが問題である場合もあるけれど、そもそも「A対B」という議論ばかりに焦点があたってしまうことで、もっと有意義な議論や生産性の高い議論が失われてしまうという問題だ。


私は便宜的に前者を立ち位置のカスケード、後者を争点のカスケードと呼んでいるが、マストキャリールールでは争点のカスケードに気づかない限り、対策としての機能を果たせない。争点のカスケードを作るのは、未だにマスメディアが大きな力を持っている。ネット上の議論が対向軸になることもあるけれど、マスメディアのアジェンダ設定能力を相対化できるまでには至っていない(例えば今ある「マスゴミ」叩きは、捏造などを暴くリテラシーが広がったのだとする見方を主張するネットユーザも少なくない。しかし一方で、同ユーザ達が「中国がこんなことをした」「こんなDQNがいた」系の報道はあっさり信じて嗤いはじめるなど、これまでと同様「疑いたいものは疑い、信じたいものは信じる」を実践している)。


このような状況で、討議可能性の機会拡大を訴えるのみでは、効果に対して大きな疑問が残る。そもそも集団行動においては、本人の意思の問題だけでは済まされないケースがほとんどだ。「自分は他の集団とは違うのだ」という意識が、実は極めて集団行動的であるということも容易に観測できるため、例えば議論の土台に自覚的であるというだけでは信頼できないような場合も多い。また、『新潮』10月号掲載の小説「キャラクターズ」の中で、キャラクターとしての東浩紀が「ベストセラーに『つっこみ力』というのがあったが、正直、日本人にはこれ以上のツッコミ力は要らないのではないか。批判とツッコミはまったく異なる」と独白しているように、仮に多くの人にリテラシーが身についたとしても、「嗤い」を誘うためのツッコミにしか使われないのであれば、あるいはリテラシーを逆手に取ることで結局より強固なエコーチェンバーを形成するような状態では、討議可能性の拡大だけでは対処しきれない。


もう一つの応答。サンスティーンは、フィルタリング技術の発展によって各人がエコーチェンバーに閉じこもり、民主主義を支える討議の機会と「共通の基盤」が損なわれることに警鐘を鳴らす。しかし一方で、カスケードが歴史化されて共有体験となったり、「祭り」現象自体が言説のシャッフルとなることもあり、その意味でカスケードは二面性を持っている。あるいは不特定多数のブログにトラックバックやコメント、コピペをしまくる人もいるし、人はウェブのみに生きるわけではなく、ウェブで観たニュースについてオフラインで話し合う機会を未だに持っている。さらにいえば、そもそも「共通の基盤」とはどのようなものであるのかという議論の余地が常に残る。


今までの民主主義が“完全”などありえなかったように、これからも“完全”はありえない。ウェブ黎明期の喧騒が落ち着き、ウェブ上で観測される現象の多くは「ウェブ以前」でも観測されたことで、それらがこれからも観測されていくという事実が「日常的風景」と化した今だからこそ、カスケードがもつ社会的機能の多面性についての議論が必要と考える。


そのような議論を期待した macska さんは「ちょっとがっかり」したわけだけど、バージョンアップという意味での2.0ではなく、集合知を活用しようという意味での(流行語としての)2.0なのであれば(違うと思うけれど)、サンスティーン以外の論者がその部分を議論で埋めればいい(笑)。おりしも本書の中で私は、ハブサイトの機能に注目することで、カスケードとの「付き合い方」について書いた。今から2年前ほど前に、むなぐるまさんが当サイトを、リベラル系のハブがありえるかどうかという文脈で触れてくれたが(ありがとうございます)、当時行われていた議論のアクチュアリティは、ブックマークや動画共有サイトが定着した今なお、というか今こそ有効なのではないかと考えている。詳しくは本および別のエントリーで触れたいが、ハブサイトの意義について述べているこの本および一連のエントリーが、議論のハブになれるのであればこの上ない喜びだ。


というわけで、私の本を読んで「chiki さんの言説がよいのかわるいのかという価値判断ではなく、chiki さんが声をあげることそのものに共感しているのです!」とか言わず、アップグレードに協力してくださいね。>まちゅりん&みなさん


【参考サイト】
「集団分極化」と「サイバーカスケード」