ジェンダーフリー=男女同室着替えさせまくり説についてのまとめ。

ジェンダーフリー=男女同室着替え」の件について書いてみようと思う。長文になるので、結論だけ知りたい人は「男女同室着替えはジェンダーフリーのしわざだいっ! …って言うと漏れなく憐憫のまなざしがついてくるからやめようね」という内容だということだけ分かればいいと思う。では、記事開始。


ジェンダーフリー=男女同室着替え」というイメージを作るのに最も大きく貢献したメディアのひとつは、なんといっても『週刊新潮』(03年01月30日号)だと思う。その内容は次のようなものだった。

高校生にも男女同室で着替えをさせる ジェンダーフリー教育の元凶
福岡県の県立大牟田北高校を訪れた人は、ギョッとするような光景を目にすることになる。この高校では体育の授業や部活動の前に、男女が同じ教室で着替えをしているのだ。「勿論、女性とは素っ裸で着替えているわけではなく、あらかじめスパッツを穿いたり、Tシャツを着たままで着替えたりしています。あるいはタオルで上手い具合に隠したり。要は、もう慣れているのです。別に学校側が教室で着替えと支持しているのではありません。部室などで着替えてもよいのですが、部室や更衣室が狭いとか、遠いとかいう理由もあって、彼らはそうしているのです」と話すのは同校の教頭。
以前は奇異に感じた新任教師などが、「やめろ」と注意したこともあったようだが、すでに生徒側にそれを気にしない感覚が備わっているのだという。一体、どういうことなのか。
「彼らは、小学校の頃から『ジェンダーフリー』という考え方に基づいた教育を受けているんです。(…)ジェンダーフリーの考えが浸透していて、もはや軌道修正が利かないというのが実情です」(同)


本記事で同室着替えについて言及されているのはこの部分のみ。他には「フリーセックス教育」「子供たちをカタツムリにしようとしている」「文化的マルキスト」等、今となってはおなじみになった典型的なフレーズがちりばめられていたりして、記事全体からは露骨な悪意が感じられるものの、そのインタビュー部分でさえ「ジェンダーフリーによって男女同室着替えが行われている」とは言われておらず、そこではかろうじて「ジェンダーフリー教育を受けて羞恥心がなくなった生徒たちは同室で着替えることに抵抗感を持たなくなっている」という図式になっている。それを『週刊新潮』が見出しにでかでかと「高校生にも男女同室で着替えをさせる ジェンダーフリー教育の元凶」と煽ることで、「ジェンダーフリーは同室着替えをさせるものだ」という印象を大きなインパクトと共に与えることに成功したと思う。


もちろん「ジェンダーフリー教育を受けて羞恥心がなくなった生徒たちは同室で着替えることに抵抗感を持たなくなっている」という見方であってもオカルト話のレベル、「最近の若者は」的な俗流若者論であることには変わらない。但し、ネットとかを見ているとこのレベルの発言を鵜呑みにして国や教育を憂いている方が多くいらっしゃる(汗)。そういう人たち(のカスケード)をみると「確かに日本はダメかもしれないなぁ」と思ってしまうんだけど、そうも言っていられないので念のために反論のテンプレをいくつか提示しておこうと思う。


まず、この記事に限らず、一連の「男女同室着替え=ジェンダーフリーのしわざ」という類のバッシングに共通していることは、例えば70年代〜90年代にかけても同室着替えはあったのだけれど(一例)、その割合が通事的にどのように推移していったのか、「ジェンダーフリー」という概念が登場した90年代後半とはどのように関係するのかという話が一切なく、たまたま目に付いた事例を思いつきで特定の思想に還元するというパターンしか繰り返されないことだ。もし検証するならば、ジェンダーフリー教育を受けなければ自発的に同室着替えをしていなかったという通時的な比較と、実際にそのような指針に基づいていたとするソースが必要になるのだけれども、だーれもそんなことはしてくれない。この『週刊新潮』の記事の場合も何一つ証拠が挙げられていないし、唯一の証言である教頭の憶測発言も、別の新聞の記事では否定していたりするのでその発言を論拠にすることは難しい。一連のバッシングを牽引してきた八木秀次さんのように「『南日本新聞』が取材した結果、男女同室着替えの実体がなかったことがわかったとの話はデタラメです。川崎市の県立高校*1は『南日本新聞』の取材では否定しながら、『世界日報』の取材ではこれを肯定しています。「証拠はない」のではなく、あるのです」とか都合よく解釈することも可能ですけど、こういう浅ましい大人ばかりになったら本当に日本はダメになるのでやめたほうがいいと思う。


では、「大牟田北高校はともかく他の学校にはあるかもしれないじゃないか! 全国全部調べやがれ! それならひとつは出てくるはずじゃい!」ということなのかなんなのか、産経新聞が煽っていた「「ジェンダーフリー蔓延度」 文科省 初の実態調査通達」ですが、6月30日に公表された「『学校における男女の扱い等に関する調査』について」を見る限り、どうもそういう例はない模様。以下、男女同室着替えについてのプレス発表を転載してみます。

【水泳時における着替えの状況】 水泳時における着替えを男女一緒に同室で行っている学校数


 <小学校>

1年生 2年生 3年生 4年生 5年生 6年生
9,943(44.76%) 9,214(41.48%) 4,206(18.93%) 823(3.70%) 42(0.19%) 32(0.14%)


 (状況や理由)

  • 更衣室や空き教室はあるが、行くのが面倒なので、着替え用のタオルなどを使って教室で着替えてしまっている。
  • 着替え用のタオルなどを使用してうまく着替えられるため。
  • 更衣室や空き教室がない。(→着替え用のタオルなどを使用して着替えている)

 <中学校、高等学校、中等教育学校> 0校


【体育時における着替えの状況】体育時における着替えを男女一緒に同室で行っている学校数(体操服の上に着ている制服や上着などを脱ぐだけのような場合も含む)


 <小学校>

1年生 2年生 3年生 4年生 5年生 6年生
13,805(62.15%) 13,482(60.69%) 9,831(44.26%) 4,791(21.57%) 1,678(7.55%) 1,346(6.06%)


(状況や理由)

  • 体操服の上に上着などを着ているだけなので、教室で着替える児童が多い。
  • 更衣室や空き教室がない。(→教室等で肌が出ないように上手に着替えている)
  • 更衣室や空き教室はあるが、行くのが面倒なので(肌が出ないよう上手に着替えられることもあって)、教室で着替えてしまっている。


 <中学校>

1年生 2年生 3年生
716(7.08%) 718(7.10%) 717(7.09%)


 <高等学校>

1年生 2年生 3年生 4年生
44(1.05%) 43(1.02%) 43(1.02%) 0(0%)


 (中学校及び高等学校についての状況や理由)

  • 更衣室や空き教室はあるが、行くのが面倒なので(制服の下に体操服を着ていることもあって)、教室で着替えてしまっている。
  • 更衣室や空き教室がない。(→制服の下に体操服を着てくるなどしている)
  • 制服の下に体操服を着てきているため。


この調査は「全国の公立の小学校、中学校、高等学校、中等教育学校、盲・聾・養護学校及び 幼稚園(本校と分校は1つの学校として、また、在籍している児童生徒が男子のみ 又は女子のみのである学校は対象外)」が対象。で、見てのとおりジェンダーフリーによって着替えさせられているというケースは一切報告されておらず、全国的にはどこが「蔓延」なんジャロかという状況。ただ、繰り返しになるけれどジェンダーフリーは「ジェンダーレス」を求めるものではなければ、まして同室着替えなど求めるものではないが、もし事例がいくつかあったのであればちゃぶ台返しをせずに個別具体的に批判していくことは必要だ。しかし、例えば国会質問や『新・国民の油断』で繰り返し「同室宿泊」が話題になった沼津市の小学校の卒業生、関係者に話を伺ってみたところ、ジェンダーフリー教育なんてさっぱり聞いたことがなく、行事自体はその言葉が誕生する前から慣習としてずっと続けられていたという返事をいただいたりしている。インタビューによれば、雑誌などで取り上げられたとき「そこまで騒がれることなのか」と驚き、自分たちの体験とはまったく別の世界について語られているような感覚を受けたとか。私が取材したのはまだこの一件のみだけど、個別に掘っていく場合もやはりいくつかバイアスがかかっている可能性が高く、もし調べるならこれまでの喧伝を括弧にくくって「当事者」レベルを考慮しながら丁寧に吟味していかなくちゃいけないことがわかる。さんざん「実態」として利用されてきた「3520件の実例」という「誇張の実態」も前例としてあるし。



ちなみにこの調査を受けて、ネット上では、「保護者の訴えで実際に聞いた(と書いてある)のだからあるはずだ」(保護者がたまたま見た事例をジェンダーフリーと結びつけて訴えた、あるいは訴えを聞いた人が無理やり結びつけた可能性はスルーですかそうですか)、「偏向報道に違いない」(同室着替えを報道した側のメディアはそこまで信用できますかそうですか)、「このような状態をスルーすること自体がジェンダーフリーの成果だ」(やっぱり通事的な議論はスルーですかそうですか)、「批判を受けて学校が隠しているはずだ」(そこまで教育方針に自信がないことを学校をあげてわざわざやりますかそうですか)、などなどと噴き上がっていた人も何人かいたけれど、そこまで自分のリアリティに固着することばかり考えている人は国の教育なんて憂う資格などないんじゃないだろうか(もちろん権利はあるけどさ)。それに、こういうアレゲなデマで自称「保守」の面々がオタオタする図ほど「国辱的」なものはないと思うんだけどそれでいいのだろうか、なーんていらぬ心配をしてしまう(道徳の重要さとか訴える人が、批判相手には嫌味や嘲笑、当て付けを繰り返すというご都合主義もどうかと思うし)。



今後も、どれだけ「エヴィデンス」が否定されても、「じゃああれは!?」「じゃあこれは!?」と、なんとか必死で事例や疑わしきポイントをディグろうとする流れは残存するんだろう。その場合、これまでバッシングした事例が間違っていたことについての反省はされないだろうし、仮に何か一件事例が発見されたら今までのバッシングが全て正当化されるように思っているきらいさえある。正直なところその手の意見とお付き合いするのもちょい飽きてきたので、ジェンダーフリーについての流言飛語を検証する記事は今回が最後であってほしいと願っているんだけど、カスケードに感化されて「沈黙の螺旋」に自ら巻き込まれるのもどうかと思うので、がんばって書いてみた自分に感動した。それからこのエントリーとはあまり関係ないけど「【オピニオン】和の伝統「拉致・監禁」守れ」にも感動した。

*1:大牟田北高校とは別。