小谷野敦さんがちょっと変だ(追記アリ〜終了)。

chikiがお手伝いした本『バックラッシュ!』に、小谷野敦さんがmixiamazonに書評をお書きになったようです。この件についてはMacskaさんが既に書いていますが、議論の流れの中で私も言及されているようなので、簡単にレスポンスさせていただこうと思います。


小谷野さんがお書きになった書評は次のとおり(二重括弧部分は、後に加えられたもの)。

ひどい本だ。上野千鶴子は「トランスジェンダー」というのは事後的に性別が変わったと思っているのか? 宮台真司は「宮崎哲弥が、ジェンダーフリーフォビアの連中は、俺たちはもてないのに学校ではセックスの話ばかりというので吹き上がっていると喝破した」と書いているが、宮崎は「ジェンダーフリーフォビア」の話ではなく、中学高校の男の子たちの不満の声に触れただけ。
小山エミは、アメリカでも100人くらい、事後的にジェンダーが変わった例がある、と、小谷野敦の「だいたいは生まれつきでジェンダーは決まる」という発言を批判しているが、2億人のなかの100人なら「だいたい」でしょ。「だいたい(On the whole)」を否定するなら、2億人中3000万人くらいは事後的にジェンダーが変更されてなきゃダメでしょ。そもそもジョン・マネーのブレンダ実験を援用して、ジェンダーなんて曖昧なものなのだという話を広めたのは小倉千加子の『セックス神話解体新書』。だがこの連中は決してこの本に触れず頬かむりである。『異性愛の擁護』にしても、わざわざそんな本が出るほどに、米国ではその当時「同性愛こそが正しい」みたいな変な風潮があったという例として出しているだけで、すばらしい本だとか言っているわけではない。

 なお小谷真理、なぜ自分の名が巽孝之の筆名だなどと言われたのか分かりません、って、じゃあなんで日本ペンクラブ名簿において巽と小谷のメールアドレスが同じなのか、説明してもらいたい。
 「ジェンダーフリー」という言葉は不適切だ、と一方で解説しているのに、宮台は「ジェンダーフリーフォビア」などとさらなる新語を創作している。全体に支離滅裂な本であると言うほかない。


で、書評をめぐる議論の流れの中で小谷野さんは「断っておくが」というエントリーをアップ、そこで「荻上チキにしても、結局は逃亡した」とお書きになっています。この「逃亡した」というのは、小谷野さんが「やっぱりこれは具合悪いのかな」というエントリーで「誠実に『小倉のあの本は間違っていました。でも…』と説明したほうがいいと思うぞ」という指摘をしたことを受けても、「ジェンダーフリーとは」小倉千加子の件を書き込まなかったことを指しているようです。


実は一ヶ月前、小谷野さんのブログにて「やっぱりこれは具合悪いのかな」が掲載されたとき、chikiは小谷野さんにメールで「もし必要なら書き足すが、今のところ必要性を感じないので、あのまとめサイトにその件を明記する必要があると思うソースをほしい」という趣旨のメールを、特に言及が必要だと思わない理由を添えてお返事しました。そこで小谷野さんからいくつかレスポンスをいただきましたが、その返信を読んでもなぜ掲載する必要があるのかよく分からなかったのでその旨伝え、そこで議論が止まったのでそのまま放置しました。それでも小谷野さんに配慮して、内容を多少(例えばある記述が小倉擁護にも読めると指摘されたので、「そうかなぁ」と思いつつも)変更してみたり、参照リンクで小谷野さんとMacskaさんが小倉千加子の本について論争していたページにもリンクしたり、そもそもメールで「特に具合が悪いことはない」と伝えたりしたりしたのですが、それでどうして「書き足す様子はないから、やっぱり具合が悪いのだろう」とか「逃亡した」とか思えるのだろうか。お返事のメールを丁寧に書き、参考資料になるようにという意味も込めて自腹で献本までしたのに。


一応私が掲載する必要を特に感じなかった理由を簡単に述べると、そもそもジェンダーフリー論争やジェンダーフリー概念をめぐる議論自体に小倉の本が主題的に取り上げられていないからです。まとめサイトでマネーの理論に言及した理由さえ、ジェンダーフリー概念を説明するというわけでなくてむしろ「ジェンダー理念は双子の症例に基づいている」「ジェンダーフリーはマネーの理論に依拠している」「『ブレンダと呼ばれた少年』によってそれらのウソは証明された」というような理論を振りかざしてちゃぶ台返しをしようとするのは間違いではないかと言及するためだけ。そのような流れでマネーに触れたからといって、連想ゲームのように「そういえば小倉は間違ったけどね、でも本件とは直接関係ないよね」みたいに言及する必要があるのだろうかと。小谷野さんは「小倉をかばっているように勘ぐられるからはっきりさせたほうがいい」というようなこともメールで言ってくれたのですが、多分、そう勘ぐるのは小谷野さんだけだと思う。


もちろん私は、事柄が明らかになって小倉の本が間違っていると分かったのなら、それを前提とした議論を積み重ねていけばいいと思っています。指摘を繰り返したうえで仮に本人が訂正せずとも、誰かが別のところで批判、検証していけば、学問的なコミュニケーションとしては機能するでしょうし。そして、そのようなことをわざわざ隠蔽するような理由は私にはありません。具合が悪い云々ではなく、そもそも関係あるのかどうかが疑問なだけで、それは既に小谷野さんにお伝えしています。ただ、この件をブログでレスポンスしたことで、今後読者が本件を含めて吟味することになると思うので、結果的には小谷野さんの願いはかなったことにはなりますが。


それからもう一点。小谷野さんは、「宮台真司は『宮崎哲弥が、ジェンダーフリーフォビアの連中は、俺たちはもてないのに学校ではセックスの話ばかりというので吹き上がっていると喝破した』と書いているが、宮崎は『ジェンダーフリーフォビア』の話ではなく、中学高校の男の子たちの不満の声に触れただけ」と書いていますが、これは違うんじゃないでしょうか。念のため、『サイゾー 二〇〇六年五月号』に所収されている「「M2」の末尾を確認してみます。

宮台 ジェンフリ・フォビアの担い手は本田透みたいに不自由な連中です(本田自身はフォビアではないが)。彼の本は、共感して涙が出るほどで、フォビアを2ちゃんで噴き上げる連中は悪い奴じゃない。本田の本は、半分が矛盾だらけで感情的ミメーシス(感染)ゆえに辛うじて読める位だが、残り半分は正しい。
宮崎 彼らが反ジェンフリに走る心情、ルサンチマンとは、要するに「俺はぜんぜんモテなくて、セックスもできやしないのに、学校で開放的にセックスなんか教えやがって。叩き潰してやる!」ですから(笑)。
宮台 そうそう。そこで「お前は間違っている」と否定するのではなく、「わかるよ」と寄り添いつつ説得する。ジェンフリ・フォビアに限らずリベラル・フォビアの解除は重大な政治的焦点です。繰り返しだけど排他的人間をも包摂する原理が重要です。
宮崎 だけど、どんなに包摂しても必ず残余が出てくるものなんだ。最も濃縮されたチンカスみたいなヤツが……。


私には、どうみても宮崎さんが「ジェンフリ・フォビアの担い手=反ジェンフリに走る彼ら」に対して「喝破」しているように読めるんですが。「中学高校の男の子たちの不満の声に触れただけ」って、どこから出てきたんだろう。2ちゃんねらーのこと?  Macskaさんの論文への言及の仕方といい、ちょっと小谷野さんの読み方に疑問を抱きました。


念のために断っておくと、小谷野敦さんといえばネット上のあちこちで喧嘩をしている猫猫先生、というイメージもあるけれど、文学研究においてはとても参考になる議論を展開している方なので、文学研究出身の私にとっては尊敬すべき研究者というイメージがとても強い。だからこういう形で誤読(?)されると、大変残念だと思う。



追記
小谷野さんが追記を加えたようなので、レスポンス。小谷野さんがぐだぐだになっていて悲しい。



◆なぜそうまで頑なに小倉著に触れるのを避けるのか
→避けてませんってば。「黙殺」というか、なんでまとめサイトや本で触れる必要があるのか分からないと言ってるだけで、その理由が「文庫で版を重ねている小倉著の影響力は絶大」というのでは意味不明。「バックラッシュ」や「ジェンダーフリー」と具体的にどう関係しているのか、なぜわざわざ言及しなければ「頬かむり」と非難されるのか、具体的に教えてほしいと聞いているんだけれども。しかもこうしてレスポンスしてるのに、なんで避けてるとか思えるのだろう。不思議。


◆それにしても荻上チキ、自腹を切って本を送ったと言うが、私があれを読んで「ああそのとおりだねえ」などと言うとでも思ったのか。
→全然思っていません。小谷野さんがそういう方でないことは存じ上げています。ただ、思っていたほど有意義な批判をいただけず残念です。


◆宮崎氏が宮台との対談で言ったのは、やや誤解を招く表現だが、だいたい信田さよ子の論難に対する返答を見たって、宮崎氏が「ジェンフリ派」とやらでないのは明らかであろう。
→意味が分からない。誰も「宮崎はジェンフリ派だ」なんて言っていないのですが、これは何に対する反論なのでしょうか。宮崎さんのほかの文章までひっぱってきて、何を証明しようとしているのだろうか(文章は読めてうれしかったですが)。私はただ、小谷野さんが「宮崎は『ジェンダーフリーフォビア』の話ではなく、中学高校の男の子たちの不満の声に触れただけ」と書いていたから、「そんなことないでしょう」と指摘したまでなんですが。小谷野さんはその指摘を受けて新たに「(付記・正確には「彼らが反ジェンフリに走る心情、ルサンチマンとは、要するに「俺はぜんぜんモテなくて、セックスもできやしないのに、学校で開放的にセックスなんか教えやがって。叩き潰してやる!」ですから(笑)。」である。いわゆる「中学校での性教育」についての話であって、「ジェンフリフォビア」と括るほどのものではない)」という一文をレビューに加えたけれど、この補足も同様に誤りでしょう。もう一度、上のやりとりをお読みください。それと、またもや「中学校での性教育」って書いていますが、これは一体どこから出てきたんですかってば。どうして尊敬する文学研究者に読解指導をしているんだろう(汗)。



【さらに追記】(7/7)
◆なお「反ジェンフリの・・・」発言について、宮崎氏の説明によると、昔ラジオで性教育推進派の教師たちを招いた際のアンケート結果に基づくものだという。宮崎は、そういう意識が二十歳くらいの男で、性教育に反感を感じる者たちの意識としてあるだろうという推定のもと発言したそうで、決して西尾幹二八木秀次林道義らが「俺はもてないのに」と思っているというわけではない。それは宮崎発言を受けた宮台の言い方でも分かるだろう、と宮崎氏は言っているが・・・・・・。
→本文該当部分で宮台は、宮崎の言葉を使って「西尾幹二八木秀次林道義らが「俺はもてないのに」と思っている」と発言していない。本文では、M2でも言及があった「本田透みたいに不自由な連中=性的弱者」について言及しており、その趣旨は「宮崎発言を受けた宮台の言い方」とほぼ同じもの。宮崎の説明を見ても、全然「中学高校の男の子たちの不満の声に触れただけ」じゃないようだし。小谷野さん、どうしちゃったのだろう。



【細かいことですが】(7/8)
論争の最中に、自分のエントリーをどんどんどんどん改変していくのはちょっと困ります。こっちの批判が的を射ているか否かを読者がまったく判断できなくなってしまいます。小谷野さんが過去のエントリーをどんどん消したり改変したりする方だというのは存じ上げていますし、それもまた自由にすればいいとは思いますが、事柄を明らかにすることが目的の「論争」の最中においては遠慮して欲しい。「誠実に「小倉のあの本は間違っていました。でも…」と説明したほうがいいと思うぞ」と人に言う前に、改変した部分はあとからみても分かるようにするなど、「誠実に「自分のこの批判は間違っていました。でも…」」という態度を身をもって実践して欲しいと思う。どうも本や相手を否定するということが自己目的化してしまっているようで、残念ながらその態度はとてもじゃないけれど「誠実」にはみえません。


小谷野さんは新たに「荻上にしても、小倉著に触れない理由をあれこれ説明しているが、十分納得のいく理由ではない」と加えられたりしていますが、私は最初から「小倉著に触れなけばならない、十分納得のいく理由」を求めているのであって、それをまずはやってほしい。既に「必要があれば変える」という趣旨のことは伝えているのだし。それから、いくつかURLを列挙したようだけど、それで何を説明したつもりになっているのか意図がさっぱりわからない。なにせ、そもそも「ジェンダーフリー」や「バックラッシュ」と直接関係ないサイトばかりで、唯一関係ありそうな「ジェンダーフリーすずか」というページにいたっては、男女共同参画センターに本がおいてありますよというだけの話だし。


小谷野さんを相手にするのが面倒になってきたのと、これ以上小谷野さんのそういう姿を見たくないという理由と、それだけ書いて欲しいのだったら願いをかなえてあげてもいいかなあという理由もあって、別にまとめサイトに書くくらい全然問題ないのだけれど(というか、このブログにリンクするのだからもう触れているに等しいんですが)、私がひっかかっているのは、なぜそれをしないという理由だけでこれほどまでに罵倒されないといけないのかということ。URLのように、授業などの参考文献としてあげられていたり(どういう風に扱っているかもわからないし)、図書館に所蔵されていたり、書店のキャンペーンで並べられていたり、本がちょっと売れているというだけで、私(たち)が本やまとめサイトで取り扱わなければ「不誠実」「頬かむり」と批判されなければならない理由がわからない。もし、学問的な問題でなく、一般的な影響力が問題なので誰かがそれを大声で指摘するべきだというのであれば、自分でまとめサイトをつくったり、小倉批判を書いて本を出せばいいと思う。私なんかより全然有名で、信頼と実績と行動力のある方なのだから。



【その後】7/10
小谷野さんが、以下の部分を削除されたようです。

小山エミは、アメリカでも100人くらい、事後的にジェンダーが変わった例がある、と、小谷野敦の「だいたいは生まれつきでジェンダーは決まる」という発言を批判しているが、2億人のなかの100人なら「だいたい」でしょ。「だいたい(On the whole)」を否定するなら、2億人中3000万人くらいは事後的にジェンダーが変更されてなきゃダメでしょ。そもそもジョン・マネーのブレンダ実験を援用して、ジェンダーなんて曖昧なものなのだという話を広めたのは小倉千加子の『セックス神話解体新書』。だがこの連中は決してこの本に触れず頬かむりである。

ちなみに小谷野さん、新たなエントリー「小山エミ=マチカに答える」で、macskaさんに対して「小倉著を取り上げていないことで批判したのは荻上チキである」と答えています。えー。小谷野さんは最初のエントリーでは「フェミニスト連はこの点だけは常に黙殺する。なぜ誠実に「小倉著は間違っていました。でも」と言わないのか。荻上チキにしても、結局は逃亡した。小山エミもまた、しかりである。上野、小山、荻上は、小倉著について正々堂々と総括したらどうか」って書いていましたし、レビューでも「だがこの連中は決してこの本に触れず頬かむりである」って書いていたのに、なかったとことになっているよ。。。orz もちろん私個人を批判するモードにシフトしていただいても一向に構わないのですが、こちらは必要あればまとめサイトには加えると言っているのに「逃亡」といわれたり、いつまでも納得できる理由がもらえないのはどうしたものだろう。


なお、今回の小谷野さんの新たなエントリーに対しては、すでにmacskaさんが「小谷野敦さんの回答を検証する(プラス小谷野さん専用コメント欄)」というエントリーで返答しております。そちらもどうぞ。



【打ち切りわっしょい】7/10
小谷野さんが、さらに加筆した模様。

ついでに荻上チキだが、小倉千加子に言及しない理由というのが私にはまったく理解できない。理解できないのに納得のいく理由をあげろと言われても堂々巡りである。これだけ説明しても「必要ない」と言うのであれば、打ち切りである。もはや読者諸賢の判断をまつしかない。

とのことです。私も「論争」の経緯はここに残しておくので、あとは読者の皆様の判断にお任せしたいと思います。


追記】7/10
…と思ったら、小谷野さんが一連のエントリーをさっくり削除。上にも書いたように小谷野さんがエントリーを削除することは予想してたけど、こんなに早く消されるとは思わなかったので驚きました。これでは「読者諸賢の判断をまつ」ことが難しくなったように思うのですが、どうなのだろう。