「起立せぬ親と来賓調査 君が代、式典で徹底図る」を読んで

とりあえず、もっとも尊敬する右翼の一人である鈴木邦男さんの言葉を引用してみる。

慶応大学の憲法学の小林節教授は会見運動の先頭で闘ってきた。自民党民主党公明党にもよく呼ばれ、改憲の話をしている。読売新聞の改憲案作成にも携わっている。ところが最近、「こんな改憲ではダメだ」と悲観的になっている。「こんな連中に会見されるくらいなら、まだしも今のままがいい」とまで言っている。「裏切りではないか」と改憲論者からは言われている。
小林先生に会った時、聞いてみた。「自民党改憲案の何が一番気にくわないのですか」と。即座に小林先生は言った。「愛国心を強制しようとするところだ」と。「憲法に書いたからといって国民は愛国心を持つものではない。また政治家がそんなことを言うのはおかしい」と言う。政治家は、国民がこの国を愛せるような国にすることが責務だ。そのために仕事をするのだ。それを忘れて、国民に対し、「この国を愛せ」と言うのはおこがましい、と言うのだ。なるほどと思った。
(…)平成十一年(一九九九)、国旗・国家法案が法制化された。(…)法制化した時、政府も文部省も、「これは強制するものではない」とコメントしていた。しかし法律は出来るとひとり歩きする。またそれを「守らせよう」「押し付けよう」と思う人が出る。それで公立中学、高校では「日の丸」「君が代」を強制している。日の丸掲揚時に立たない教師はどしどし処分されている。起立しているかどうかをビデオに撮って確認する。また保坂展人衆議院議員社民党)に聞いたが、君が代斉唱時、本当に声を出して歌っているかどうか音量測定器を使って計ろうとしているという。つまり、いやいや起立し、口をあけているか、歌っているフリだけで本当は声を出していない教師もいる。そうした「偽装」を見破るために使うのだという。
そこまでして「君が代」を強制する必要があるのだろうか。かわいそうだと思う。教師や生徒もそうだが、日の丸・君が代がかわいそうだ。こんな争いの道具にされてかわいそうだと思う。また、ガヤガヤとうるさい生徒に、それもいやいや歌われるなんて。
僕は日の丸・君が代は好きだ。だからこそ、そんな状態で歌ってほしくないと思う。
鈴木邦男『愛国者は信用できるか 』(講談社現代新書)(p.70-p.72)

私は「愛国心」という言葉に抵抗はほとんど感じないし、口にするのも自由にすればいいと思っている。というか、右翼の人が愛国を叫ぶ自由も守るべきだと考える。私が愛国心を口にしない自由さえ許してもらえるのならば、そのような国、そしてそういう状況をもたらしてくれた歴史に、そして歴史を支えてきた先人たちに対する恩恵も感じる。この感謝の念を愛国心と呼ぶのであればそれはそれで構わないし、そう呼ぶ権利もまた私にはある。私が抵抗を覚えるのは、愛国心を口にする者の傲慢さと、その言葉を利用する一連の権力、つまりはその形式のあり方だ。自らを中心におき、自らの理念を同心円状に拡大しさえすればそれでよしとする不遜さだ。以上、はらわたを煮えくり返り返してみますた。はっはっは。