『家族の痕跡』読書会チャット報告

4月11日の夜、オンライン上で斎藤環『家族の痕跡』(筑摩書房)の読書会を行いましたので、その模様を公開させていただきます。前回の読書会同様、参加者は私(chiki)、上山和樹id:ueyamakzk)さん、井出草平id:iDES)さんの3人です。




◆参加者プロフィール
上山和樹さん…『「ひきこもり」だった僕から』の著者であり、ひきこもり問題について丹念に考察するBLOG「Freezing Point」を運営。現在、ホームレスの人しか売り手になれない雑誌『ビッグイシュー』にて、斎藤環さんとの共同コラム「和樹と環のひきこもり社会論」を連載中。



井出草平さん…ひきこもりに関する情報や知識を豊富に提供するwebサイト「論点ひきこもり」を上山さんと共催。現在、大阪大学人間科学研究科博士後期課程在籍。専門は理論社会学。




chiki
では、これから読書会をはじめます。今回のテクストは斎藤環『家族の痕跡』(筑摩書房)です。これをテクストに選んだ理由はいろいろあります。「ひきこもり」というテーマについて批評的・学問的視点をベースにした話し合いを行おうとしたとき、重要な参照項になるのが精神科医としての斎藤さんの一連の仕事であるということ。彼の評論を常々アクチュアルなものであると思っていること。あと、amazonレビューでボロクソに書かれていたので、きっとちゃんとした本なんだろうなと思ったことなどです(笑)。



最初に個人的な感想を言うと、改めて斎藤さんは批評家として優れた方だと思いました。「家族」というテーマはとても大きく、様々な論点をつまみ食いしたうえで書き手の家族観を露呈して終わったり、一つのテーマ、例えば「○○と家族」というような形で限定的に触れたりするものも多いのですが、この本はそうではなかった。amazonレビューで「痕跡しかのこらなかった」とかいって酷評しているものがありましたが、その痕跡は、いつまでもしこりとして残り続ける重要な視点ばかりで、だからこそ非常にパラフレーズがしにくく、しかしだからこそ重要な論点なんだと思います。



「批評家」斎藤環は――この本でも――現代を読み解く上で重要なトピックスを名指し、微細な差異を指摘しつつ、ナイーブな争点にセンシティブになるように促したうえで再構築のためのヒントを提示する。トピックスを選ぶ際のテクスト選びはいつも見事だと思いますし、思わず使いたくなるフレーズもたくさんいただきました。この、思わず使いたくなるフレーズを与えていく、議論の重要項目やプライオリティを提示していくというのは「批評家」として重要な仕事だと思います。そのことで議論全体のステージをさらに濃密にすることができる。私が上山さんのBLOGや井出さんの一連のお仕事に最大限の敬意を払っているのもそのためです。



という内輪褒めをはさんで(笑)、読後、これだけ濃密なテクストを、お二人がどう読むのかがとても楽しみでした。いくつも話したい論点がある本で、井出さんは読書会の前からうずうずしているようだったので、そろそろどうぞ(笑)。



井出
少し退屈な作業になりますが「家族」とは何か? という事からはじめようと思います。『家族の痕跡』で触れられているのは、概して「日本的な近代家族」だと考えて良いと思います。



chiki
そうですね。まずは歴史的経緯を整理したうえで、日本的な近代家族とは何か、「近代家族」とはどのように違うか、ということを再整理すると議論の背景がつかみやすいですよね。



井出
それが順当ですね。家族論というのは、だいたい2つの大きな流れに整理できます1.産業化・社会システムの変化など客観的な性質の変化。2.人間の価値観の変化(民主主義・個人主義など)。1が実態(下部構造)に相当し、2が意識(上部構造)に対応する分け方です。日本では特に意識の方がよく語られてきたという経緯があります。



chiki
日本的家族について考察する再、別の参照項、比較項があると議論が分かりやすくなると思うのでひとつ紹介すると、有斐閣『社会学小辞典』には、「制度から友愛へ」というコラムとともに、「社会史的には封建社会から資本主義社会(近代社会)への移行にともない、近代化の規定を受けて変容した家族を指す。理念型としては家父長制家族との対比において、友愛家族(相互の愛情と合意によって結ばれた男女の築く民主的な一代家族)の性格を備えるものとして把握される」と書かれています。これ自体かなり大きなパラフレーズだと思いますけど、しかし日本の文脈で考えると、どうしても今提示された1と2の共犯関係やねじれを考えさせられるので、このまま当てはめるのは難しいそうですね。



井出
「制度から友愛へ」というのはバージェスとロックの家族変動論ですね。とてもベーシックで非常によくわかる説明ですね*1。しかし日本的な近代家族っていうのは、このようには整理では不正確だと思われます。波多野清一は、家父長制の家族→夫婦結合中心の家族という変動で整理しましたが、波多野の論争相手であった社会学者の有賀喜左衛門*2の家族論を特に取り上げてみたいと思います。



有賀は「公(おおやけ)と私(わたくし)」という論文を書いています*3。英語のpublicは「公」に、privateは「私」と翻訳されます。しかし、英語と日本語で含意されている意味が違っています。publicは基本的に一つなんですね。publicがあって、そこに向かっている個人というイメージです。


chiki
そこには「共通のプラットフォームが存在する」という前提があるんですね。



井出
ですね。でも日本の「オオヤケ」は一つじゃなくてたくさんある。家族という最小集団があるとすると、その家長が「オオヤケ」になり、家長以外の成員が「ワタクシ」になります。ところが、その家長が所属する上位の集団では、家長が「ワタクシ」になり、さらに別の「オオヤケ」が生まれる。「公人」ですね。有賀の考える「公と私」は入れ子構造のようになっているんですよ。西欧のような一つのpublicではなく間に家族やら中間集団やらが入り込んだ階層状の「公と私」が日本の社会構造だと捉えられます。図で表すと次のようになります。






井出
で「オオヤケ」に「義理」というものが生まれる。これは、近代では「義務」という単語に置き換わったものです。一種の規範ですね。共同体の相互扶助関係での義務を果たすことを「義理を果たす」。そのような義務を果たさないことを「義理を欠く」と言う方言があります。また、葬式や婚礼などの手伝いや弔問に行くことを義理と考えるのは日本に広く渡っている考え方です。また、中部地方や東海地方では葬式や婚礼の手伝いや弔問を「義理」と称することもあります。



象徴的には井原西鶴の『武家義理物語』*4にこういう話があります。荒れた川を武家の親子連れの一団が渡っていて、その中の一人の子供が溺れ死んでしまった。その事態に「義理が立たない」として、一緒に渡っていた一人の武家が我が子をおぼれさせたという話です。



chiki
ギャグのような形式主義ですよね(笑)。ちなみに『武家義理物語』は1688年の作品で、一般に「武家物」と呼ばれるもののひとつですね。私は近代が専門で、近世はあまりフォローできていませんが。



井出
今見るとギャグ以外のなにものでもないですね。実際にあったかどうかは知りませんが、当時は「義理」の典型としてこのようなものを示す必然性はあったように思われます。笑い話としてではなく。親同士が子持ちで川を渡るという同じ状況にあったのに、片方が息子を失って、片方は無傷。これは、オオヤケの間柄では、義理が立ってないことになります。それで、ワタクシの事情をつじつま合わせすることによって義理が立つ。



上山
中間集団の「きずな」をそこで証明して見せるようなアクション・・・



chiki
義理の話は面白いですね。昨今でも、憲法の議論などで「義務」の議論をされているときは、それは非常に日本的な「義理」の話で行われているということがよく分かる(笑)。現代は西鶴から350年近く経っているんですけどね。



上山
「勤労の義務」は、「お前も自分の子供を殺せ」というわけか。



井出
上山さんがまさしく今言われたことです。西鶴に今の議論の範型が見られるというのは、封建制から近代へという移動があったとしても、「義理」のパターンはいまだに継承されてるということですね。家永三郎『日本道徳思想史』は武士の「忠誠」について興味深い解釈をしています。家永は中世の武士の、領主に対する「忠誠」は主人への奉仕に目的があったわけではなく、自分の子孫の繁栄のためであったと指摘しています。戦場で主人の前で討死することがあっても、死後に、彼らの家に報賞なり威光なりが与えられることが期待できたわけです。



つまり、命をかけて戦うのは、「イエ」のためです。自分の利益のためではなく、イエのために命をかけて戦うわけです。これは家長として、オオヤケに要求される役割と捉えることが出来ます。やはり、何かの行為をするときに「義理」が立つようにしなければいけないし、構成員(とくに家長)は「イエ」に対して利する行為をしないといけない。これが日本における「規範」なわけです。



上山
「イエ」に対して利する行為をすることで、さらに上の階層の「オオヤケ」において承認される、と。



井出
そうですね。それが履行できない時には、「イエ」に対して負のサンクション(規範的な罰)が加えられることになろうかと思います。



上山
直接オオヤケに奉仕することはできなくて、オオヤケのレベルでの承認に「イエ」という媒介項が必要だった?



井出
それがpublicではない日本的な「オオヤケ」の姿だと思います。逆に言えば、「イエ」というものが無ければ、個人は社会と接続することが出来ない。戦後は「イエ」というものが男性の場合には「会社」になりました。だから、自分を外部に紹介する時、つまり自分を知らない人に自分を接続する時ですが、そのような時には「○○会社の△△です」というような感じでプレゼンテーションする。個人は「イエ」や「会社」などを通じて初めて位置づけを確保できるし、社会化されるわけです。



chiki
『家族の痕跡』での斎藤環さんの指摘にひきつけて言えば、日本での公私の対立軸は「個人/社会」ではなく「家族/世間」であるってことですね。「個人」はまず家族的存在でないと認めらない。しかしひきこもりは世間から撤退しているが、一方で親密件を拒否しつつパブリックに対して過剰適応しようとする。非常にねじれてる議論ですね。



井出
家族の親密圏を拒否して社会とつながるというのは非常に捻れてしまうんですね…。ひきこもりと有賀の「公と私」の説明は非常に親和性がある気がします。今回のテクストである『家族の痕跡』では次のように書かれています。


言うまでもなく、ひきこもり青年達は、非社会的存在ではあっても、反社会的存在ではない。就労しない彼らの生活を支えているのが、家族の経済的支援であるとしても、それは社会的に批判されるべき問題ではない。それでは彼らが批判されるのは、果たして「五体満足なのに就労しない」ゆえであろうか。私には、必ずしもそうとは思われない。むしろ彼らが家族を持とうとしないこと、さらにはイエの存続に寄与しないことこそが、批判されているのではないだろうか。(『家族の痕跡』133ページ)

エスタブリッシュメントに反抗するという意味での「反社会的行為」ではないけれども、働かないというのは有賀説では規範を犯していることになる。働かなければ、世間に義理が立たない。義理が立たないから家族は「ひきこもり」を隠そうとするんですね。で、ひきこもりやニートは世間から批判される。批判してる人に直接的に危害が及ぶわけじゃないのにも関わらず、ひきこもりやニートが批判されるのは、日本にこのような「義理」に基づいた規範があるからではないかと思われます。



上山
パブリックに対して過剰適応しようとすると、親密圏を持てなくなるんですよ。宮台真司さんが取り上げていた*5、『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』を思い出すんですが。オオヤケというのは、中間集団ですよね。



井出
中間集団と限定ではないと思います。



上山
中間集団はすごく問題のある場なんだけど(内藤朝雄)、しかし引きこもりのように中間集団に適応できないと、そもそも社会参加することができない。 むしろ積極的に、「参加できる形の中間集団はどういうものなのか」を考える必要が出てくる。



chiki
その場合は、「(特定の)中間集団」という留保が付きますね。



井出
もっと階層状に広がった外部といった方が妥当かと思います。親族間の義理があり、村にたいする義理があり、国に対する義理もある。オオヤケはたくさんあるんです。



上山
「○○であるべきだ」というような純粋かつ空虚な規範意識を持ってしまうと、階層状の各レベルへの義理立てはできなくなる。



chiki
ある種の中間集団が、階層状=同心円状に配置されているという特徴がまずあるよね。そうすると、例えば家族を愛すれば地域を愛し、地域を愛すれば故郷を愛し、故郷を愛すれば国を愛する、みたいな単純な議論を前提にすれば「義理立て」はできるんだってことになるわけです。ニート、ひきこもりバッシングについて言えば、義理のレベルとは別に、良質の公共圏を維持することが「私」の問題とも関わるというレイヤーもあるわけですが、やはり両者は似て非なるものでしょう。



上山
「過剰適応」の対象が、オオヤケだったり、publicだったりするのかな。 「他者からはどのように糾弾されるか」という話と、「本人自身の過剰適応のメカニズムはどう機能しているか」は、関連しているが、分ける必要がある。 家族というのは、唯一「適応努力」を必要としない場かもしれない。 いや、「理想の家族」を演じようとすれば無理なんだけど。 「適応」というロジックが自家中毒的に、あるいは自殺的に自滅しているところに、他者からはさらに「適応せよ!」という話をされる。――どうしようもない。



井出
この辺りをもう詳しく見るために、中国の儒教と日本の儒教の比較を少しだけしてみたいと思います。「ひきこもり」と「儒教」の関係は斎藤環さんが再三指摘されておられるように非常に重要な問題です。中国にも「孝」というものがあって、中国も同じく儒教国なので、日本と同じなんじゃないかと思いがちですが、これが全然違う。「忠」と「孝」でいうと、日本では「忠」「孝」があたかも同じもののように扱われるんですが、中国では「孝」が優先されます。この辺りは斎藤環『ひきこもり文化論』の110頁にも同様の指摘があります。



どういうことかというと、中国でよく言われる「百行孝為先」という言葉にすべてが現れています。これは、「何よりも孝行を優先せよ」という意味ですね。例えば『論語』では犯罪を犯した*6父親を子供が通報したという話が載っているのですが、孔子はこの子を糾弾しています*7。この子供は「公」の義理(=忠)を優先したのですが、中国の価値観では「公」を裏切ってもいいから、「忠」を優先せよとなる。だから、孔子はこの子を批判したのです。



中国にはこの価値観は未だに根深くあるようです。聞くところによると、最近、台湾では、家庭内暴力が問題になっているみたいです。日本で家庭内暴力というと、子供が親をバットで殴るイメージがありますが、台湾では、父親が子供を殴るケースになります。「孝」が優先される中国社会では、親から子への暴力は問題ではないわけです。しかし、近代化と共に「百行孝為先」という文化も弱体化し、社会問題化してきた。台湾で最近問題になっている家庭内暴力はそういう背景があると考えられます。



ところで、日本なのですが、儒教を輸入した当時は中国儒教と同じように「忠」より「孝」が優先されていたのです。ところが、それが逆転する。つまり「孝」より「忠」が優先されていくのです。その転換点と言われているのが「水戸学」だと言われています。具体的人物としては、藤田幽谷や會澤正志齋などですね。中国の儒教であると、父を敬うように君主を敬うという「孝」優先の考え方がありますが、日本では君主を敬うように父を敬うというように「忠」が優先されるか、「忠」と「孝」が混同されてくるわけです。日本思想史では、この転換点は水戸学というように言われていると思います。もちろん、この転換によって、家内事情よりももっと大きなものを優先する考えに切り替わり、近代国家への歩みを始めることになるわけです。



水戸学を経て明治期になると天皇の「父性」が強調されてきます。「尋常小学修身書」という道徳の教科書のようなものを史料に牟田和恵は「二五年以降の修身書においては、現実の天皇と臣民が父と子のように互いに慈しみと愛慕を抱いているとまさしく家族の情愛の再現として語られることは注目すべき点である。」(牟田和恵『戦略としての家族―近代日本の国民国家形成と女性』106頁)と分析します。明治半ば以降の天皇像というものは「家族」とアナロジーで描かれ始めるんです。ただし注意すべき点は、中国のように犯罪を犯してでも「孝」を優先せよというものではなく、「忠」を優先せよということになったこと。お国のために私事をなげうってしまう感覚ですよね。で、もう一つは「孝」の考え方は近世からもあったということです。先ほどの有賀喜左衛門は次のように言っています。


親子関係において親に従うことが孝であるといわれたのは、もちろん親に従うことが義理をつくすことと考えられたのであり、この場合の義理の内容は孝行の道徳であった。(有賀 215頁)

先ほど、家族が最小単位といいましたが、家族の中にも「義理」がある。それが親子間の義理である「孝」という見解です。「孝」の概念の変遷を見るのにシンボリックに了解できるのは「忠臣蔵」と「新撰組」なのではないかと思います。「忠臣蔵」というものは君主のために仇討ちをした話ですね。封建制度の下での「義理」でいうと、ある藩の家臣というものは、自分のお殿様に対する忠義を尽くす義理を持っていますが、藩を越えた幕府にはそういう義理は持っていません。ですので、忠臣蔵の赤穂藩士四十七士には、主君の敵を討つ義理はあれど、他藩の君主や幕府に対して配慮する何らの義理も無かったわけです。だから、仇討ちは為されたわけです。



この仇討ちの裁定をしたのがかの荻生徂徠なのですが、彼は赤穂藩士たちの正しさというものは藩内にのみ通じるものであって、それはワタクシの義理に過ぎなく、公的な法を犯していると考えています(『徂徠義律書』)。徂徠にとっては、藩のワタクシは幕府のオオヤケの下に来るものだったわけです。もちろん当時の世論としては、赤穂藩士たちに味方をする者が多かったので、日本という国のオオヤケはまだ確立されておらず、藩単位のオオヤケが優勢だったと考えられます。



一方で、「新撰組」というのは藩単位のオオヤケよりも、日本国のオオヤケを前面に出した話になっています。武士というものにこだわった人たちであったとは言えども、その姿は封建制度の下での藩内の義理を優先する藩士の姿ではなく、その藩士たちへのアンチテーゼを持った姿なわけです。再び、牟田和恵『戦略としての家族―近代日本の国民国家形成と女性』から引用をしてみたいと思います。







井出
最初は父親が上座にいてとっても偉くて離れた所に子供達がいるという図です。しかし、明治も時代が進むと、火鉢を囲むようになってくるんです。これは、家長というものの存在が封建制から近代へと移行していく象徴的な変遷だと思われます。


「父親の不安」を最もよく象徴するセリフが「俺が食わせてやってるんだ」であることはよく知られている。つまり近代とは、多くの男性が、父親として(あるいは夫として)「俺が食わせてやっている」と強迫的に役割を確認しなければ、家族の成員たりえない時代なのではないか。(『家族の痕跡』144)


これが家長の変遷の末路ですね。上座から火鉢へ、そして、現代では家庭の中に居場所さえなくなって、恫喝して居場所をかろうじて確保してる。このような状態になってしまったのは、「ファミリー・アイデンティティ」を共有しているだけに、心理的な繋がりの希薄な父親を家族の一員として見なしていないからですね。



日本的な近代家族というものは、[1]日本的な「公と私」の構造を持ち続けた[2]「ファミリー・アイデンティティ」に支えられた「家庭」を持っているという特徴です。つまり、家族の成員の不都合は「義理」として家族全体が責任を持たなければならない。封建制は「家長」がその役割を背負っていたけども、日本的な近代家族では、「家庭」という幻想の集団がそれを背負っていく事になっているのです。これは、同じ近代家族でも西欧の近代家族とは異なったものにならざるを得ないわけです。



そして、もう一点大事なのは、「家長」を失った日本の家族は社会とつながっていくことが出来なくなったということです。有賀説に則って、牟田の整理を考慮すると、個人が社会と接する時に必ず必要であった「家長」が明治期から現代にかけて転げ落ちてしまいます。そうすると、社会と個人をつなぐジョイントが欠如し、個人は社会とつながることが非常に難しくなるわけです。「ひきこもり」という問題にも関わってきますし、「ひきこもり」と同時にしばしば起きる「家族のひきこもり」という問題もこの構造の影響を受けているように感じます。



chiki
丁寧な解説ありがとうございます。上山さんに話をつなげるために、今の議論に補足的に介入してみます。最後に「火鉢」の例が出てきて、それが特に象徴的だと思われるので、少しだけ「建築」系の話に触れておきたいと思います。『家族の痕跡』でも、テレビ番組「ビフォーアフター」をテクストに重要な指摘が行われていました。それは、この番組の「リフォームで家族の問題を解決する」というスタンスが、家族の問題=家屋の問題として重ね描きされているということです。


この番組のキャッチフレーズは「リフォームで家族の問題を解決する」というものだ。この点にまず注目したい。「家屋の問題」ではなく「家族の問題」なのである。このフレーズがどこまで考え抜かれて出てきたものかはわからないが、この点がまず、きわめて象徴的だ。なぜリフォームが家族の問題解決になりうるのか。さらに言えば、家族の問題とは、果たして家屋の問題なのだろうか?
(…)リフォームを担当する「匠」は毎回替わるのだが、ひとつ奇妙なことがある。「アフター」すなわちリフォーム後の家屋は、毎回に通ったパターンにおさまっているように思われるのだ。
(…)この番組をみていて、トルストイの有名な警句がしきりに思い出された。そう、『アンナ・カレーニナ』の冒頭に書かれた言葉、「幸福な家庭は互いに似通ったものであるが、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっている」である。


ここでの指摘の面白いところは、幸福な家屋像が一元化されている指摘です。そこでヒントになる次のような議論があるかと思います。同書で斉藤によって何度も参照にされる上野千鶴子は『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』で、建築家山本理顕の議論を参照にしながら「空間帝国主義」という論点の提示を行っています。「空間帝国主義」とは、空間の特定の配置に合わせて人間の生き方が作られるという考え方です。これは、ある意味で「環境管理型権力」とも重なる論点ですが、ここではその点に触れず別の議論として進めます。



上野の指摘にこのような話があります。これまで都市生活者は、囲炉裏のある家(田舎)とちゃぶ台のある家(都会)という「へその緒」でつながったかのような住宅を往復することで生き延びてきたが、やがてちゃぶ台が食卓へと変わり、食卓のない家になっていき、替わりに「部屋」になっていったという歴史的経緯がある。「部屋」とは個室のことです。しかし、ここ数十年の基本的な住宅モデル(nLDL)は変化していない。nの数は「家族-1」です。ここでひかれている1は「母の部屋」で、「-1」とされることが「夫婦の寝室で共に寝るべし」という規範意識と結びついている。標準家屋が標準家族のあり方を規定しているんですね。


建築家の例にもれず、山本さんは一種の「空間帝国主義」とでもよぶべき信念をもっている。つくるハコが小さいからといって、建築家が謙虚な生き物だなどと思ってはいけない。空間帝国主義とは、人間の用のために空間があるのではなく、空間の特定の配置にあわせて人間の生き方がつくられる、という考え方である。彼によれば、住宅とは「空間化された家族規範」の別名であり、そのような空間に住んでいる人びとの集団を、逆に「家族」と定義する、のである。

ここで、住宅=空間化された家族規範であるという視点、くわえて「n=家族-1」の問題から、彼女のフェミニズム的な議論が展開されるのですが、そちらの論旨は省略します。彼女の指摘で重要なのは、家族や社会のあり方が既に大きく変化しているし、そもそも何十年も同じプランの商品が残り続けるということは稀であるにも関わらず、なぜこの住宅モデルだけは延々と採用されているのかという問いかけです。これはいくつも考えるべき問題があると思いますし、単純に思想的な問題ではなく、経済的な問題、地政学的な問題もありますが、とりわけイエ=家族=住宅の関係を再確認するという意味で重要な指摘であり、さきほど井出さんが火鉢を象徴的といったことの意味を理解する助けになるのではないかと思い紹介させていただきました。



井出さんが丁寧に「イエ」の歴史的経緯を語ってくださいました。そこで、この指摘を受けて「なぜ日本的な近代家族モデルが未だに採用され続けているのか」という点について話してみたいです。



井出
「なぜ?」は非常に難しい論点です。日本的な近代家族モデルが採用され続けている理由を探るためには「破綻」のことを考えてみるのがヒントになるかと思います。破綻とは「離婚」ですね。つまり、「家族の終焉」です。離婚の規定要因は国によって大きく違います。例えば、ノルウェーでは、高学歴同士の結婚は低学歴同士の結婚より3割ほど離婚率が高い(参照)ですが、日本では、高学歴だと非常に離婚しにくいんですね。日本の離婚の規定要因を探ってみたいと思うのですが、ネット上で閲覧可能な文献の方がよいので、『平成16年度「消費生活に関するパネル調査」』から福田節也「離婚の要因分析」(PDF)のデータを使いたいと思います。



まず、妻方同居があげられます。夫方同居を1とすると、親別居は1.19、妻方同居は3.13離婚しやすい。日本社会には、やはり夫方同居がフィットしていると言えます*8。あと、妻の職業がフルタイムだと離婚しやすい。離婚するためにフルタイムの仕事を見つけたとも考えられますが、どちらにしろ、妻の食うアテがあるなら、離婚しやすいと考えられる。



あと、興味深いのは、妻の兄弟数です。1-3人までだとさほど変わらないのですが、4人を越えるとグンと離婚しやすくなることが確認できます。これも、妻に頼る者が多いためとひとまず解釈できます。



chiki
それは、単に再婚の連れ子率が増えるからとかではないよね?(笑)。「離婚率」と「離婚者率」と別に計算したうえで?



井出
それは、ちゃんとやっておられます。大丈夫です。



chiki
それはなにより。



井出
妻方に頼るべきものがあって、離婚してもある程度生きていける条件があるならば離婚はなされる傾向にあるわけです。



chiki
そこで「女性の自立とかほざくから離婚したがるんだ」というアレゲな言説があるわけですねー。



上山
選択肢を減らす方向の話か。 「結婚=永久就職」とかよく聞くけど、それなら「再就職」とか、「結婚していなくてもいい」という選択肢があったほうがいいですね。



井出
結婚の負荷は女性にかかってるんでしょうね。逆に、男性で規定要因としてあげられるのは、低収入です。収入低いと離婚ですね。あと、夫がパート・アルバイトだと離婚しやすい。パート・アルバイトだと収入も低いのですし。夫が、中小企業勤めを1とすると、パートアルバイトは3.32。



chiki
「夫の収入が低いような層だと離婚が多い」という相関関係と、「収入が低いから離婚するのだ」とか、「女性がお金目当てだ」という因果関係の混同には注意が必要ですね。



井出
ですね。妻収入が低いと離婚率は下がります*9。こういう数値化できるものに隠れた形で、当事者はそうとうの我慢があると思います。状況が許せば離婚する家族はたくさんある。



「なぜ日本的な近代家族モデルが、未だに採用され続けているのか?」ということですが、「やめたい」と思っている家族はたくさんいるはずです。意識でやめたいと思っても収入などの状況が整わないしできない。家族は「ファミリー・アイデンティティ」を持った集団ですが、相互扶助をする経済的集団でもある。で、常識的にも、計量的な裏付けからしても、家族を続ける我慢を担っているのはどうやら「妻」だというスケッチが描けます。



あとは、「ひきこもり」は抱え込む家族は「家族」をやめないということでしょうか。不登校になったときに、抱え込まずにどこに相談するとか、ひきこもり状態になったときに誰かに相談するとかすれば、一定数は「ひきこもり」にならなくてもすむと思うんです。もちろん、すべてではないですが。



chiki
さきほどの住宅の話で行くと、「母の部屋だけは用意されていないけれど、そのかわり住宅すべてが母の胎内なのである」というような表象のされかたは、美的なニュアンスを含めた形でよく持ち出されるような気がします。私はグロテスクだと思うんですが。



上山
うーん。 しかし、「自分の問題について家族が誰かに相談している」というのは、社会に向けて適応するよう強制されているようで、ものすごく嫌でしょう。



井出
その感覚が実はひきこもりを生んでる価値観ではないですか?



上山
あと、男の人が女の人に「やすらぎ」を求めるというのは、「妻のもとでだけは、適応努力をしたくない」ということで、しかしその男性の要望のために、女性が適応努力をしなければいけない、という構図なのかな。



chiki
日本的家族は父性ではなく、母−子の関係によって「抱え込まれること」が問題であったという斎藤さんの指摘に習うなら、家族によって「抱え込まれること」、家族/世間の構図に書き換えられること事態が問題だという点で、お二人の指摘は同じにも聞こえるんですけど、違うのかな。



井出
夫は「家長」なので、会社などでの「義理」を果たすことになって、ものすごく窮屈な思いをすることになんだと思います。ただ、それは家族という単位になれば解消されるわけで、上山さんのおっしゃっていることと同じだと思います。ただ、適応努力というのは、やはり、適応できなかった視点からの言明ですので、「出来てしまう人」が多いのではないかと。



chiki
解決するというのは、夫が家から疎外され、子どもを演じることができるからですか?



井出
会社勤めの夫に「家庭」での居場所なんかないと思うんです。ここ数十年で変わってきてる気がしますが。ただ、あり得るとしてら、chikiさんの言われたように「子供を演じる」というようにだと思います。



chiki
うん。ある種のファミリーロマンスには用意されていたかもしれないけど、それも難しいでしょうね。



井出
一つは無理だという点で。もう一つは、無理だからメトロセクシャル傾向が出てきているという点で。男に先んじて、女性がHanakoになったことに象徴されているのだとおもいます。メトロセクシャル=身なりがきっちりしていて、ライフスタイルにこだわるという説明がなされていますが。金銭面で言えば、女性にお金をつぎ込むのではなく、自分につぎ込む。資本主義と記号消費によって生活を成り立たせている。



上山
「公私」の話に、セクシュアリティとかジェンダーが絡んできたのかな。



井出
女性との融合に「あるべき姿」を見出さずに、物象化した世界で生きるライフスタイルです。現世代のメトロセクシャルは「対幻想」の断念から来ているんだと思います。もちろん、奥底には、対幻想があり、ファミリー・アイデンティティが存在しているのですが、それが求めても得られそうにないことが分かってしまっているので、資本主義と記号消費へと行った人たち。



chiki
それは「だきあっているだけでしあわせ」以上の物語はあまり求めないって感じかな? 



井出
おそらくは。



上山
「資本主義と記号消費」や「オタク的幻想」に行けるなら、社会生活を維持する口実――というかモチベーション――はできますね。



井出
むしろ、どっちかに行かざるを得ないという気が。



上山
「どっちにも行けない」ひとはどうすれば・・・



chiki
そこで井出さんが準備段階から議題のひとつとして提案していた「再近代化」の話が出てくると思います。『再帰的近代』のなかでベックは「サブ政治」に関する議論の中で「何でもあり」(エニシング・ゴーズ)=「もう何も起こらない」(リアン・ヌ・ヴァ・プリュ)という表現を使っていますが、このフレーズは秀逸です。ベックの議論の要約や「サブ政治」概念についてはisedキーワードが分かりやすいですね。このフレーズだけをちょっと脱文脈的に取り上げてみますと、サブ政治のみならず後期近代社会そのものをあらわすフレーズにも読める。日常をやりすごすための力を持つためには「何でもあり」ですけれども、それは翻って「どれもない」のと同義であるケースを生む。その差異はほとんど相対的なものだから(無論、現実には他の変数を含むわけですが)、ここにこの手の議論の難しさがありますよね。



上山
というか、まさに「再帰的近代化」の症候のひとつとして、「どれにも行けないで窒息」があるような。



井出
で、どうするか? ここで、斎藤さんのこの本の主題があったように思います。


ひきこもりの治療において、私が「家族以外の親密な仲間関係を数人獲得すること」を目標とする理由もまた、ここにある。それはしばしば誤解されるように、「個人を制度に馴致させよう」という試みとは正反対の方向性をはらんでいる。私が目指すのはむしろ「社会や制度から自由であるための条件」として「親密圏を獲得すること」にほかならない。(『家族の痕跡』p.94)

これが結論だったように思うんですが。宮台さんの場合は、「天皇」ですよね?



上山
さっき、「オオヤケとワタクシ」は死に絶えていない、という話があったけど、「ひきこもり」とか「ニート」を論じ始めた途端、最もグロテスクに論者の「公私」観が露呈されるんだと思う。みんな胸を張って「現代的価値観」とか言ってても、実はそんなに変わっていない。斎藤さんが言うのは、そういう硬直したステレオタイプから自由でいるために、親密圏が必要である、と。 ▼ひきこもりというのは、セクシャルな要素も含めて、「公私のマネジメント」に失敗しているわけですね。 親密な関係を作ることができなくて、そのぶん、過剰に公的なものに絡め取られている。 「まぁいいじゃん」っていう身近な承認が欠落していて、公的な目線ばかり気にしている。 ▼三島由紀夫が35年以上前に、「現代はハレがなくなってケだけになっちゃった」と言ってるんだけど、「ケ」だけの孤立した生活が逆に公的な目線に自発的に監視されるというのは、妙な話。



chiki
宮台=天皇という理解については個人的には保留したいです。宮台さんのあれは、「ネタ/ベタ」とかいうよりは「伝統主義/保守主義」という論点の再整理のために行われていた感じが強いと思うので、天皇で日常をやりすごそうぜってことではなく、天皇とかがないとやりすごせない人に対して「それでもいいけど、間違った方向にはいくなよ」って言える人を増やそうとしていたような気がする。「ネタとして天皇って言おうぜ」ではなく、ネタでもベタでも天皇って言う奴に対しての処方箋は準備しておこうぜ、って感じを受けたんですが。



上山
天皇って、要するに「合理的適応努力の停止ポイント」でしょう。



井出
なんでわざわざ天皇なんでしょう? >chikiさん



chiki
議論のステージの変化を意識してたのでは? 本人語りの「ポストブルセラ」とは別に、「保守の地殻変動」を意識していたんじゃないかと思うんですが。



井出
一連の天皇論は再帰的に理解するべきなんだよね? そうすると宮台さんは「あえて」、「天皇」って言ってることになる。



chiki
再帰的近代化っていうことは「ポスト伝統主義」の問題と関わってくる。既に「伝統」が切断されてしまった状態、あるいは記号と化した状態では「伝統」も既に選択の対象であるわけで、そこで伝統の対象を選択しなおすってことが保守主義のスタンスだって話ですよね。ところが、「保守の地殻変動」が起こったり、議論の多極化が起こると、その切断を知らないで切断されていないと思いこむ、本当の意味での「勝ち組」(負けているのに、情報格差や独自に解釈によって勝ったと思っている人たち)が放置されることになる。そういう状況を前提としているという意味では「あえて」だけど、それは「ネタです」って意味ではなくて、再帰性のステージを確認するという意味で捉えたほうが混乱せずにすむんじゃないかなと。ネタやベタで天皇が通用するって思っているわけじゃないんじゃないかな、と。



上山
「選択しなおす」しかなくなっていて、そこでマネジメント不能に陥っている。



井出
でもさ、再帰的近代化って「合理性」への信心があるからこそ作動するんだと思うんだよね。



上山
「合理性への信心」自身が、自家中毒みたいになっている。



chiki
うん。合理性の議論の場合だと、例えば宮台さんのように「弱者が新自由主義を支持することで自分の首を絞めている」というように、他人の限定合理性を指摘するためには、批判対象、観察対象を限定合理的であると見なした上で、別の合理的フレームを提示するという意味では、なにかしらの合理性のトライブ*10にいることは間違いないと思う。



上山
その「合理性のトライブ」なんだけど、各々の「合理性のトライブ」は、それぞれ非合理なものをベースにし、それに駆動されながら成立しているわけでしょう?



井出
上山さんにのっかると、再帰的近代化ってひきこもりの社会復帰にまったく逆効果だということが言えそう。天皇はやっぱりよく分からないなぁ。chikiさんの言われることはよく分かるし、宮台さんがchikiさんの言われているようなことを込みで天皇論をやっていることも了解してるつもりなんですが、なんで天皇なの?



chiki
「本来的勝ち組」的な伝統主義者が感染しやすい症候だからでは? 宮台さんって、論争タームには敏感な方ですし。



上山
非合理な動機づけを失った(見えなくなった)人は、それぞれの限定合理性への参入に向けて説得されないし、無理に参入しても、継続的に合理的努力を維持できない。



chiki
というか人は常に限定合理的で、むしろ限定合理的でないと人は先に進めません。



上山
非合理な動機付けに失敗し、わかりやすい合理的説得にも幻滅すると、あとは「合理化するべきである」という非合理な命題自体がオブセッションになってゆく。で、さっきのここなんだけど


上山:しかし、「自分の問題について家族が誰かに相談している」というのは、社会に向けて適応するよう強制されているようで、ものすごく嫌でしょう

井出:その感覚が実はひきこもりを生んでる価値観ではないですか? >上山さん

ありがちな「俗流若者論」って、要するに「若い奴らがオオヤケに向けて動機づけられていない」ってことでしょう? 上の世代から見ると当然「公的に」振る舞うべき時期や場所で、「いまだに私的な振る舞いに固執しているのか、このバカは」と。 でも、その公的なものに向けて動機づけられる理由というのは、非合理そのものだと思うんですよ。その非合理な動機づけがうまく機能していない。外部世界に参入するための非合理な動機づけに失敗したままで、「とにかく入信しろ」って脅迫されているような。



井出
合理性に信心があっても、天皇に信心はないなぁ。ちなみに家族には信心がありますよ、やはり。あえて「天皇」という宮台さんには興味が湧かないけど、あえて「家族」という斎藤さんには興味津々。テリトリアヌスの「非合理ゆえに我信ず」ですね。スコラ的思弁の前提としてキリストへの信心が絶対条件だという構造だと思います。



上山
井出さんは「天皇は興味ないけど家族は興味ある」というのだけど、それは「非合理」として、天皇よりも家族のほうに説得力があるということかな。



井出
義理と人情の構図がひきこもりの家庭には見られるじゃないですか。どっちかというと、人情を優先してしまったのかな。義理を優先すると、子殺しですね。長田送りでもいいですが。



上山
さっき私は「合理」=「規範に適応するという意味」とお返事したのですが、「○○であるべきだ」という純粋かつ空虚な衝迫は、階層状の「オオヤケ」レベルの規範ではない。むしろそういう「オオヤケ」も、冷酷な合理化の目線からは「説得力のない非合理」に見える。そういうものを強迫的に(非合理なまでに)否定し続けるオブセッションが、社会適応を困難にしている面が、ひきこもりにはあると思う。▼しかし一方、その「○○であるべきだ」という過剰適応のメンタリティは、階層状の「オオヤケ」に向けても発揮されてしまう。――それにヘトヘトになっているんだけど、《家族》だけは、その「オオヤケ」に向けた適応努力から撤退させてくれる場としてイメージされる。▼ところが実際には、家族は「オオヤケからのエージェント」みたいにまずは振る舞ってしまう。「はやく社会に適応しろ」というわけだから。



井出
ひきこもり状態からの視線だとビックリするくらいpublicだと思うんですよ。たくさんのオオヤケではなくて、一つのpublic。社会というものを認識する時ですね。よく、社会というものを認識する時に、他者と交わっていないこともあって、グラデーションのような社会の認識をしないって言われるじゃないですか、ひきこもり当事者が。西欧的とも言えるパブリックな視点を持ってる。ひきこもりの選挙の投票率は高いとかもその証左だし。



chiki
誤認として?



井出
だと思います。もう一つ言えるのは、ひきこもり当事者の社会の認識は、極めて日本的ではないために、日本社会で生きるのは困難ではないかということです。個人と1つのpublicという認識では、上山さんが今回のチャットで言われている「中間集団」の社会であったり、有賀的なオオヤケとワタクシの入れ子構造の社会はとても生きづらい。



中間集団で生きてる人間にとって、publicが無かったりというのもありますよね。社会参加、社会参加って言われますけど、多くの人がしてるのは、「会社参加」であって、社会参加ではない。「会社」=「社会」と思っている人が少なからずいる。忠臣蔵とか企業戦士とかがその理念型(要素的純型)ですね。



上山
「オオヤケ」に適応努力をしていると、「public」は維持できない。



井出
その逆もまた真なりです。認識の歪みはひきこもり状態に限ったことではなく。



上山
ひきこもっている人は、「オオヤケ」に関わらないことで、異様に純化された「public」を維持することになる(非現実的なまでに)。 妙な話だけど、「家族」という私的な領域が、「public」を保護する形になっている。



井出
「自分の問題について家族が誰かに相談している」←これやっぱりダメですか?



上山
孤立を極めた当事者にとって、最悪のイメージの一つだと思う。 でも、まさにそこでこそ「公私のマネジメント」が俎上にのぼっているわけで。――なんでここまで嫌に感じるんだろう。追い詰められた家族としては、至極まっとうなリアクションといえるはずなのに。



井出
先ほどのオオヤケとpublic、ワタクシとprivateの比較で見いだせるのは、ここの反応の違いなのではないかと。「ひきこもり」というのは「イエ」にとって「義理」を果たしていないので、家族ばかりでなく、世間からも批判される対象になる。だから、家族も隠して抱え込む。「義理をつくしていない」状態を隠して、人情としてひきこもりをずるずると延ばす。



上山
ひきこもりというのは、家族にとっても本人にとっても、究極の「恥ずかしいワタクシ性」を秘めている――これは重要な心理的事実ではないでしょうか。



井出
そうです。その恥ずかしさの原因。


上山
今回の本で斎藤さんが書かれていましたが、「恥ずかしい」というのは、ものすごい傷になる。 ひきこもりというのは、「究極的に恥ずかしい」という気持ちを、何年も味わい続ける。だからそれを「語ってみて」と言われても…。絶句してしまう。



井出
それは、ひきこもり当事者も自身が不義理であることを承知しているからなんでしょうね



上山
ひきこもり状態に独特の「永遠の現在(eternal now)」*11は、究極的に恥ずかしい恥部。 あまりにも不義理な状態に固着して、身動きができない。 で、外部からも「お前は恥ずかしい奴だ」と言われ続ける。



chiki
だから義理/人情のレイヤーではなく、義務/自由(社会契約)のレイヤーで徹底して議論をすることを、今回のビッグイシュー*12で斎藤さんにぶつけたのかな?



上山
あります。「究極の私秘性」を、なんとか社会のロジックに乗せる必要があると思った。井出さんが「社会的行為の喪失」と形容してくれた引きこもり状態は、心理的体験としては「究極の私秘性」として体験されている。単なるニュートラルな喪失状態ではない。近代的なロジックは、どうも道具立てとして引きこもりのディテールを裏切るのですが、僕らにはそれしかない以上、それを使うしかない・・・



井出
言説で担保するということですね



上山
そう。 言説レベルで構成しなければ、この現象の内実は、提起できない



chiki
その意味で――例えば男女共同参画基本法には「男女共同参画社会の実現は21世紀の最重要課題」という前文がついているけど(笑)、それをもじれば――ひきこもりは日本的後期近代社会の最重要課題だと思いますね。



上山
なぜ最重要課題だと思われるのか、またあらためて聞いてみたいな。「適応」というのは、「限定的な合理性にフィットする」ということですよね。 でもその「合理性」は、非合理なものに支えられないと動かない。――斎藤さんの家族論では、「家族は非合理だ」というのが一つのキモだったと思うのですが。



井出
そうですね。だからこそ、あえて「家族」だと言ってみても良いんだと思います。アメリカでは家族が無くなれば、DSMがペラペラに薄くなるというようなブラックジョークもあって、家族は諸悪の根元とみなされていますが、しかし、だからこそ、「家族」に希望があるとも言えなくもない。両義的ではありますが、だからこそ、非常に重要な「論点」になると思います。



(了)

*1:落合恵美子は「近代家族の性質」を8つ上げていて[1]家内領域と公共領域の分離、[2]家族構成員相互の強い情緒的絆、[3]子ども中心主義、[4]男は公共領域・女は家内領域という性別分業、[5]家族の集団性の強化、[6]社交の衰退とプライバシーの成立、[7]非親族の排除、[8]核家族。落合定義への批判としては上野千鶴子『近代家族の成立と終焉』など参照のこと。

*2:有賀喜左衛門というのは日本社会学の超古典

*3:有賀喜左衛門著作集〈4〉所収

*4:「死なば同じ浪枕」

*5:参照

*6:羊の数をごまかした

*7:『論語』子路第十三。「葉公語孔子日、吾党有直躬者、其父攘羊、而子證之、孔子日、吾党之直者、異於是、父為子隠、子為父隠、直在其中矣」父は子のためにその悪事を隠してやり、子は父のために隠してやることの中に正義があるという記述。

*8:もちろんそれが良いというわけではない

*9:ここで上げたのは属性規定要因。下部構造的にはそういうことが指摘できる

*10:tribe:「部族、種族」

*11:完全に引きこもってしまった状態では、物理的な時間は流れるが、心理的にはずっと「今」に固着しており、時系列に沿った時間が流れない。本人の自覚年齢は、ひきこもった当初のままで凍結していたりする。(30歳を過ぎた人が10代と変わらないメンタリティを生きていたりする)

*12:第45号「特集・ひきこもりの未来」掲載の、斎藤環氏との対談。