数学屋のメガネさんのエントリー「フェミニズムのうさんくささ」への疑問。

「フェミニズムのうさんくささ@数学屋のメガネ」
「こんな主張誰がしてるの?@世界、障害、ジェンダー、倫理」
数学屋のメガネ(id:khideaki)さんと、のざりん(id:x0000000000)さんとでちょっとした論争になっています。お二人とも、chikiが普段から大変参考にさせていただいているブロガーです。この論争に関しては「こっち側に賛成」というようなことはできませんが、今回は数学屋のメガネさんのエントリーが特に気にかかったので、いくつか簡単に疑問を表明させていただきます。※なお、このエントリーを描き終わった頃、id:rossmannさんの「フェミニズムを知らなければ批判はできない@変身物語」というエントリーを発見したので、こちらもご紹介させていただきます。



まず全体として、常に編集合戦が行われているWikipediaの文章を「フェミニズムに関する基本的な情報が書かれている」と言ってソースとしつつ、「フェミニズム一般を否定するのではなく、極論としてのフェミニズムの批判」を始めた後、いつの間にか「行き過ぎた」「極論としての」が抜け落ちた「フェミニズムに対するうさんくささ」を問題化してしまうという、「特称命題を全称命題にして取り違えるという論理的間違いに陥る」手法には問題があると思っています。「極論が正しいと思い込んでいる人たちからは嫌われることになるだろう」というようなタイプの内田樹擁護もフェアだとは思えません。「フェミニストのすべてがジェンダーフリー推進派ではなく、フェミニストではないジェンダーフリー支持者もいる」という但し書きを括弧にくくって等号でつなぐのもどうかと思いますし、そのうえで極論に転化した論者を想定してシャドウボクシングをする行為こそが議論の極端化ではないかという疑問もあります。



最後のに挙げた疑問部分の関連エントリーとしては、「一部のフェミニストが〜」というレトリックで議論を進めることの問題点を「とりごろうblogさんへのレスポンス」というエントリーで書き、「暴走したジェンダーフリーが〜」というレトリックで議論を進めることの問題点はid:macskaさんが「「ジェンダーフリーは必然的に暴走する」という暴論」というエントリーで指摘してくださっています。ある論理がおかしな論理に接続するということは日常茶飯事でどこにでも起こることだし、暴走したらなんでも危険なので、そのような想定で行う議論は基本的にトートロジカルなものです。それでもあえて、ある特定の対象を例として提示するのであれば(今回は「フェミニズム」ですが)、当然ながらその選別にも一定の政治性や「感情」が問われるわけなのですが、エントリーではその点に無自覚であるように思います。この点は最後にまた触れます。



Wikipediaに列挙されている事例に関して言えば、それらの真偽の問題とは別に(いくつかは既に過去のエントリーや「ジェンダーフリーとは」で触れました)、数学屋のメガネさんがどの部分を「極論」と感じたのかが気になります。トラカレでこれまで触れていなかった点をいくつか触れておくと、例えば「ロッカーや下駄箱の男女別の禁止」ってありますが、ある学校がロッカーを男女別にするのをやめること自体が「禁止」という表現に妥当するような極端なものであるのか、それとも県や国家がトップダウン的に「禁止命令」を発することなどを憂うものなのかで意味が大きく変わります。もちろん後者には私は反対しますが、「下駄箱をあいうえお順にする」ことを提案することが「男女別の禁止」と表現されるような「極端」なケースとはちょっと思えないので、「禁止」の主体が誰なのかも気になります。このような点から、フェミニストの「極端さ」に「うさんくささ」を表明する数学屋のメガネさんが、ある提案を「禁止」や「言葉狩り」といった「極端な」フレーズに置きなおすことの政治性に対して無防備すぎやしないだろうかという疑問(うさんくささ)を感じます。



もう一点Wikipediaに関連して言えば、「黒や赤などのランドセルの色を家庭が選択することを禁止し、「女男ともに黄色いランドセル」といった、統一色を要求する」ということが書かれているですが、例えばジェンダーフリーを擁護する人や提唱する人などの目的や試みは、こういう絵本とか描くように*1、男女の差異を否定して同一のものにするものというより(ジェンダーレス)、男女の差異を含めた様々な差異を肯定しようという試みではなかったでしょうか(参考:斎藤美奈子『物は言いよう』)。現実の問題を語るにしては前提条件が微妙で、「誰が何の意図でWikipediaを編集しているのか」という視点に対する配慮が欠けているのではないかという疑問と、仮に前提条件を括弧に括った上であくまで芸として論理と戯れるのであれば、差異の肯定という目標を(外部変数を含まずに)純粋化して徹底すると差異の否認という論理に必然的にたどり着く、というような証明をしていただければ興味深かったと思います。



また、これらのディテイルを括弧にくくって、エントリーの趣旨を大雑把に(私がこう読んだという意味も含めて)要約すると、次のようになるのではないかと思っていますが、その展開にも疑問があります。


第1段落〜第3段落は「善意だけでは論理の正しさはもたらされないよ。どんな論理も一面化した極論になったら誤っちゃうよ」
第4段落〜第7段落は「私はフェミニズムの意義は認めるけれど、こういう問題はマルクス主義フェミニズムにも当てはまるよ」
第8段落〜第9段落は「実際、フェミニズムには実際にこんな極論があるよ」
第10段落〜第12段落は「石原も内田もそういう極論を批判しているよ」
第13段落は「私は両者には賛成で、これが理解できない人は頭が悪いよ。感情的な反発ではなく論理的な反駁が語られるなら、フェミニズムに対するうさんくささも少しは解消されると思うよ」

これまで指摘した細部の問題点を括弧にくくって好意的に解釈すれば、「フェミニズムがうさんくさいと思われている現状に対して、もっと効果的なパフォーマンスを」とも読めなくはないのですが、それでも「フェミニズムが実際に誤った→うさんくさいと大勢が考えるようになった→それに対する、私が支持する正当な批判がある→それに正等に批判を返したり反省すれば解消されるだろう」というような朴訥なコミュニケーションモデルはどうか思います。そこにはあたかもフェミニズムという単一の主体や思想があるかのごとき誤解があり、また、あたかもその単一の主体は自分が立脚する基盤からこそ俯瞰・是正できるのだと宣言するかのごときポージングはある種の傲慢さすら感じますし(数学屋のメガネさんの立ち位置も不明瞭でメタゲームにも見えます)、なぜフェミニストばかりがメディアイメージの浮遊や「極論」に対して責任を取らなくてはいけないのかという素朴な疑問も生じます。個人的には、フェミニストの方でそういう責任を担うような人がいれば心強いとは思いますけれども、別の立場の人、それこそ数学屋のメガネさんがそれを担っても構わないわけで、それをせずに何を担っているのか不透明な数学屋さんのポジション取りの微妙さについても違和を表明させていただきます。

*1:ちなみに私が「ジェンダーフリー」という言葉を「推進」したり「支持」したりしないのは、絵本のサイトに書かれている「そんなジェンダーバイアスをもっている自分に気づき」というフレーズのように、制度の問題ではなく内面の問題に還元するような論法に批判的だというのが一点あります。他にも理由はありますが、いずれ「ジェンダーフリーへの正当な批判特集」を組む予定ですので、後日改めて触れさせていただきますね。