スラップスティックをめぐるスラップスティック?

先日、「経済学がこの世から消えたら…」というサイトを「これは面白いストーリーです。ちょっぴり勉強にも?」と紹介したら、徳保隆夫さんに「敵の土俵に乗る:内輪向けジョークで辻説法」というエントリーで「トンでも本を読んで「勉強になるなあ」といってるのと大差ない。変な主張に気付けるかどうかは、アタマの良し悪しよりも、知識に負う部分が大きいのだと思う」と叱られてしまいました。その後、いくつかのサイトでこのまとめサイトについて議論があったようです。コメント欄には、田中秀臣(韓リフ)さんや山形浩生さんらも登場。



「よくわかんないなあ@svnseeds’ ghoti!」
「人権擁護法反対論批判と「経済学がこの世から消えたら…」@bewaad institute」
「経済学がこの世から消えたら・・・<保存用>@Irregular Economist」
「経済学が死んだ日@霞が関官僚日記2.0」



私は経済学にはさっぱり明るくありませんが、私自身はまとめスレを「良質なシミュレーション」としてというより「良質なスラップスティック」として読みました。実際の楽屋裏を知らなくても楽屋オチで笑えるようなノリがあるのと同様、経済学を知らなくてもジョークとして十分楽しめたと思います。筒井康隆の作品――例えば『大いなる助走』、『日本以外全部沈没』あたりとか――みたいに、「ありえねー(笑)」とか言いながら、しかしその誇張による風刺が時折リアリティをもつんじゃないか、とか考えてみる素振りを楽しんでみたりと。



徳保隆夫さんはあのまとめスレを「分かっている人」向けの「内輪ジョーク」としているのですが、この場合の「分っている人/分からない人」の区分けポイントは「経済学が分かる人/経済学が分からない人」ではなく、既に指摘されているようにむしろ「ジョークが分かる人/分からない人」だと思うんですよね。経済学を知らない=誤解をする、というわけではなく、経済学を知っていようがいまいが、コンテクストを履き違えたり脱文脈化をすると見当違いのことを言ってしまいかねないという点で変わらない。「映画化希望」とか「アニメ化希望」とか言っている人も多分ジョークで言っていて、そう書いたからと言ってベタな形でアニメにする人なんていないと思いますし、いた場合で問題があった場合にはその人を批判すればいいのではないかなぁと思います。



もちろん徳保さんが懸念するように、どのようなテクストにも誤読や誤配の可能性はあり、あのまとめスレだってベタにシミュレーションとして受け取る人がいるかもしれません。ただ、2ちゃんのまとめというコンテクストや文体だけでも、一般にコンテクストの解説としては十分だと思いますし、可能性はあっても蓋然性は低いように思っています。思いつく限り最悪の形の誤読を憂い、その誤読の可能性があるから○○はダメだ、あるいは誤配を食い止めようと最善の努力をしなかった××はダメだ、というスタイルは妥当なのかという点も気になります。



「ネタ/ベタ」という文脈で言えば、最近頻繁に話題になっているweb上でのバッシングのスタイルのように、A対Bという二項図式が強固にある中でネタとして非Aを掲げることがBを利するということは往々にしてありますし、AとBがまったく違うコンテクストに置かれていることが忘却され、ネタがベタとして翻訳されてBに伝わることを嘲笑するということがある種の暴力を肯定することがあるので懸念していますが、今回の場合、ネタがベタに転化された際に捨象されてしまう相手というのが誰なのかがちょっと分からない。そもそも、あのまとめを読んで「経済学がなくなったらこんなことになってしまうのか!」と本気で恐れてしまう人は、どんなに但し書きをつけてもムリなのではないかと思いますし、恋人同士が(今回はジョークで、ということが前提の上で)想像世界を作り上げている場面を目撃してしまったなら、その場はうつむいて気まずくやり過ごしたうえで後で友人に愚痴るとかがいいんじゃないかなと思います。その恋人同士に説法を始めるのはさすがにまずいのではないかと。



筒井といえば、大学で『文学部唯野教授』を導入テクストにしている授業もあったりするわけで、誤解を招くようなジョークから入って経済学自体に興味を持たせ(持ち)、次に「どこがジョークだったか」という楽屋を知っていくというルートで勉強をさせる(する)人だっているので、「誤解=ダメ」というわけでもないのではないかと思っています。以上、野暮な返信すみません。