こういうご都合主義はちょっとイヤなのだ。

たまにはエントリーでぼやいてみる。例の世界日報から「県側は過激図書を排除」という記事が出ていて、これに対してフェミニズムに反感を持っている一部の人がはしゃいでいたりする(参考)。記事の内容は、福井県生活学習館からフェミニズムに関連しそうな150冊の本が撤去されたというもの。これってどうなんだろう、というのが素朴な感想。この場合の「これ」とは、福井県生活学習館から特定の本が排除されるという事件そのものよりは、むしろそれを是とする論法の方だ。


chikiは、そもそもある種の差別が、特定の思想や立場や人物などに対しては例外的に容認されるかのようなムード自体に反対で、そのようにご都合主義的に振舞うことは極力禁欲したいと思っているし、そのようなスタンスを取る発言者からはできるだけ距離をとるようにしている。今回の話にひきつければ、例えば「焚書」の対象が仮につくる会の本であろうと石原慎太郎の本であろうと左翼の本だろうと創価学会の本だろうと、端的に焚書焚書だと認識すると思う。そして――政治パフォーマンスや芸術パフォーマンスなどとしての「焚書」行為はそれはそれで表現の自由として認められるけれど――公共圏からの排除という意味でのメタファーとしての「焚書」には、少なくとも「表現の自由」という議論フレームにおいては基本的に賛成できない。こういうスタンスはこのブログにおいて、例えば以前国分寺市の件が問題になった際や、教育基本法で「不当な支配」が問題になったときも必ずといっていいほど但し書きしてきたことだった。



例えば以前、「つくる会」の本が図書館から撤去された際、最高裁で違法だという判決が出されました(参考:「酔夢ing Voice - 西村幸祐 -: 最高裁がギリギリのところで守った、言論の自由」)。法手続き自体を追っていないので判決自体が妥当かはここでは述べられないけれど、この法理念には基本的に賛成できる。また、社団法人日本図書館協会の提示した「船橋市西図書館蔵書廃棄事件裁判の最高裁判決にあたって」という声明文も妥当なものだと思う。なぜならこの判決は、パブリックの場においては、規則を共有しない他者の存在との共生をある程度の原則として認めるべし、というスタンスをとっているように思えるからだ。そしてこれらは、今回の件にも代入可能なロジックだと思う。



「学習館」は図書館ではなさそうだから微妙ではあるけれど、パブリックスペースであるということにはそれほど異論がでないと思う。だからここで問われるべきは、やはり「パブリック」の性質を問う問題のはずだ。そこで一番イヤなのは、と同時に問いの立て方として間違いだと思うのは、「右支持だから今回は民主主義的な良識的判断/左支持だから今回は許されざるファシズム」みたいなご都合主義と、それによって生じる擬似的な対立図式。例えば今回はしゃいでいる世界日報とその一部読者が、同様に「学習館で世界日報を購入しろという市民の要求があったが、断った」というニュースがあったら、「許されざる言論弾圧!」という形でフレームアップするだろう。



もちろん、人は常にダブルスタンダードを内包しているし、矛盾も副作用も含まない純粋な論理というものは存在しない。それどころか、象徴空間においてイデオロギーのパワーゲームを行うこと自体は、社会を構成する重要なファクターで、社会もそのことを織り込み済みで動いていることは大前提として理解していて、倫理の位相でもその矛盾自体は肯定されるようにすら思う。ただ、それでも私はその手のご都合主義に対して、常に違和感というか批判を唱える立場にコミットしたがると思う。修飾語のポリティクスとでもいうような、ラベリングの応酬はどうも好きになれない。



でも、そういうレトリックを避けて議論に参加するとき、例えば「他者との共生」という性質をパブリックな場に確保するべし、とする価値を選択する立場からの倫理的な批判というよりは、「その場合の合理性って実は限定的な合理性だよね」と、論者の言説と実践との乖離、あるいは論者の言説と効果との乖離がもたらすシニカルな論理的帰着について指摘するいうスタイルを選ぶように今はしている。これはもちろん、実存と欲求、欲求と欲望、欲望と表出、表出と表現、表現と効果、効果と反応との間にはそれぞれ乖離があることを嘆き、それらを一貫させるべしと主張しているのではまったくない(例えばテクスト論やメディア論にとってその乖離はあくまで端的な前提条件で、批判対象でも擁護対象でもなかったかと)。そうではなく、例えば今回の事件を是とする人が、仮にそのことで「民主的」な社会が実現すると思っているのであれば、論理的に考えてそうはならないどころか、翻ってそのダブルスタンダードな振る舞いがトライブ内外の虚偽意識を深めていき、その結果にある種の非倫理的振る舞いが正当化されることがイヤなんだと思う。



他にもいくつか理由があるけれど、そんなこんなで「こういうご都合主義はもうイヤだ」と自戒をこめて思う次第。以上、成城ボヤッキーでした。



追記:上述サイト(世界日報の関係者さんが運営しているサイト)にTBを送ったところ、「これは嬉しいニュースです!」などのコメントを削除するなど、一部内容を改変された模様です。批判を受け入れていただけたということかもしれませんが、削除後にこのエントリーを読んだ方には文脈が分からなくなってしまう可能性があるので、以下に保存しておきます。



【変更前】






【変更後】