「俗流○○論」批判と包摂のメディア

サイゾー』の今月号に掲載されている「M2」に、内藤朝雄さん、後藤和智さん(NGコンビ、とか略すのかな)がゲストとして参加しています。内藤さんも後藤さんも、「俗流若者論」の間違いを徹底的に批判してきた方。それに対し、宮崎哲弥さんが内藤さんのディスクールを「非常に強迫的」とたしなめつつ「それで何をやりたいのかな」と問い、宮台真司さんが「『お前は間違っている』と否定するのではなく、「わかるよ」と寄り添いつつ説得する」「排他的人間をも包摂する原理」という処方箋をもって「動機付けに勝つ」ための回路を開けないかと提案しています(参照)。


もちろん「排他的人間をも包括する原理」を徹底することは一筋縄ではいかず、過剰とも思えるエネルギーが必要です。また、宮崎さんも「そもそも社会というのは『不透明なもの』『得体の知れないもの』『おぞましきもの』……すなわちアブジェクトなものを排除する空間であることを前提としないといけない。それどころか、まさにそのアブジェクションによって社会という場は成り立っているとすらいえるわけでしょう」と述べている通り、排他的人間はいなくならないし、排他的人間を排除することは本末転倒であったりもする。


突然こんな話から入りましたけれど、これはid:annntonioさんの「教育基本法「改正」反対―「投票にいこう!」と脱線(?)させていく」というエントリーへのお返事です。id:annntonioさんは、「教育基本法」の問題を皮切りに、インターネット上での言説展開のあり方を検討しようとしています。そして、TBでいただいたid:annntonioさんの問いかけは、上記の座談会に流れていたような緊張感を踏まえつつ、いかにして効果的なパフォーマンスと誘因的なリベラルネットワークを構築すべきか、という話として理解しています。


さて、まず前提として、「「新教育基本法案」へのツッコミ本番」というエントリーを熟読してくれるような人(およびBLOGでこの手の議論を熟読する人)は、この問題に対して元々関心の高い人などに限られてきます。私自身もそのことを意識していたので、開き直って元々関心の高い人に向けて作りました*1。一つは関心の高い人同士の「繋がり」を確保するため、もう一つは「関心の高い人」が方々で(時には改正賛成派と)議論をするための参照項、論理倉庫にしていただくため。そこで当然、次のステップとしてid:annntonioさんの指摘する「もう一工夫」を別途作る必要があります。


ここでいう「もう一工夫」とは、櫻井よしこ的なものを支持する層を視野に含めた議論展開のことですね*2。そしてその「もう一工夫」においては、俗情やポピュリズムに対して開かれたもの、誰しもがイージーにコミットできるような手法が重要になる。また、通時的な怨恨の蓄積を残さないような語りのステラトジー、および共時的な「反(アンチ)」の祭を誘引しないような、諸トライブへの配慮が必要になる。これが先ほどいった「効果的なパフォーマンスと誘因的なリベラルネットワーク」に求められる条件です。


この条件について考えるため、いくつかの例をとりあげてみます。例えば最近「日本で「犯罪の高齢化」 米紙、社会問題と報道」という記事がありましたが、とある「俗流オタク論」検証系の掲示板でこの記事が紹介され、「ほらみたことか!」と、団塊の世代への逆襲的な罵倒が展開されていて、若者/中年という表面的な対立を強化してしまっています。「高齢者の方がキレやすい」というのは、「反社会学講座 第2回キレやすいのは誰だ」でもアイロニーとして展開されていたように思いますが、このような反応はおそらくそれとは似て非なるものです。


例えば「バックラッシュ」という現象は通時的な怨恨をディスクールとして(選択)表出しており、それに対して「誤解だ」と述べることは(あるいはまとめサイトを作ることは)、議論のステージを分化することには多少の影響を持ちますが、世代的格差や自明性の変化に基づく不満のリソース自体は残ります。また、「俗流若者論」を批判するような言説自体が(ジェンダーフリーの問題に限定的な用法ではない意味での)「バックラッシュ」である可能性、そして新たな「バックラッシュ」を生む可能性があることは注意しなくてはいけない。


例えば「M2」でも話題になっていた「ジェンフリ・フォビア」(「バックラッシュ」と便宜的に差異化してみます)に対して「ルサンチマンワロス」とか「許されざるミソジニー」という形で批判をしたとしても、さらなる燃料を投下してしまう。もちろん、既に「論破」自体が自己目的化している人に対しては何をしても無効かもしれないが、それでも効果の高低はあるでしょう。


例えば「ゲーム脳」「フィギア萌え族」批判のような運動がインターネット上で盛り上がったとして、それでも現実でゲーム等を規制しようとしている流れに対して具体的にどのような影響を与えられているのかは測定不能。「抵抗」という形は時に可視化しにくく、また、これらに「抵抗」している人が、別のところでは「ジェンフリ・フォビア」だったりして、回りまわって自分の首をしめたりもする。


翻って「教育基本法」の問題でもそうですが、こういったものに特効薬のようなものは存在せず、基本的には「陣地戦」的に個人同士が行っていくしかないというようにも思っています。しかし一方でもう少しマシなアーキテクチャのようなものを作ることは必要かもしれないとも思っています。次回の選挙、あるいは近い将来においてインターネットを利用した選挙運動も行われるようになるとして、それに向けて「MoveOn.org」的なものを作るとか*3、もう少し太めのハブサイトを作っていくとか*4、多少便利な取っ掛かりがあることで風通しが変わることもあるでしょう。可能であれば、それらはカスケードを強化するようなものではなく、「『お前は間違っている』と否定するのではなく、「わかるよ」と寄り添いつつ説得する」「排他的人間をも包摂する原理」ものであれば望ましいのですが。


というわけで、そういうものを準備しようかって話ならノリます>id:annntonioさん。準備段階だけならMLやSNSはてなリングなどを利用するのもアリだと思いますが、どうでしょう。とりあえず、じっくり考えましょう。

*1:最近のトラカレは、ちょっとそういう傾向が出てしまっている気がします。

*2:櫻井さんの言説を読む人は、まだ「高級」な部類に含まれるとは思いますが。櫻井さんはジャーナリストとしてすばらしい仕事もしていますし。なお、櫻井さんの法理解については、以前「「憲法改正」について考えるためのメモ」でも批判的に触れました。

*3:この辺はid:macskaさんが詳しいです。

*4:ハブについてはここここここここの議論が分かりやすいです。最後のところでトラカレがあがっていますが、果たして…。