「教育基本法」について知るためのメモ/「新教育基本法案」へのツッコミまとめ。

昨日の朝、「現行教育基本法と「新教育基本法案」の比較」を作ってみました。せっかくなので、以下に同法案へのブロガーやネチズンの皆さんのツッコミをまとめてみます。目標は、とりあえず短期間で各条文への批判をまとめ、論点を整理することと、「基本法」の性格についての議論を再確認&再検討することでしょか。そうすれば今回の法案について考えるのみならず、いろいろと応用可能だし。


というわけでツッコミスト大歓迎。「ツッコミしてみました!」という方は、TBをいただければ見逃さずに紹介できると思いますので、このエントリーにTBをバシバシ送ってくださいませ。コメント欄も、もうちょっと開放継続。特に、法律に明るい人のご意見をお待ちしております。



基本法」への無理解へのツッコミ

法律を「国家に属する国民の守るべきルール」を定めたもの、憲法を「国民に責任を負う国家の守るべきルール」を定めたもの、という「立憲主義」を採用している日本では、教育基本法は設立経緯や条文内容からも憲法と一体性をもっており、憲法に準ずる「準憲法」と考えられています。法律には珍しく「前文」を配しているのも、教育基本法が何よりも憲法の理念に基づいていること、憲法の理念を実現する役割を期待されていることを伺わせます。
「教育基本法「改正」の問題点って?@あんころ」

諸説あるなかで、教育基本法が「国家権力を拘束するための法律」であることは、学者の多くの支持を得られる説と思います。この「国家権力拘束説」は、例えば憲法に典型ですが「公法」の性格としてまずおさえなくてはならないこととなります。(…)
教育基本法も「公法」の一つとされます。ですから、国家権力が不当な権力行使を教育に関してしてはならず、それをチェックするというのが現行教育基本法の目的のひとつです(ですから、教基法第10条はとっても大事であり、改正したい人たちには真っ先にぶっ飛ばしたい条文なのです。)。
「教育基本法「改正」反対ー「公民教育」は、問題では?@ONO-Masa Home Page (はてな出張所)」id:annntonioさん)

憲法は国民が守るべき法ではありません。国民が国家に守らせるべき法です。国家が国民の人権を不当に侵害してトンデモナイことをやらかさないように、予め歯止めをかけておくのです。 つまり、憲法は国家権力に歯止めをかけて、個人の人権を保障するものです。そして、ここでいう国家権力は、民主主義の国であれば、国民の多数派によって創り出されたものです。したがって、国民の多数派に歯止めをかけて、少数派の人権を保障することが憲法の目的だということになります。 (…)
国家権力が多数意思を背景に、特定の宗教を押しつけようとしてきたり、愛国心という言葉で特定の価値観を押しつけようとしてきたときに、本当に自分の心に忠実な人は、その多数決に従うことができません。そして、その「民主的」な決定に異議を唱えるために、その決定を強制する共同体から離脱するか、その共同体を破壊するしかなくなります。それでは社会が成り立ちません。 ですから、こうした分野の問題にはそもそも国は口をださないと決めておく必要があるのです。政府が靖国神社を特別扱いしたり、教育基本法などで愛国心を強制したりすることは、単に憲法を無視した態度として許せないだけでなく、多様な価値観の併存を認める社会そのものの破壊につながってしまうのです。ましてや憲法で国民に愛国心を強いたりすることは、社会の自滅行為です。
「立憲主義ってなんだろう@伊藤真のけんぽう手習い塾」伊藤真さん)

現代の立憲主義の国家において、公教育に課せられた役割は、伝統を尊重する個人の育成でもなければ伝統文化を受け継ぐ国民の育成でもない。そのような価値観がいかに主観的には大切にされても、それは立憲民主制における市民の資質として必要な条件ではないのである。
端的にいって、公教育は、きわめて政治的Constitutionalな目的によって正当化されるものである。すなわち、公教育という国民に対する強制力は、近代立憲民主制に適合的な社会秩序の持続可能性を担保し、発展させる目的以外には正当化されえないのである。
「教育基本法改正促進委員会による「新教育基本法案」のだめなところ@+ C amp 4 +」id:swan_slabさん)

そもそも、「(憲法の)理想の実現は、根本において教育の力にまつ」とし、「憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立する」として制定された教育基本法は、憲法が保障する教育への権利を実現するために定められた教育法規の根本法であり、準憲法的な性格を持つ法律であるとされているものであって、その「改正」の在り方は憲法の理念と基本原理にも影響を与えかねない重大なものである。
また、これからの時代にふさわしい教育の在り方を考えるにおいては、憲法だけではなく、わが国が批准した国際条約、特に、子どもの権利条約国際人権規約との整合性をも確保する必要がある。
「国会内に教育基本法調査会の設置を求める提言@日本弁護士連合会」(日本弁護士連合会会長、梶谷剛さん)

これまで「基本法」の位置づけをなかなか把握できませんでしたが、「準憲法」「公法」という位置づけだったんですね。なるほど。基本法は関連法の基本理念を定めた法であり、「基本法」と名の付く法律は議員立法であることが多いものの、それは民主主義的手続きに基づいた、権力の範囲を規定・管理するためにおこなわれるべきものということになるでしょうか。ということは、「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならない(3条)」「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである(10条)」という言葉に顕著なように、国民から国家(統治権力)への命令であると理解できる。ここら辺は、専門文献などで要確認ですね。



前文へのツッコミ

前文法案
人類社会は今、幾多の歴史的経験の中で、世界の平和と繁栄、自然と人類との共生社会の実現をめざしている。
我らは自他の敬愛と協力のもと、自然との調和、多様な文化の受容と共存を培ってきた我が国の誇りある文化を受け継ぎ発展させ、人類社会に貢献することが、崇高な使命であることを確信する。
我らは、この使命を果たすために、広い国際的視野を保持し、我が国の豊かな伝統と文化に立脚する新しい教育の意義を自覚しなければならない。
ここに、その使命の実現が、家庭、学校、社会、国家を通じた教育によるものと認識し、我が国の教育の新しい基本を確立するため、この法律を制定する。


立法意思にあたるのは特に「ここに、その使命の実現が、家庭、学校、社会、国家を通じた教育によるものと認識し、我が国の教育の新しい基本を確立するため、この法律を制定する」の部分でしょうか。特筆すべきは、現行法では「日本国憲法の精神に則り」と明記されていたのが削除され、新たに「家庭、学校、社会、国家を通じた教育」という文章が加えられていること。法案には、現行憲法からは違憲ではないかと思われる条文もあるのですが、その辺はやはり「改憲」とセットで考えられているのでしょうか。


「日本国民は、恒久の平和を念願し、(略)われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」云々という憲法前文の調子の高さ。これを嫌う人も多いがそういうひとたちはだいたい本気でもない理想主義を麗々しく掲げるじゃねえという反欺瞞主義者だと思っていた。ところが教育基本法改正派はそうじゃなくて別の理想主義者な訳ですね。ふむ。
「教育基本法改正反対@彎曲していく日常」id:noharraさん)

これでもかと美辞麗句をならべたててるが、要は国家を通じた教育によって「我が国の誇りある文化を受け継ぎ発展させ、人類社会に貢献する」人間をつくることが目標らしい。誇りある文化と急に言われても、漠然としててよくわかんないし、我が国の文化を発展させることが人類への貢献とイコールなのか?よくわからない。「伝統と文化の尊重、愛国心の涵養及び道徳性の育成を図る」というのも具体的なことがわからないとこがなんとも怪しい。ひょっとして、「伝統文化尊重法」や「愛国心涵養法」、「道徳育成法」なんかもあわせて作る気じゃなかろうか。
「春じゃのう@tsurezure-diary」(o-kojoさん)

家庭を法によって規定された教育の手段としている点も大胆。もちろん家庭でも教育は行われるが、それはあくまでも私的な教育であろう。教育基本法が規定するのは公教育のあり方のはずである。
「促進委員会案前文案@恐妻家の献立表−葦の原に穴掘って」id:t-hirosakaさん)


第一条 のツッコミ

(教育の目的)第一条
一 教育の目的は、各個人に内在する可能性と価値を開花させ、心豊かな個人を育成するとともに、共同体とのかかわりの中で人格を陶冶し、家庭、社会、国家、ひいては世界に貢献する日本人の育成を図ることにある。

二 この目的を達成するため、あらゆる段階において、伝統と文化の尊重、愛国心の涵養及び道徳性の育成を図るものとする。


「個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」などが削除され、「共同体とのかかわりの中で人格を陶冶し、家庭、社会、国家、ひいては世界に貢献する日本人の育成」「あらゆる段階において、伝統と文化の尊重、愛国心の涵養及び道徳性の育成」が加えられる。

育成されるのが「日本人」になっている点にも注意。これは民族のことか、国籍のことか、住民のことか。
「促進委員会案前文案@恐妻家の献立表−葦の原に穴掘って」id:t-hirosakaさん)

第一条は与党内部でも問題になる「愛国心の涵養」もあります。これは前項の(略)家庭、社会、国家、ひいては世界に貢献する日本人の育成を図ることにある。という部分と対応していそうですが、ならば地球や人類社会や地域社会や家族に対する愛のようなものを涵養する必要について言及しないのが不自然ではないでしょうか。
「教育基本法改正反対@持続可能なチャンネル」(ESDさん)

第二条 のツッコミ

(教育の方針)第二条 
一 教育は、あらゆる機会、あらゆる場所で行われなければならない。国民は、ひとしく教育の目的達成に努めるものとする。

二 国民は、教育の目的を達成するに当たり、その自由と権利が尊重され、国家の一員としての責任を自覚して社会的参加を果たし、文化の継承と発展に貢献するよう努めるものとする。

三 男女は、互いにその特性を生かし、相互に協力し合って家庭、社会、国家を共に担う責務があることを、教育上重視するものとする。


全体として、国民から統治権力への命令であるはずの基本法が、逆に統治権力から国民への命令になってます。特に、現行法第7条では「男女は、互いに敬重し、協力しあわなければならないものであって、教育上男女の共学は、認められなければならない」とあったが、共学の項目は削除。変わりに「特性」や「家庭、社会、国家を共に担う責務」が書かれている。「特性」だと思われている形で振舞ったり、結婚しなくてはいけないのかな。

第一条では教育の目的として「日本人」の育成が掲げられていたのに、この第二条の努力規定は「国民」に課せられているところも面白い。外国籍市民の排除と民族的出自の違う国民への同化教育がなされるだけだろうか。いかなる「日本人」像を基準にした排除と同化なのか。この法案では「日本人」が定義されていない以上、学習指導要領などの恣意的に決められるものへ任せてしまおうというのだろう。その日本人像は現実の日本人と一致するだろうか。「らしくない人」、文化的マイノリティーとの軋轢も増えるだろう。
「促進委員会案前文案第二条@恐妻家の献立表−葦の原に穴掘って」id:t-hirosakaさん)


例えば改憲を主張している方々が、同時に男女共同参画基本法の「恣意的解釈」を最大限に懸念・問題化していたことは興味深いのでお忘れなく。

もちろん男女は身体的に異なるものですから表面的にはごもっともと言えなくもないですが、昨今の与党政治家の発言を見るにこれはジェンダーの肯定と強化を狙ったものであることは疑いありません。つまり端的には男は仕事、女は家庭という価値観です。自由を阻害するこういう言説には私自身反対ですが、例えば(略)現在、就業意欲があるのにも関わらず、必ずしも十分にその能力を活用できていない女性や高齢者の就業を促進することが求められる。とする政府の報告@内閣府とも矛盾するのではないでしょうか。
「教育基本法改正反対@持続可能なチャンネル」(ESDさん)


憲法24条「両性の本質的平等」も削除しようって話があがってるしなぁ…。




第三条へのツッコミ

(教育の機会均等)第三条
一 すべて国民は、その能力に応じてひとしく教育の機会が与えられ、人種、信条、性別、身体上若しくは精神上の障害又は社会的身分によって、教育上差別されない。

二 国及び地方公共団体は、意欲と能力があるにもかかわらず、経済的理由によって就学困難な者への奨学の方法を講じなければならない。)


これは微妙な変化。但し、他の条文と読み合わせることで浮かび上がってくるものはありそうです。

機会均等の理念が現行法より後退していることを見ておく。(…)現行法の「ひとしく、その能力に応ずる」は、誰でも能力に応じた教育の機会が与えられる、という意味であるのに対して、改悪案の「その能力に応じてひとしく」は、教育の機会を与えられるのは能力に応じてである、という意味である。
「日本愚民化促進委員会案三、四、五、六条文案の検討@恐妻家の献立表−葦の原に穴掘って」id:t-hirosakaさん)



第四条へのツッコミ

生涯学習)第四条

一 国及び地方公共団体は、国民が生涯にわたってあまねく学習の機会を得ることが出来るよう、教育機会の整備拡充に努めるものとする。


「機会の整備拡充に努める」べしという、統治権力への命令になっています。但し、以下のような懸念も。

現行法の社会教育について定めた第7条との最も大きな違いは、図書館、博物館、公民館などのいわゆる社会教育施設についてばっさりカットされていることであろう。折しも、国立国会図書館の独立法人化が取り沙汰されているという。(…)これは火を使わない焚書である。本好きにとっては悪夢のような社会が教育基本法改悪によって生み出される不安がある。
「日本愚民化促進委員会案三、四、五、六条文案の検討@恐妻家の献立表−葦の原に穴掘って」id:t-hirosakaさん)


第五条へのツッコミ

(家庭教育) 第五条
一 教育の原点は家庭にあり、親は人生最初の教師であることを自覚し、自らが保護する子供を教育する第一義的責任を有する。

二 国及び地方公共団体は、家族の絆を育成及び強化し、家庭教育の充実を図るため適切な支援を行う責務を有する。


「親は人生最初の教師であることを自覚し」…おお、基本法なのに、国家に家庭や内面のありようを命令されちゃったよ。こりゃまいった。

家庭教育は公私の私の領域であって、法律で説教してどうするというものではないだろう。余計なお節介である。しかも、いったん法によって責任を課した以上、すべての家庭教育は国民教育の側面をもつことにならないか。家庭教育もまた国民教育の一環であり、親が子どもにとっての「人生最初の教師」たる責任があるというならばどうなるか。
「日本愚民化促進委員会案三、四、五、六条文案の検討@恐妻家の献立表−葦の原に穴掘って」id:t-hirosakaさん)


第六条へのツッコミ

(幼児教育)第六条 
一 幼児教育が生涯にわたる人間形成の基礎となる重要性にかんがみ、国及び地方公共団体は、その振興に努めるものとする。

二 国は、幼児の心身ともに健やかな発育を期し、幼児教育の大綱的基準を定める。

三 幼児教育は、家庭との緊密な連携を図り、これを助け、かつ補完するものでなければならない。


「幼児教育が生涯にわたる人間形成の基礎となる重要性」は、よく論争の焦点となる「三歳児神話」のアップグレードをはかるものでしょか。「国は、幼児の心身ともに健やかな発育を期し、幼児教育の大綱的基準を定める」って、国家が「健やか」だと判断する基準を作れってことで、これも厳しい。「幼児教育は、家庭との緊密な連携を図り、これを助け、かつ補完するものでなければならない」というのは、「男女共同参画基本計画」でも論点となった、「家庭教育がメインであるべし」という規範と関わってくるっぽい。

幼稚園教育要領の法的根拠を得たいがためでもあろうが、これによって幼児教育も国民教育のなかに位置づけられる。しかも「家庭との緊密な連携を図り」とある。これによって幼児期の家庭教育も国民教育の体系に組み込まれることになる。
「日本愚民化促進委員会案三、四、五、六条文案の検討@恐妻家の献立表−葦の原に穴掘って」id:t-hirosakaさん)


第七条へのツッコミ

(学校教育)第七条 
一 法律に定める学校における教育活動は、公の性質をもつ。

二 学校教育は、教育の目的を実現するための中心的な機能を有する。


それぞれの項目はOKっぽいのですが、「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない」が削除されていることは覚えておこう。これが、いわゆる「日教組つぶし」ってやつです。



第八条へのツッコミ

(学校・家庭・地域の連携と協力)第八条
一 国及び地方公共団体は学校、家庭及び地域社会が相互に緊密な連携と協力を図り、教育の目的達成と教育環境の整備を図るよう努めるものとする。


日本語がおかしくて分かりづらいけど、国や地方自治体は、「家庭+学校」と「地域社会」が協力するように仕向けましょうってことらしい。これはよくわからない。東京都の「奉仕」の授業みたいなのをやるようガンガレってことかな。



第九条へのツッコミ

(義務教育) 第九条
一 国は、義務教育に対する権限と責任を有する。

二 国民は、教育の目的を達成するため、その保護する子供に一定期間の普通教育を受けさせる義務を負う。

三 義務教育は、これを無償とする。


「国は、義務教育に対する権限と責任を有する」が加えられる。どのような権限かは、他の条例と対応させて考える必要があるので要注意。



第十条へのツッコミ

(初等中等教育)第十条
一 国は、初等中等教育について全国的に一定水準を確保する責務を有し、内容その他の基本的な事項を定めるとともに、その達成状況の評価を行う。

二 地方公共団体は、国の定めた初等中等教育に関する施策を確実に遂行するものとし、更に地域の特性に応じ、独自の基準の制定その他の独自の施策を立案実行することができる。


「国は…内容その他の基本的な事項を定めるとともに、その達成状況の評価を行う」…達成状況の評価? 「国が全国民の愛国心を一定水準に確保するための基本的なことを決めたうえで、達成状況もチェックするよ」ってことかな。現行10条が消されるので、それは不当な圧力ではないとされるのか。




第十一条へのツッコミ

(高等教育)第十一条
一 高等教育は、高度で専門的な知識を備えた人材の育成を図るとともに、真理の探究を通じて、新たな知見を生み出し、学術の進展や我が国及び国際社会の発展に貢献することを期して行われなければならない。

「我が国及び国際社会の発展に貢献することを期して行われなければならない」…国に貢献しないかもしれない個人の育成はアウトってことなのかなぁ、やっぱ。


これはむしろ揚げ足取りに属するものですが、高等教育機関への進学率が四割を超す現状を考えれば、高度で専門的な知識を備えた人材の育成を図るという目的はもはや古いのではないかと思ったりします。まあ建前上はこう書かざるを得ないのかもしれませんけれども。
「教育基本法改正反対@持続可能なチャンネル」(ESDさん)


第十二条 のツッコミ

(私学振興) 第十二条
一 国及び地方公共団体は、公教育の一翼を担う私立学校の重要性にかんがみ、その振興に努めるものとする。

二 私立学校の建学の精神及びその多様性と自主性は尊重されなければならない。


私立は大事にされるらしい。なぜだ。


十三条へのツッコミ

(教員)第十三条 
一 法律に定める学校の教員は、法令に従い、教育の崇高な使命を自覚して教員としての資質と能力の向上を図り、専門性を高め、その職責を遂行して教育の目的達成に努めるものとする。

二 国及び地方公共団体は、教員の身分を尊重し、その待遇の適正を図らなければならない。

三 初等中等教育に携わる教員は、教育活動の全ての領域について、適切な指導と評価を受けるものとする。


10条の「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」が削除されることと合わせると、これは重大な変化です。

教員は法令に従わなければならないそうです。これは明らかに、国旗国歌問題への法的根拠となることを目指しています。法律と良心が相対したときに法律を優先しなければならないというのはエンパワーメントを重視する教育学の潮流に反対するものではないでしょうか。この例に限らず日本の教育行政が教育学を軽視ないしは無視し政治的な駆け引きで決められているというのは、教育学の専門家などからよく聞くところです。現行法第十条の教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。の方が優れています。
「教育基本法改正反対@持続可能なチャンネル」(ESDさん)


第十五条へのツッコミ

(公民教育)第十五条
一 公民教育は、国民が社会における自己の責任を自覚し、国家社会の発展に積極的役割を担うことを目的として行われなければならない。

二 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。


「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない」が削除され、かわりに「国民が社会における自己の責任を自覚し、国家社会の発展に積極的役割を担うことを目的として行われなければならない」が加えられる。これって、今の基本法と正反対の意味になりますよね。なぜって、前者は、公民であるがゆえに公をダメにする統治権力を見極める能力をわれわれに与えるべし、統治権力が暴走したときにそれを見極めるリテラシーを身につけさせるべしってことだけれど、後者は「公民」と名づけられてはいるものの、その意味合いは弱まり、むしろ「国」における積極的役割を担う方向にいくから。「公民=国民」とされてしまっている。この場合の「社会」=「国家社会」をなんと解釈するかで、結構ラディカルな暴走も許容することになる。

第一項をこのように替えた場合、政治的な教養を身につける意味が180度転換するのではないか、という危惧をワタシは抱きます。この180度の転換の端的な表現が、現行法第八条の表題である「政治教育」を「公民教育」と変えようとするところに見られるかもしれません。
 上記条文の第一項は「公民教育は…国家社会の発展に積極的役割を担うことを目的」と定めています。これは公民教育の目的を設定していると思われるのですが、その設定は、むしろ限定と表現する方が妥当と思います。つまり公民教育の目的は、「国家社会の発展のため」に限定されているわけです。
「教育基本法「改正」反対ー「公民教育」は、問題では?@ONO-Masa Home Page (はてな出張所)」id:annntonioさん)

第十六条へのツッコミ

(宗教に関する教育) 第十六条
一 宗教に関する教育は、宗教への理解と寛容の態度を養うことが重視されなければならない。

二 宗教的情操の涵養は、道徳の根底を支え人格形成の基盤となるものであることにかんがみ、教育上特に重視するものとする。

三 国及び地方公共団体が設置する学校においては、特定宗教の信仰に導き、又はこれに反対するための教育を行ってはならない。


宗教に関する教育は、「尊重されなければならない」から、「理解と寛容の態度を養うことが重視されなければならない」に変更。そして「宗教的情操の涵養は、道徳の根底を支え人格形成の基盤となるものであることにかんがみ、教育上特に重視するものとする。」が加わる。宗教教育に対する寛容から、「宗教を理解するよう特に力を入れる」ってことになるかな。


一項の書き方が現行法と変わっているのはおそらく二項を入れるためで、現行法では教育上尊重することになっている事がいつの間にか「宗教に関する教育」となっていて、半ば宗教に関する教育を義務づけているように見えます。。三項で又はこれ(註:特定宗教の信仰)に反対するための教育を行ってはならない。としているのは、善意で解釈すれば「アルカイダがいるからといってイスラム教を敵視してはならない」ということに繋がるのでしょうが、若干の悪意をもてば「公明党創価学会のつながりが強いのは政教分離に違反するのではないか」などというような事を言わせないための措置ではないかという気もします。
「教育基本法改正反対@持続可能なチャンネル」(ESDさん)


公明党にも当てはまるけれど、自民党が猛プッシュしていたことを考えると、むしろ神道系への配慮なのかな、と。「信仰への理解」はOKだけど、特定信仰のインストールとは区分けされないといけません。そしてそれは明記されていないといけない。

宗教への理解と寛容について、従来は「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」と書いている。すなわち、寛容の態度が求められるのは、教育者であり教育機関の側である。これに対して、提案では教育を受ける側こそが求められるように読める。アベコベではないのか?
そしてより重要な点として、宗教的なものだけに選択的に寛容であることはできないし、できるのならば、有害である。私たちが持つべきは、この提案が削除したところの「真理と正義」への態度である。(…)
第二項。端的にこんなことを言える根拠はない。宗教的情操の涵養が道徳の根底を支えることもあれば破壊することもあるし、また宗教的情操以外の何か1が支えることもある。不十分であり、間違いでもあり、完全に蛇足である。削除すべき。
「愚民化基本法原案の批判+十六条&十七条批判@モジモジ君の日記。みたいな。」id:mojimojiさん)


なお、id:mojimojiさんの「もっとも恐ろしいものは、リヴァイアサンであることを忘れられた国家である。もっとも恥知らずなものは、国民にリヴァイアサンであることを忘れさせようとする国家である。今まさに、国家はその本来の姿を隠し、違うものとして我々に理解させようとしているのであるし、我々の社会はそれにうまうまと乗ろうとしているのである」という指摘は、「統治権力への国民的命令」たる憲法基本法の前提にある基本事項として覚えておくといいと思う。「愛国心」が争点になっている議論の多くがばかばかしいのは、愛するor愛さない、という議論を「ノリやフィーリング」で行っている一方、国家=大きな権力を持つ<怪物>が暴走する可能性をあらかじめ計算し歯止めをかけておく、という憲法基本法の役割を無視していること。




第十七条 のツッコミ

(環境教育) 第十七条
一 地球環境を保全するため、あらゆる段階において、自然を尊び、自然との共生や一体感をはぐくむ教育を重視するものとする。


共生はいいとして、「一体感」ってなんだ。いつのミュージシャンだ。今回の法案に頻出する「あらゆる段階」という言葉は、社会学者、内藤朝雄の「全体主義とは、教育が社会を埋め尽くす事態をいうのではないでしょうか」という言葉を思い出させます。

宗教教育については現行法ではこれを行うことを強制しているものでもなくまた憲法第二十条で信教の自由を謳っていることに根拠があると考えられますが、環境についてそこまでの根拠があるとは考えにくく、環境教育屋にこの法案に賛成させるためのエサなのではないかという感じがします。根拠となるとすれば環境基本法第二十五条でしょうが、それでこんな条文ができるならば逆に国に教育の推進を義務づけている全ての基本法消費者基本法知的財産基本法など)についての条文が必要になるように思われます。(…)
「自然を尊び、自然との共生や一体感をはぐくむ教育」とされていますが、どうにも環境教育というと自然教育を行えば事足りるという認識が広く行き渡っているようで残念です。
「教育基本法改正反対@持続可能なチャンネル」(ESDさん)

既に書いたように、私たちは真理と正義に忠実であればよいのであり、私たちが共に生きる可能性が、自然を破壊することにのみあるのであれば、自然を敵として破壊する可能性に、ちゃんと開いておかねばならない。環境保護の思想は、批判可能なものとして提示され、批判への応答を通じてその正しさを周囲に理解させていくものでなくてはならない。いきなり「自然を尊ぶこと」や「自然との共生」なんかを教条的に叩き込むことの、何が教育か
「愚民化基本法原案の批判+十六条&十七条批判@モジモジ君の日記。みたいな。」id:mojimojiさん)


第十八条 のツッコミ

(国及び地方公共団体の役割分担)第十八条
一 国は、教育の機会均等と教育水準の維持向上が図られるよう、地方公共団体との適切な役割分担を行い、これを監督する権限を有する。

二 地方公共団体は、国との緊密な連携を図り、区域内の教育に関する施策を策定し、これを実施する権限と責任を有する。


今回の法案に顕著なのは、「国」の権力が、明文化されないままに拡大だけはされている、ということ。特に「地方」や「家庭」への介入の権力を持たされているという点にある。このことと、十九条から「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」が削除されたことと合わせると、発動の仕方が理解しやすいでしょう。

(教育振興基本計画)第十九条
一 国は教育の目的を達成するため、総合的な基本計画を定めるとともに、それを実施する責務を有する。

二 国は、毎年、基本計画について達成状況その他の必要な事項を国会に報告しなければならない。


「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」の削除に加え、「達成状況その他の必要な事項を国会に報告」が加わる。「国」が「国会」に報告って…「国」って誰でしょうか。もし議員のことであれば、「報告」とかいって、例えば「行き過ぎたジェンダーフリー教育が蔓延」とかいうホラを吹く人がいたんだから、権力を与えすぎると暴走するように思う。


まだ増やすかもしれません。このエントリーで批判されている法案が直接使われることはないでしょうが、このような案を「削りしろ」にしつつ「本番」に備える可能性は大きいので、「いつか使うため」の論理倉庫のようなもの、練習問題のようなものとして役立てばいいと思います。






おまけ
ところで、教育基本法「改悪」に反対するためとして作られたバナーに、以下のようなものがある。







この写真、どこかで見たなー、と思っていたら、よりによってこれだった。













またYoshiかよ!



縁ありすぎ。



※コメント欄の指摘を受けて、バナーが変更されたようです。






「『愛』を押し付けてこない日本が好きでした」ってコピー、いいね。右派/左派は擬似的な対立で、ことの本質は「国民が、統治権力の暴走を考慮し、憲法基本法を歯止めとして有効に機能する形で計画するにはどのようにすればよいか」ですからね(参照)。




おまけ2
いろんな口実がこれまでありました。

「長崎・佐世保で安倍氏講演、教育基本法改正の必要性強調 」
自民党安倍晋三幹事長は1日、小学6年の女子児童が同級生に切りつけられて死亡した事件が起きた長崎県佐世保市での講演で「大変残念な事件があった。大切なのは教育だ。子供たちに命の大切さを教え、私たちが生まれたこの国、この郷土のすばらしさを教えてゆくことが大切だ」と述べた。そのうえで教育基本法改正の必要性を強調し、党として7月の参院選までに改正案の中間報告をまとめて発表する考えを示した。
朝日新聞)2004.6.1

「教育基本法改正 武部氏「目指す」」
 自民党武部勤幹事長は十五日、大阪市内で開かれた同党衆院議員の会合であいさつし、耐震強度偽装などを例に「日本は精神的に非常に退廃してしまったと言って過言ではない。教育を見直さなければならず、教育基本法改正も今国会でと思っている」と述べ、二十日召集の通常国会教育基本法の改正を目指す考えを強調した。
産経新聞) - 06.1.16日

「安倍官房長官:ライブドア事件は「教育が悪いからだ」」
「<安倍官房長官ライブドア事件は「教育が悪いからだ」」
 「ライブドア事件の原因は規制緩和と言われるが、教育が悪いからだ。教育は大事で、教育基本法改正案も出したい」と述べ、同方改正案の今国会成立に意欲を示した。
毎日新聞)06.2.17

「教育基本法改正に意欲 文科相、ニート会議で」
小坂憲次文部科学相は25日、大阪府枚方市で開いたタウンミーティングニート問題を考える」で、教育基本法改正問題について「中央教育審議会中教審)の答申では、職業教育の充実という観点も入っている。今国会での改正を実現したい」と述べ、あらためて今国会での改正に意欲を示した。
共同通信) - 06.2.25

「草莽崛起 ーPRIDE OF JAPAN」(保守派地方議員のBLOGより)
戦後わが国は、科学技術の発達や経済の高度成長などにより、物質的、経済的には豊かになり便利になったが、精神面では必ずしもそれに呼応した展開がなされず、人心の荒廃を嘆く声も少なくない。その結果、「いのちの尊厳」が軽んじられ、他者への「思いやり」が失なわれ、さらには、凶悪犯罪、青少年問題などの増加、また政治倫理や経済倫理の低下など、多くの社会問題が眼前にある。


なんでも教育が悪い、というのは、教育万能観が背後にあるような気がする。あと、「教育がダメだ→基本法を直せば何とかなる」図式が多いですね。



愛国心の根拠/与党合意を受けて

愛国心イコール戦前の教育」との考え方は共産、社民両党も主張している。民主党内にも、旧社会党系議員を中心に同様の意見が根強い。だが、愛国心を教えることを否定的にとらえる国など、日本以外にない。(…)青少年の心の荒廃や犯罪の低年齢化、ライブドア事件に見られる自己中心の拝金主義的な考え方の蔓延(まんえん)などを見れば、懸念は現実になったとも言える。自公両党は、改正案に「公共の精神」を明記することでも合意している。「親こそ人生最初の教師」との考えから「家庭教育」の条文も新設し、ニート(無業者)の増加を念頭に、「勤労の精神の涵養(かんよう)」を盛り込む。日本社会の将来のしっかりとした基盤を作る上で、極めて重要なことだ。教育基本法の改正は時代の要請である。
「区切りがついた『愛国心』論争@読売新聞」

最近公立学校の荒廃がひどいらしくて、そういう趣旨の番組が沢山放送されてますね。でも、荒れているのは何も学校だけじゃなくて、一般社会的にも異常な犯罪が増えていることからもわかります。(…)それ以外にもニート大発生問題だとか、色々あるわけですが。近年、何故こういう問題が多発しているのか? これらの問題の多くは「(日本の、自分の)未来に希望がもてない」からの様な気がします。 例の「金で心は買える」発言も、その流れで出てきたと考えるとよくわかると思います。
「反撃の狼煙@Coolog」


これらは、13日、新たに「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」という文章が与党で合意されたことを受けてのエントリー。不安を煽って、「だから改憲&改正を」という例のパターン。


一応確認しておくと、ええと、ニート増えてません(参照)。「青少年の心の荒廃や犯罪の低年齢化」のソースがありません(参照)。「ライブドア事件に見られる自己中心の拝金主義的な考え方の蔓延」なんか、事件一つで蔓延て。この手のコメントを述べるブロガーは、バカな「左派」「護憲派」とシャドウボクシングをしている人が多いけれど、共通して自分にはリテラシーがあると思ってながら、産経的なメディアに対しては無防備に信頼or鵜呑みしてしまうのがすごい。


シャドウボクシングといえば、「『愛国心ファシズム化→マズー』って言ってるヤツってアフォだよね。国を愛するなんてあたりまえじゃん」的な書き込みもたくさんあった。ええと、「改憲」や「改正」で問題になっているのは、「愛国心が明記された場合、日本は軍国主義ファシズムになっちゃう!」ってことではなく、「愛国心が明記された場合、国民から統治権力への命令であるはずの憲法基本法が機能を果たさなくなり、仮にファシズムが実現したとしてもチェックできなくなる」ってことではないかと。


それと、「愛国心を教育しないのは日本だけ」という言説。「各国の教育基本法」を見ると、中国以外は明記されていない可能性があるとか(これはもう少し調べる必要がありそう。)。愛国者の方々は、中国を見習いましょう。


教育の荒廃、ニートの増加、若年層犯罪の増加などどれをとっても今の教育体制と無縁と言えるものではない。明治維新から大東亜戦争終結まで、今みたいな時代が日本にあっただろうか。
「教育基本法改正、「愛国心」表現について与党で合意@Independence JAPAN」


これもすごい。戦前は、今より失業率が低く、犯罪も少なかったらしい。うーん、昔はよかった…って、本当か?


かように、「現状(=論者の体感不安)は最悪だよぅ。何とかしてよ、ドラえも〜ん」的にすがりつく意見が結構ある。私の気になっているポイントを簡単にメモっとくと、次のとおり。

教育がダメだ…本当か? ニートは増えたのか。学力は低下したのか。少年犯罪は凶悪化し、激増しているのか。耐震偽装ライブドアが、なんで教育と結びつくのか。教育がダメだといいたいだけとちゃうんかと。
→部分…本当か? 教育がダメじゃくても、とにかくいじりたいのではないか。
基本法を直せば何とかなる…本当か? 憲法に書かれていることすら実現されてこなかったのにさ。


その他のツッコミも紹介。

私には特に上記の引用にある「自分さえ良ければ」という自己中心的な子どもが増えてきました。」を理由とした「公共心、伝統や文化を尊重し、郷土や国を愛する心を養い育てる。」が目を引きます。なぜ国を愛する心が育つと自己中心的ではなくなるのでしょうか。なぜ伝統文化を尊重すれば自己中心的ではなくなるのでしょうか。論理が飛躍しすぎではないでしょうか。思考の順序として、愛国心を育てたい、日本民族の誇りを植えつけたいが最初に有り、理由を後付けしたとしか思えません。
「教育基本法は動き出すのか@飯大蔵の言いたい事」(飯大蔵さん)

なぜ、愛国心だの宗教的な情操だのが出てきたのかを考えると、最近の若者バッシングと同根なのではないか。つまり、最近の若者は、愛国心がないから、ニートになるし、子供をつくらないし、公徳心がないし、少年犯罪は増えるしってことである。今時の若者はっていう、いつの時代もある年寄りのたわごとを、本気にしてしまっているのではないか。ばかげたを通り越してとても恐ろしい話なのである。
「教育基本改正案と若者バッシング@人は思いつきでものを言う」(massekikenkyuinさん)

子供は大人を見て育つんだと思うが。まるで「大人はしっかりしてるのに子供が勝手に悪くなった」とでも言わんばかりだ。
「愛国心って何だよ?@squidyの日記」id:squidyさん)

教育基本法にいくら勤労精神の涵養を入れてもニート・フリーターの問題は解決しない。教育だけで解決できる問題ではないからだ。教育だけでは解決できない問題を教育さえよくなれば解決できるという甘い期待感を増大させている。そういった期待感やムードだけで教育基本法が改正されれば、現実からの乖離はますます大きくなる。
ムードが先行している現在の状況で議論を深める時間さえないまま改正されるのは間違っている。与党案がやっと出てきたばかりで議論は決して深まっていない。与党が多数で押し切ればこの問題は良い方向へ向かうことはない。
「ムードだけで進められる論議@今日行く審議会」id:kaikai00さん)

お話が、青少年犯罪、それから教育の方面から教育基本法、それから憲法前文へ愛国心を記入するべきかどうかという、そのような流れであったと受けとめております。青少年犯罪の増加と愛国心を教えるかどうかということについて直結関係があるのかどうかということについては、これは慎重に考えなくてはいけない問題だと思います。
 例えばの話、愛国心を教える、あるいは国旗に対する敬愛を教える、あるいは自主憲法を持つ、あるいは正式に軍隊をうたうという形にすればもし青少年犯罪が減少するのであれば、アメリカは青少年犯罪が非常に少ない国でなければならないはずだ。あれだけ国旗に敬愛を誓って、軍隊ももちろん自主憲法として持っている国が、ほかにも、徴兵制を持っているドイツなどでも青少年犯罪は多うございます。ですから、その問題と直結させて論じるのはいささかいかがなものかと私は思います。
 私は教育関係の学者さんや何かともお話しする機会はありますけれども、私は教育は専門外ですが、やはり、青少年犯罪の増加、それから学級崩壊と呼ばれるような、児童がなかなか先生のコントロールのもとに入ってこないという問題というのは、これは日本だけの問題ではなく、先進諸国でいろいろ起きてきている問題であります。
「第159回国会 憲法調査会公聴会」小熊英二さん)


愛すべき国って、どこからどこまでだよ、というツッコミ。

日本には全く違う伝統文化を持ったアイヌの人たちもいますし、れっきとした日本人ですが、中国文化の影響を非常に長く受けてきた沖縄の人もいます。あるいは、今後日本人になる外国人もたくさんいるわけです。そういう人たちは、場合によっては、日本国憲法を含めたあらゆる法体系、制度的な秩序というものをきっちり守ってはいるが、しかし、自分の伝統文化はイスラム教だと言うかもしれないんです。日本という国はそういう国でなければならないわけですから、というよりは、近代国家というのはそういうものでありますから、私は、これを二つ結びつけるということは大変危ない話であると考えております。
 日本の伝統文化、何の知識もなく愛情もなくても、きちっと税金を納め、法律を守り、国民としての義務を尽くせば、これは愛国心の発露であります。私は、憲法問題をめぐっても、前向きであるとか後ろ向きであるとか、革新的であるとか保守的であるとかというような気分的二分対立をぜひ避けていただきたいし、我々自身、避けるべく戒めなければならないと思っております。(…)
とりあえず、私としては、憲法論議の進め方から、一種の気分的な、あるいは政治先導的な、言いかえればイデオロギー的なアプローチそのものをやめるべきだということを申し上げたいと思っております。
「第159回国会 憲法調査会公聴会」山崎正和さん)

ここで仮に変更案文言中の『国』が、統治機構によらない概念であるとした場合、実質的にその内容を規定するのは前段にある文言だということです。つまり「『伝統と文化』を『はぐくんできた』ものが『愛』すべき『国』の中身」になるということです。(…)
支配者層にとっての『伝統と文化』と、被支配者層にとっての『伝統と文化』では、その捉え方は大きく異なるはずです。子どもたちに教えるべき『伝統と文化』の中身を定めるのは、結局のところ「政府や統治機構」であって、「政府や統治機構」を直接愛するように定めなくとも、『伝統と文化』の内容を規定することによって特定の形態と思想を持った「政府や統治機構」を愛するように国民を導くことは実に容易なわけです。
「「伝統と文化」は誰のものか@孤客の椅子 」


(適宜更新しておりますので、しばらくは内容が変更される場合があります。てか、変更しまくりますのでご注意)