『「ニート」って言うな!』読書会チャット報告

1月30日の夜、オンライン上で『「ニート」って言うな!』の読書会を行いました。参加者は私(chiki)、上山和樹id:ueyamakzk)さん、井出草平id:iDES)さんの3人。以下はそのチャットログに多少手を加えたものです。上山さん井出さんがそれぞれ既に触れているように、様々に対立したこのチャットは、3人にとってブレーンストーミング的な役割を果たしました。絶えず議論が継続していくweb上においては、既に過去のものになっているような部分もあり、またクローズドな場ということで不用意な発言も多くありますが、今後の議論に役立つかもしれないのでここに発表させていただきます。



◆参加者プロフィール
上山和樹さん…『「ひきこもり」だった僕から』の著者であり、ひきこもり問題について丹念に考察するBLOG「Freezing Point」を運営。現在、ホームレスの人しか売り手になれない雑誌、『ビッグイシュー』にて、斎藤環さんとの共同コラム「和樹と環のひきこもり社会論」を連載中。


井出草平さん…ひきこもりに関する情報や知識を豊富に提供するwebサイト「論点ひきこもり」を上山さんと共催。現在、大阪大学人間科学研究科博士前期課程在籍。専門は理論社会学。




chiki
こんにちは。これより『「ニート」って言うな!』読書会チャットを行います。まず大前提として、このような本が出版されたことを3人とも喜ばしく思っていること、そしてその内容の密度と意義高さに敬意を払っていることを明示しておきます。こういう啓蒙的な本が多く読まれ、人や社会が議論の差異にセンシティブになることはとてもすばらしいことだと思います。一方、例えばこの本における「ひきこもり」の扱われ方がどうしても軽い気がする――いや、軽いだけでなくかなり誤った形で「ひきこもり」概念を流布することを助けてしまう記述もところどころにあったりする点がどうしてもひっかかる。また、ひきこもりの問題に限らず、論法や論理について違和もいくつかある。というわけで今回は、ひきこもり問題に熱心に取り組んでいらっしゃるお二人と一緒にこの本を批判的に読み(批判と否定は明確に異なります)、より議論が開かれる形になるようなヒントを提示できるようになれば、と僭越ながら思っております。



まずは本の簡単な概説を。本田さんはデータをメインに、ニート概念の「誤り」を指摘したうえで、けっこうラディカルな教育改革の提言をします。内藤さんはデータを元に、いわゆる「不安産業」である「青少年ネガティヴ・キャンペーン」を批判しながらバッシングを類型化しつつ、バッシングの背景にある心情を探る。後藤さんは、具体的にメディア上に登場したニートバッシング言説を分析しつつ、ニートバッシャーに感染しないための相対化をする。全体として大変面白く勉強になったし、こういう本がカウンターキャンペーンとして出てくることはいいこと。ただ、本田さんによる玄田ディス、それとオルタナティブの提言部分、そのほか幾つかの記述に違和感が残った。これはなぜか、という点をまずは話せればと思います。



なお、今回の読書会で扱うのは本田由紀さんの担当された1章がメインになるでしょう。これは、この本の章立てが「現実」「構造」「言説」という構成になっており、「対策」を扱っている部分がなく、本田さんの担当した「現実」の後半部分でのみ対案が明示されていること、および「ひきこもり」についての言及がそこに集中していることなどが理由です。



井出
了解しました。なんか、しょっぱなから変なことを言うことになるんですが、本田由紀という論者はアンチ玄田として記憶されるべきではないと個人的には思っています。本田さんは玄田さんの批判者として世間では見られている訳ですが、そもそも、ニート問題は本田さんにとってもさほど重要ではないのではないかと思うんです。本人としての話は置いといたとしても、NTT出版から出た『多元化する「能力」と日本社会』について語るべきなんじゃないかと思いますが、今日は『言うな!』について語る会なので、そちらの話を。


本田さんと玄田さんの違いがあると仮定はして話を進めますが、本田さんのフレームワークはやはり社会学が持っているものに準拠しているという印象があります。とくに教育社会学ですよね。教育と労働というものを考えた場合、職場への接続というものを取り上げることが多いですよね、やはり。一言で言うと、「就職機会」ですね。誰がどういうようにして、就職する機会を得られたかという「チャンス」の話になる訳です。


おそらく、ここから本田さんは「専門性」という処方箋として出てきているのだと思います。一方で、玄田さんはそういうことを最近は問題にされていない。就職機会ではなくて、就職した後に職場で上手くやっていけるかどうかという話をされている。問題関心としては、職場で上手くやっていく事ができないから、働けない、働く意欲がなくなってしまったという事だと思います。要するに、チャンスがあろうとなかろうと、働けないんだと。チャンスが無いから働けないということはもちろんありますが、問題の本質はそこにないという見方だろうと思います。


chiki
なるほど、分かりやすいです。「ニート」概念についての本田さんの批判は次のようなものだったと思います。無業者のうち、ニートと呼ばれるのは「非求職型」「非希望型」の2つを含んだ総体である。で、昨今ではニートが急増したといわれているが、しかしこのうち「非希望型」の層の人数はここ10年ほどでまったくといっていいほど変わりなく、増えているのは「非求職型」の方。「非希望型」がまったく増えていない一方で、無業者の全体数およびフリーターや非正規雇用の数が急増していることから、「ニート」はよく言われているような内面の問題ではない、雇用の問題として対象を見誤らない支援をするように、と主張しています。「ニート」でひとくくりにすると実質的な問題を見落としてしまうという批判はそのとおりで、私自身も誤解していた部分がすっきり整理されました。単に雇用機会(=構造)の問題で救える層がこれだけいるんだから、心(=個人)の問題にすることは何重にもまずい、と。確かに、「ニート」とことさら新しいかのように語り、不透明な存在として、あるいは「最近の、理解しがたい若者たち」として扱うことでフリーターの問題や就労の問題が消えてしまう。そして、そのような内面の問題に回収するのに玄田さんも一役買っている、と本田さんは批判する。


本田さんはそれらを批判した上で、新たな見取り図と、かなりラディカルな支援策を考えます。まず、ニートと呼ばれる層のうち、「非求職型」の問題は就労機会の問題で、フリーターや非正規雇用の問題と一緒に考え方がよい。つまり「不安定層」として捉えたほうがよいと。






「不安定層」に着目すると、現在の日本では「学校経由の就職」が縮小し、かつ学校が職業訓練をするような場所ではないことが浮き彫りになる。これまでは学校を経由すれば職業訓練をしなくても採用されていたけれど、今は別だという構造的な問題がわかる。ならば、学校を経由しない就職のルートを作りつつ、学校は職業訓練の場としても機能するようにしましょう、と。現状では非正規雇用と正規雇用の格差を緩和するように企業に訴えつつ、教育機関では中高から職業教育に触れさせようと。そうこうするうちに、「若者自身の職業能力がもっとも重視される基準」になるようにしようと。


ここまでで、いくつか思いついたことを列挙すると、(1)「雇用機会」ではなく、派遣社員や契約社員、あるいは若手正社員の労働条件の問題は議論されないのか(これは井出さんの指摘と重なりますね)。(2)「ニート」によって消えた「ひきこもり」の問題の方はカバーしない、というスタンスでいいのか。(3)玄田の、またはニート言説の意義、「功罪」の「功」の部分は見ないのか。(4)唯一の対案としての専門化、職業訓練というのはいかがなものか。(5)実学志向の問題については触れなくてよいのか。(6)構造という問題が、果たして教育と企業の接続の問題だけで語れるのか。経済の視点などは不可避ではないのか。そして重要なのは、(7)1〜6のいずれかを捨象することで、これまでの「ニート」議論の根幹、市場主義への「問い」のいくつかを捨象することになるのではないか。そしてそれにとどまらず、本田さんが目標とするものを、最悪の形で裏切ってしまうのではないか。この7つの指摘で私の今日の役割はほとんど終わりなんですが(笑)。


多分、専門学校化や職業訓練はシニカルな帰結を招く気がするんです。今までは、学校教育を受けてきた「大衆」は社員として啓蒙可能なOSだけはインストールされていたんだから、専門的ツールソフトは会社でインスコしましょうという発想でいけて、大学は事実上、企業に接続するための準備の場として機能していた。大学や高校が社員教育、就業訓練していたわけじゃないわけですね。けれど、今は国民全員に同一のOSをインストールするなんてムリだって分かってるし、だったらせめて使えるツールがインストールされてないと採用しないよという状態。会社がわざわざOSをアップデートしてあげることなんてしないという選択をしている。何もインスコされてなくても、フリーターとしてはある程度働けるけど、長期的に見たらそれは企業への接続を遠のかせることになる。その接続の場がない現在では、学校でインストール、あるいは再インストールできるようにしようという話じゃない? そうすると、むしろ今までより「弱者」があえぐんじゃないかと。そんなスペックありません、みたいな。そこで言われる弱者とは、PCの比喩でいうとスペックあげるためには投資が無理な層とかね。今の話は、なぜこの本が「大学全入時代」の現在で高校をメインに扱って大学を扱わなかったのかということとも関わると思う。また、ニートには低学歴が多いという話がかつてあったけど、学歴の話は収入の問題とも絡む。その層を救うために「学校の専門化」を叫ぶと、障壁は変わらないのではないか、むしろ高まるのではないかと。つまり、もし学校が職業訓練の場として「正しく」機能したとしたら、そこを経由しない人、そこでノリきれない人、そこでドロップした人はより厳しくなるんじゃないかな、という。


井出
ニートと学歴はちょっと慎重に論じるべきところかもしれません。低学歴だと就職しにくい「ともかぎらない」ということは指摘されています。(偏見や差別があるという指摘があるかもしれませんが)、世間的には大卒者の仕事とされているもの、高卒者の仕事とされるものということがあるのではないかと思います。仕事が減ったり、失業者が増えたりしたという全体だけではなくて、誰にとってどういう仕事が減ったかという内実を見る必要があるように感じます。


例えば、低学歴だと就職機会が失われるという規則性が見られるからといっても、低学歴者がつくべき仕事が必ずしも不足しているとは限らない。なぜなら、先進国では高学歴化という現象が起こっていて、低学歴者が減っているからです。つまり、仕事の数が減っていたとしても、低学歴者の就く仕事が不足しているとは限らない。スウェーデンの計量論文でそのような趣旨の論文を見たことがあります。その論文では、低学歴者の職はむしろ90年代になって増えていると主張していました。ただ、社会の構造変化(例えば不景気)には、学歴を持たないものは非常に脆弱であるという結果が出ていました。スウェーデンと日本はよく似た次期に不景気を抱えていましたし、高学歴化も似ているので、日本でも同様のことが起こっている可能性はあります。


chiki
なるほど。それならますますもって本田案は代替にならず、シニカルな帰結を招く気がします。というのは、「低学歴者の職」が不足しているわけではないけれど、それは不安定なもの、あるいは社会的地位が低いと思われているから忌避されるわけで、不安定層を安定層にブーストしようという発想からは、よりドライな序列化が進むような気がするんですね。もちろん学校を効率的にしましょうよってのはそれはそれで必要だと思うけど、学校でできることなんてその程度だとも言えるのではないかと。



井出
「学校の力を信じすぎなんじゃないか」という批判という意味なら、妥当性のある批判論点だと思います。アメリカでもイギリスでもよく似たことがされていますが、人的資本論の研究を参照すると効果がない可能性が高い。人的資本論というのは、個人に能力をつけると、教育コストより大きなリターンがあるって考え方ですよね。人的資本論のロジックは大変わかりやすく説得力がありますが、説得力があるからといって妥当とは限らない。


あと、「専門性」が「甲羅」として機能するかという問題があります。『言うな!』の94頁からの議論です。本田さんは流動化した社会で生き延びるために、「専門性」という「甲羅」をインストールすることを防御手段として提唱されている。この提唱の前提となっているものは「流動化」批判ではなく、流動化は良いことだとは思わないが「仕方ない」という時代診断ですよね。社会学徒の中には何かを批判して何かした気になっている人が少なからずいますが、本田さんは現実から目を背けず、一つの処方箋を提唱されている。これは何よりも評価すべき点だと思います。その上で、「専門性」というものが「甲羅」として機能するかという検証に入らなくてはならない。現在はその段階に来ていると思います。


「専門性」というものを検証する際には、「初職」を見るだけでは説得力は持ち得ません。なぜなら、流動化した社会では就職のチャンスも多くなる訳ですが、同時に失職のチャンスも多くなるからです。それが流動性が高くなるということです。ですから、初職の就職に役立ったとしても、セカンドジョブで役に立たなければ、それは「甲羅」にはならないわけです。「専門性」を「甲羅」になりうるかという時には、セカンドジョブの検討が非常に重要になります。


比較対象として「学歴」というものを検討してみると先行研究が存在します。SSM1995の成果をまとめた『日本の階層システム』第3巻に濱中義隆氏と刈谷剛彦氏によって書かれた論文が収められているのですが、この論文では「どのような大学を卒業したのかは,学校による職業紹介などの影響が及ばない転職市場においても、なお有意な効果を残す」と述べられています。つまり、セカンドジョブに対しても学歴は有効だと実証されている。学歴は「甲羅」として(現在においても)機能している。同じようなことが「専門性」にもあてはまるのか否か。問うべきことはここにあります。



chiki
「教育」の内容と形式のバランスが変わってますからね。教育システムを効率的に経済システムに結び付けましょうという話をしても、教育システム側に可能なのは多少システムをスマートにするとかくらいしかできないと思うんです。市場の状態を前提としているわけで、そこでインストールするソフト、インストール方法を現状にあわせましょうって議論は分かるし、職の流動化を前提にしたシステム構築しようってのも分かります。また、クラスチェンジの機会可能性と、その機会から降りたとしても保障する制度を、という2重の試みの一端としては納得します。でも、本田さんの案って多少スマートにするっていうよりか、かなりラディカルだし、教育システムを変えてなんとかするという発想自体にちょっと距離を感じる。


これはなぜ高校を扱ったのかという点と重なるけれど、就職活動を大学生時代に行っていても、大学によって職業を斡旋されているわけでなく、そこで時間と情報交換の場を貰いながらリクナビとかでせっせとエントリーしたりしているわけですよね。それは教育システムというより教育の場が別のシステムを内包しているということではないのでしょうか。それが教育の問題と重ね書きされているような気がするんですよね。専門技術やスキル、職業意識というのはそれほどニーズが高いのかという問題もあって、資格のインフレ状態になっちゃうのではないかと。


井出
「教育」というものをあまりアテにはしてはいけませんよね。教育によって何か大きな変化を社会にもたらすということは不可能ではないとは思います。ただ、それは相当難しい。よく、世の中に問題が発生したら「教育改革だ!」という話あるじゃないですか。確かにそうなのかもしれませんが、そんなに簡単なものじゃない。社会を変えるということが非常に困難であるとともに、副作用の検討ですよね。「専門性」の導入によってもたらされる副作用があるのかどうか。そして、その副作用はどのくらい重要なのかということでしょう。


そのためには、低学歴層の文化の検討が必要です。最近で言えばラリュー、古典的にはウィリスの『ハマータウンの野郎ども』などを参照する必要があります。ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』はイギリスの労働者階級を分析したものですが、その中では、低学歴層で非行型の生徒たちは、窮屈な学校から逃れる形で自発的に労働市場に飛び込んでいくという話が展開されています。


窮屈な学校に比べて、労働市場では収入も得られるし、消費もできる。そういう「あこがれ」を持っているからこそ、劣悪であっても労働者階級の職場に飛び込んでいけるわけです。これは肉体労働に限らず、大卒就職でも起こることですよね。「知らない」ということによって、隣の芝は青いではないですが、積極的に参入することが出来るということがあります。学校が無駄で退屈でなくなって、役立つことを教えてくれる所になったら労働市場に飛び込まない可能性がある。杞憂かもしれませんが。


この仮説は妥当性がそんな高くない気がします。それよりも重要なのは、「専門性」を身につけようと動機づけられる層です。おそらく、非行型の生徒たちでないですね。専門性を高校で身につけておけば、就職してから有利になるという判断をするわけですから、真面目な生徒がとる選択になるはずです。ウィリスもちらっと言っていますが、真面目な生徒たちは労働市場に入ってからがヤバイ。彼らは熟練の要する仕事に迎えられるんですが、職場でうまくやっていけてないんです。悲惨です。この辺りが、ひきこもりや働けない人たちの問題と通底する文脈になります。


chiki の発言:
さっきの低学歴の人で専門化をしようとした場合、リスペクトを受ける欲望を断念させるとかって発想になりそうじゃないですか? 例えばオタク=スペシャリストだから、ああいうマイノリティはアリ、みたいな言説がありますよね。それは例えばてっちゃんが運転手になるとか、趣味が転じて人に尽くすというような美談的なものを想定したり、あるいは「実は経済効果がスゴイ」みたいな露骨な擁護だったりする。しかし現実には、低学歴ながらこういう専門性を得れば実は仕事があるじゃないかといわれても、そこにいてもリスペクトを得られなかったり、たとえ他人にリスペクトされなくてもアディクションがあるからOK、という場合のアディクションというのすらなかった場合、逃げ込む先すらなくなるんじゃないかな。低学歴の人にも出来る仕事の数はたくさんあるといっても、そんなことは分かってる。それが世間的に「下流」扱いされることも分かってる。そんな状況で、ひきこもりよりオタクのほうがマシとか言われても、「ああ、そうですか」としかいえない。


井出
そうそう。結局のところそこが問題になりますよね。専門性だけで労働が成り立っているかというと、そうではない。専門性は就職機会を増やすことになるでしょう。でも、その政策によって、労働に重要な能力が削られる可能性があるのではないかという指摘は尚も成り立つ。


chiki の発言:
ただ、すかさず但し書きをしたいんですけど(笑)、じゃあアディクションやリスペクトを叩き込める教師を増やせとかいっても、そんな教師増やせるわけない。優秀な人材が一定数存在しないと回らないようなシステムは、システムに問題があると考えないと。今回はそれが教育システムなのか、それとも大学に内包されていた就職システムの回路の変化なのか。


井出
労働の中で恐らく一番重要なのは、鬱屈した学校生活の中で、しんどくても生きていくスキルだとか、仲間と喋って先生や学校の権威を剥奪するスキルですよね。多少環境が悪くても、それなりにやっていく能力。 ストレスに耐える力ではなく、やりすごす力ですね。そういうのが、習得する場としては、全く無用に思える学校が大いに役に立っている。一見すると、あの全く無駄な時間と空間が、その後の労働生活で役立つスキルの培養することに寄与している。


chiki
本田さんの言うとおり、若者の家庭問題や内面問題にのみ回収することは反対、というか無意味だからやめよう。しかし同様に、経済システムと教育システムにだけ回収することも反対。学校は、例えば法や政治、あるいは科学、そして経済など、さまざまなものに接続すると思うし、その中にコミュニケーションというレイヤーが多く含まれているので、雇用機会の設置のみの観点のみで捉えるべきではない。そう捉える風潮は、実はひきこもりの問題が就労の問題から捨象されているという現状を後押ししているんじゃないかと思う。


井出
そうですね。本田さんも「機会」だけにこだわっているうちは良いんですけど、ひきこもりとかニートとかの実態を知り始めると、玄田さんに近づくようになるのかもしれません。あんまりどうでもいいことですね。すみません・・・


見取り図的には、ウィリスとかラリューとかと鏡になっているのが「ひきこもり」の話です。ウィリスでいうと熟練工に迎えられる「耳穴っ子」と呼ばれる真面目な生徒たち、ラリューでいうと”concerted cultivation”と言われる育てられ方をする中産階級の子どもたち。日本でそれらの生徒たちに相当する層に起こっているのが、ひきこもりであり、摂食障害です。「専門性」というものは、その先にひきこもりや摂食障害といったものとの関連性を持つのではないかと思っています。


chiki
上山さんいかがですか?


上山
私の感じている違和について、いくつか箇条書きしてみます。chikiさんがすでに述べてくれていることも含むのですが。まず、大きくは「合理化と動機付け」ということ。▼本田さんの玄田さんへの批判は、「システムレベルで合理化を徹底すべきだ」というふうに理解しています。本田氏から見ると、玄田氏は「システムの理不尽さを丸まま容認している、そのうえで精神論ばかりやっている」というふうに見えている(と私は理解している)。私としては、本田さんの提案している「システムの合理化案」、特に「c図」(p.81)は、素晴らしいと思う。それを目指すことに異存はないのですが、問題は、「ひきこもり状態にあるかなりの人たちは、システムをいじっても動機付けできないのではないか」ということ。


井出草平
その場合、問題を2つに分けて考える必要があるように思います。(1)将来的にひきこもりになる前の段階の人(2)既にひきこもり状態に至った人。前者は「予防」の観点で、後者は「社会復帰」の観点です。「(2)既にひきこもり状態に至った人」の場合は、動機付けをするのは非常に難しい。しかし、教育から就労の接続の失敗で、(1)将来的にひきこもりになる前の段階の人は救える可能性はある。


上山
うーん。いや、「ひきこもり後」でも、「再チャレンジの機会を増やす」ことは、履歴書の空白を糾弾するような規範を緩和するだろうし、明らかにプラスに働くと思います。だから本田さんの「合理化案」は、可能な限り進めるべきとすら思う。《動機付け》にとって、《合理化》というのは、間違いなく重要な要素だと思う。▼ただ――これは「ニート」という単語の必要性にも関わるのですが――、「ニート」という言葉は、そもそも「既存の政策論に乗らない存在」を考えるためにあったのではないか(樋口明彦、小杉礼子)。新書『「ニート」って言うな!』は、「ニート」という単語が「差別的レッテル」として機能することの弊害をとにかく訴えてくれたもので、そのカウンター的な意義自体は本当に重要。でも、chikiさんが以前指摘してくれたように、「差別的言説の吟味」と、「問題そのものの吟味」は違うわけで。


井出草平
学齢期での「職業訓練」に限定した場合の議論だとどうなりますでしょう? 


上山
ええと、「トライやる・ウィーク」でしょうか。玄田さんが推進して制度化され、内藤朝雄さんが否定されている。


井出草平
玄田さんの着目された「トライやるウィーク」は実際には職業訓練ではないですよね。実際、半分くらいですよ、就労の現場に行っている中学生は。強制的に就労の現場に連れて行かれて働かされるという軍事教練という比喩は当たっていないわけではないけども、誤った情報が伝わっていることを指摘しておく必要はあるかと思います。就労現場に行かない逃げ道は用意されていますしね。地域に出て生きる力をつけてくるのが「トライやるウィーク」の目的ですし、だから不登校の子どもが学校に帰ってきたということが一つの実績としてあげられているわけです。ですから、高校に職業訓練を持ち込むという点においては、玄田さんより本田さんの方がラディカルだと思います。


上山 の発言:
内藤さんは「トライやる・ウィーク」を「強制労働」と否定されているのですが、「動機付け」というものの《不可解さ》には、ああしたものすら機能するかもしれない。内藤さんの議論は、差別への「言説批判」にはなっても、「ひきこもり」という、どこまでも社会に向けて動機付けされず不可視になってゆく存在については、「問題吟味」にならない。▼でも本田さんに比べると、「働かない存在」を規範的に承認する話にはなっている。(とはいっても本田さんのミッション、というかポジション的に、「働かなくてもかまわない」という規範面へのケアを求めるのは無理かもしれない)


井出草平
上山さんの話を引き継ぐ形で「問題吟味」に議論を限定すると、本田さんの主張は、「ニート」という実態を持たない操作概念によって、「問題吟味」を歪めてしまうということだったと思います。で、本田さんの主張するのは、学校の中での「職業訓練」の導入ですよね。あと「専門性」を主張されてる。


まず、「職業訓練」に議論を限定すると、(1)学校で訓練をすることに反対、(2)効果なし(人的資本論批判)、(3)景気が回復すれば問題ない、という批判が可能だったと思います。内藤−本田の相違点は(1)であり、玄田−本田より明らかに距離がある。


本田さんの主張されている、専門性という処方箋には問題がないのか? つまり、その処方箋によって生まれる未知なる問題があるのではないかと思うのです。第4の可能性として。


上山
第4の可能性に、「ひきこもり」が入るのかな。


井出草平
そのように考えています。さきほどの「専門性」の先にひきこもりなどの問題との関連性を持つといった点です。


上山
制度的なものを整備し、景気が良くなっても、《継続的な就労》ができない・・・。しかし、そうした存在まで考慮に入れた議論を「若年就労問題」に期待するのは、「ないものねだり」になるのかもしれない。訓練機会へのアクセスチャンスを増やしてもらうこと自体はうれしいし、景気が良くなったほうが就労機会が増えていいに決まっている。


chiki
第4の可能性で連想される問題として、職業訓練を受けていないがために就業機会を奪われている人のための支援策のはずが、周囲のレベルをあげられただけになってしまって、よけいに参入障壁が高まったり、既にドロップアウトした人が再チャレンジするようになると、さらに流動性と参入障壁が高くなっているので、むしろ支援対象者の首を絞めてしまった、というような事態にはならないんでしょうか。職業のニーズは無限というわけではないですし。それと「不安定層のために職業訓練を」という発想で、学校システムや企業が変わることはないと思うんだけども…。


上山
「合理化を推進すればするほど、そこにすら入れない人はますます置いていかれる(不可視になる)」ということでしょうか。▼個人的な記憶をもとに考えてみると、私が10代後半〜20代前半を過ごしたバブル絶頂期には、若者も大人も「消費文化」一色になり、そこに入っていけない人は社会参加がしにくくなった。景気がよく、職業的スキルがあって就職していても、人間関係が営めない・・・。《継続的就労》のネックとして、実はそこに重大な苦しみがある(玄田・曲沼『ニート』でも、求職活動をしない人の43%が「人づきあい」を理由に挙げていた)。教育と職業を合理的につなぐ本田的施策はぜひ遂行されるべきだと思うけど、「合理的に整備したのだから」が制度側のアリバイになってしまったら、逆に「それでもどうしようもない層」は、何も文句が言えなくなる・・・。【これは本田案への「批判」というよりは、「ジレンマ」というべきかも。】


井出草平
学校という制度は知識伝達(勉強)以外の機能はアテにしてはいけない。くどいようですが。一方で、集団の中での一年間、朝から晩まで一緒に(強制的に)生活させるという面は大いに評価?できる。例えば、小集団の中で自分のポジショニングを得るというスキル、先生やテストなんかからうまく逃げるやり方など実はそういうものこそ、労働の現場で重要なスキルだったりするわけです。だれしも、自分のポジショニングをパッと見極めることができるまでには、相当トライアンドエラーを積み重ねていると思うんです。


上山
それって玄田さんだ(笑)。実は「ひきこもり」というのは、合理的意識が足らないんじゃなくて、合理性への強迫観念が強すぎて「トライ&エラー」ができなくなっている状態です。だから実は「合理性を高める」という議論だけでは、限界があるかもしれない*1


井出草平
ええ。それが、おそらく、集団生活であり、社会性を身につけるということにつながっているのであるのだと思います。そういう意味では、退屈で死にそうで窮屈な「学校」というものも、職場へつなげる重要な練習場面を(強制的ではあるが)提供することができている。


chiki
「ひきこもりは常にオフではなくオンの状態」という問題ですね。そこで玄田さんは既に固定化された「ひきこもり当事者」に向けて、社会は合理的なコミュニケーションの集積ではないことを説き、啓蒙することで合理性への焦燥から解き放たつ、というような作業を演じている。


上山 の発言:
玄田さんの場合、「動機付けに関する現場的メッセージ」にこだわってる。本田さんは、「若者の心に触ってはいけない」というお立場に基づき、動機付けについては「制度的整備」しか考えていない。


井出草平 の発言:
本田さんは「就職機会」についてずっと述べてらっしゃる。でも、玄田さんはそのことを了解しつつも(そもそも人に先んじて指摘したことが彼の業績だった)その先、「職場でうまくやっていけるか」という所に焦点をあてている。


chiki の発言:
今の井出さんの発言とかかわるんだけど、本田さんはひきこもりと犯罪親和層を「不活発層」の下位として括ったうえでさ、共通するのは「これまでの人生経験で負の連鎖に巻き込まれた」からだって言っているんだ。どうも、教育やシステムさえしっかり機能していればそういうことはおこらなかったはずだ、というような発想につながらないかな。


井出草平 の発言:
教育の失敗→金あるよ→ヒキ
       →金ないよ→犯罪へ
ってこと? 


上山
うーん。しかしそれは、規律訓練的な意味での教育ではなくて、「社会へのアクセス・チャンス」としての「教育インフラ」ということでは。本田さんは、内面をいじるのを極端に嫌がるので・・・。


chiki の発言:
いや、同じだと思うんです。というのは、この本では「若者自身の職業能力がもっとも重視される基準」になるように教育と雇用のシステムを変えよう、というような形で触れている。「人間力」を、ただ「心」の問題であると捉えて批判するのはちょっと無意味な気がするんですよ。心さえ形式的に「自由」であればいいのかと。スキルの差異化は必ず内面の差異化にまで言説が波及する。タフなスキルとタフな内面って、タフなスキルを身につける若者の内面を評価します、みたいな文法でに同列に語られるだろうし、タフなスキルを身につけるための自己啓発という問題もでてくる。仮に表象面で抗ったとしたら、その差異が見えにくくなるだけだったりもするのではないかと。


井出草平
本田さんは、少なくとも、既にひきこもりになっちゃった人をどう復帰させるかということをこの本では語ってない。もちろん語る必要性もないわけですが。


chiki
そうならないように教育をもうすこしうまくまわしましょう、と。


上山
しかし、本田案も、ひきこもりにはプラスの面はあると思う。高齢化しても再チャレンジできる社会、というのだから。冗談抜きに、「高齢化」って本当に深刻だよ。


井出草平
それは上山さんのおっしゃる通り。だけど、「専門性」が評価軸になる労働市場では、ひきこもりでよく話題になる「履歴書の空白」が致命的であるのは変わりないですよ。引き込んでいたら「専門性」になんてつかないし、ひきこんでいる間は職歴がないから、キャリアが無いと見なされる。現在も履歴書の空白によって就職が難しいですが、そのような困難な状況は本田案が実現しても全く変わらない。


ひきこもりについての本ではないので、ひきこもりの話をすることがルール違反だけど、この本で社会復帰についてはP66で少しだけ触れられていますよね。アートのNPOですくい上げろって。そのNPOに金がないんじゃい!って話なんだけど。


上山
いや、「NPOより国がやれ」と。>本田さん


井出草平
あ、そうそう。国だ、国。国でやれっていうけどできるもんなんだろうか?


上山
いや、国のお金が出るのはいいんだけど、むしろNPOの「多様性」が必要なはずで。


井出草平
金は国が出して、委託でやって欲しいというのが個人的な考えです。2007年になると、田中俊英さん(淡路プラッツ代表)も言ってたけど、ニート関連事業はもっと公的性格を増していくようになる。ただ、それですべてがカバー出来るわけではない。ひきこもりの対処能力を精神保健福祉センターが持つようになったからと言って、クライアントが来るまで待つことが原則だから、どうしてもカバーできないところができてくる。そういうところは、やはりNPOに委託したりしないと無理ではないかと思うんですよね。NPOや国にやれと本田さんは言うけども、ニート関連事業に金落とすことを利権って言ってしまう。ここについてはどうなんでしょう?


上山
実際には、民間のひきこもり支援団体はたいていどこも赤字と聞いています。そういう末端にはお金が行き渡らず、「私のしごと館」に580億円+年間20億円もかけたりしている。そこは分けて考える必要がある。▼制度的整備については、本田案や内藤案のいいところを進めて欲しい――と、読んでいてすごく思った。繰り返しになるけど、それでも問題として残るのは、「差別的目線がなくなり*2、制度的整備が進んでも、継続的な動機付けには一部しか成功しない」ということ。「制度的整備」が進めば、制度の外にあって(樋口明彦)、「不可視になってしまった人たち」の問題は、今以上に「すでに対応済み」として等閑視される可能性がある。


井出草平
それは、言説吟味ですよね?


chiki
多分、「高齢化しても再チャレンジできる社会」というスローガンは誰もが賛成するでしょう。でもね、本田案でそれが実現できるのかどうか、ってとこにひっかかるんだよね。


井出草平
小杉さんによると玄田さんたちはある種、確信犯的に言説詐欺を働いた。でも、現実には若年失業者などの事業に金が下りている。言説的には誠実ではなかったが、結果は出したんですよね。


chiki
「ニセの問題をでっちあげて、リフォーム詐欺」というように言説批判しつつ、その言説にのっとった形での内容吟味ばかりされているのが問題だねーと。その内容吟味だったら構造問題解消しないだろ、ってことかな。


上山
確認したいのは、「差別的目線はおかしい」「高齢化しても再チャレンジできる社会を」とかいうところは、ここの3人も、『「ニート」って言うな!』の3人も同じかな。


井出草平
それは、もちろん。


chiki
「作者の意図」としてはそう理解してます。


井出草平
メディアでは「ひきこもり」=「ニート」という報道のされ方がされていて、そのために、「ひきこもり」に集中的に予算が下りたって言われているんだけども、本当にそうなのだろうか?という疑問は残る。むしろ、ジョブカフェのような「若年失業問題」に下りたのではないかと思うんですよ。要するに、本田さんは「内容の歪み」が「対策の歪み」を生み出していると考えてるけど、実際に「そうなの?」という疑問がある。


chiki
ひきこもり支援の場合、「企画書」が書きにくいのかな。ジョブカフェとかニート対策支援とかだと、雇用問題に的を絞れば「これだけ働かせました」「これだけ成果でました」って数値的にも言えそうだけど、ひきこもりのように「家族以外と交流しました」「町内会の手伝いを自発的に始めました」とか報告しても、「で?」って言われるのだろうか。


井出草平
ああ、それありますよね。「ひきこもり」の支援者も「ニート」って言葉を企画書に書くために使ってたりするんですよ。書いてみて、初めて、自分はニート問題に関わってるんだって。彼らも、そんな気はさらさらない。自分はひきこもり問題にコミットしてるんだと思いながら、企画書ではニートって書く。なんで二枚舌みたいな事をしないといけないかっていうと、端的に「ひきこもり」には予算つかないし、つけようがないって事ないという事情がある。


上山
「ひきこもり」には、ついに固有の予算がおりなかった。しかし「ニート」には、一気に231億円。▼そうしたこととは別に、「教育の職業的意義」を高めるために予算が使われるなら、それ自体は悪いことではないと思うんですが。


井出草平
要するにこのあたりに『言うな!』の一番弱点があるんだと思うんです。『言うな!』は、実態と言説の乖離を執拗に指摘した本ですよね。つまり、実態とは異なる「ニート」という言説が流行したという。実態→言説の乖離の指摘ですでも、理論的に考えると、言説→実態の乖離も同時に起こるはずなんです。実態→言説の乖離に山のような言葉があったのに、言説→実態の乖離は全く触れられていない。『言うな!』では、言説が政策に影響を与えて、予算が言説通りに誤ったところに投下されると言っている。実態→言説はすごく歪められていたのに、なぜか言説→実態は素直に伝達されると考えられている。言説→実態の乖離は全く無いかのように看過されているんですよ。


理論的に考えた『言うな!』の最大の弱点はこの部分です。この部分が精査されない限り、実は「言うな!」とは言えない。いいかげんな言説がいいかげんな実態を生んでいるという所までを示すことができて、初めて「言うな!」と言えるはずなんですよ。


chiki
ニートをめぐる言説や内容吟味の中には「うれしい誤配」もあっただろう、という問題にもつながりますね。私が一番気になるのは、学校で職業訓練をする政策が必要だとしても、それはむしろネオリベ主流派がドンドン進めるだろうから、「弱者擁護」のロジックになるとは思えないんだ。わざと嫌な言い方をすると、企業が「人間力」を求めるようになってるんだから、学校でつけてあげましょうって発想になっちゃうんじゃないかってことかな。あるいは大学とかがどんどん実学指向になっていくように、市場にどんどんあわせていくと思う。それは、むしろ企業とか市場の要請から、市場化されつつある大学とかがどんどんそうなっていった場合、本田さんの想定している地図は無効になると思うんだよね。
今では、結局就業訓練は大学とかで無理だから、専門学校を経由してから就職しようって人も多いわけでしょ。成城大学とかのレベルでは結構いる。これはまだ違和というか疑問なんだけど、学校経由の就職のルート無効を受けて、職業訓練を学校でやるって、矛盾してない? 学校では職業訓練バッチリやる、学校以外のルートも確保する、っていう二つの案は互いにぶつかり合うとおもうんだ。人為的にバランスをとれるとは思えない。


井出草平
専門化する生徒って今だったら専門学校に行ってるんだよね? なら、お月謝の問題だ。お月謝払えない人がいるから不平等だというリベラリズムのお話。


上山
ひきこもり業界としては、「ニート」の枠内でしか支援予算を期待できない。しかし、「ニート」という、既存の「若年就労支援」や支援施設、あるいは「教育制度」さえあれば対応できる(とされる)話が主流になったことで、まったく不可視の状態像としての「ひきこもり」は、かえって忘却の危機にある。さらに本田さんは「ニート対策自体がリフォーム詐欺」というのだから、「ひきこもり」には、固有の予算枠はないことになる。▼本田さんの説は、「制度合理化の果てに、それでも対応できない《本物の引きこもり》についてのみ、固有の予算枠を作りましょう」ということか。【→本田氏:「異なる対応が必要」】


井出草平
ニートの問題化は小杉さんが言ったようにイデオロギーを排除した形で、予算を若年問題に落とすことだったんですよね*3。今の状態でニート予算が無くなるということは、「ひきこもり」に使える予算も無くなるという事になってしまいます。ひきこもり問題が社会問題化されて10年弱。その間に予算が付かなかったのに、今から固有の予算枠組みをつけることが可能だとは到底思えない。


chiki
そのあたりのジレンマは、「功罪」を踏まえたうえでプラグマティックに設計しないといけないところなんですね。


井出草平
おそらくニート問題の本田由紀という論者は祭っぽくて、目立っていて、見ていて楽しいのかもしれないけど、本田さんはこの話で記憶されるべき人ではないと思うんです。『言うな!』ばかりが話題になってますが、重要なのは間違いなく『多元化〜』の方です。アンチ玄田ではなく、現代社会学の非常に重要なテーマを計量的に攻めた業績によって記憶されなければならないと思うんです。


『多元化〜』という本の価値は、バウマンやベックと言った現代の社会理論家と組み合わせる形で論じられるべきだと個人的には思っています。『多元化〜』では「日本におけるハイパー・メリトクラシーは、おそらく欧米よりもいっそう苛烈な形をとる」という指摘は正鵠を得ていて、それに対して、バウマン的に表現するならば、リキッドな世界に乗る形で、ソリッドな対抗策を示しているという特異で注目すべき点がある。苅谷剛彦はリキッドに乗らない形で、ソリッドな対抗策を示していましたよね。バウマンやベックの理論っていうのは、そのまま日本に当てはまるかというと、やはり難しい所がある。ここが、理論社会学としては面白い点です。日本の特異性と「専門性」という処方箋の現代での妥当性を議論することこそが、非常に意義がある。


日本で起こっているのは、西欧で言われる「個人化」とはちょっと違ったものだと思うんですよ。西欧では異なる者同士が有機的につながるという意味が込められがちですが、日本では、異なる者同士がまったく結びつきがない状態で切られている。意味としてもそうですが、実態としても結びつきのない個人化が起こっている。これが本田さんの「日本におけるハイパー・メリトクラシーは、おそらく欧米よりもいっそう苛烈な形をとる」という指摘ともオーバーラップしていて、このような状態に対して「専門性」はいかに機能するか。


ニートっていう言葉は来年あたりには消えているでしょう。これから秋に向かって「格差問題」にさらに焦点が当たっていくことになると思います。でも、この格差問題は、単なる格差がある、格差が世代間で継承されているという話ではなくて、個人化と絡めた形になるべきなのではないかと思います。今のニート論争はその前哨戦として行われているものなんだと思います。


「ひきこもり」というテーマは、ひきこもりとニートが被る部分があるという話ではなく、非常に根本的なところで、実はこの論点と密接に結びついています。今日も半分くらいはこちらの話をしてしまっていますが、実体の伴っていないニートという問題より、はるかに興味深い論点を含んでいると思います。


chiki
ありがとうございます。そろそろいい時間なので、今日はこの辺でいったん終了しますが、これからも議論を継続しましょう。格差はこれまでだってずっとあって、これからもあり続ける。そしてなにか一手をうてば解決するというようなものではなく、様々な利害のぶつかりもあるので、それぞれの論点にセンシティブになるためにも、是非。とりあえず、お疲れ様でした〜。

*1:【上山・注】: 「だから玄田氏でいい」とは思わないけれど。《継続的就労》を支える非合理な要素は、「いいかげんさ」だけではなく、ある種の「過剰性」だと思っている。これについては、また機会をあらためて論じたい。

*2:【上山・注】:少なくとも表向きは。

*3:小杉礼子「神奈川県青少年問題協議会第2回企画調整部会」での発言「私があえてニートという言葉を使い、社会的排除層というのはあまり前面に出さないで、大卒のニート層なんかも織り交ぜた形でわざと議論を展開しているのは、日本社会で社会的排除というところを正面から切り込んだら予算がつかないからです。そういう市民とか社会的排除とかという切り込み方をすると、簡単に予算がつかないですが、一方で、イデオロギーの言葉を一切使わないで、現実のところから調査データを基に積み上げていったものに対してはきちんと見てくれると思います。」http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/seisyonen/seimonkyo-bukai/kiroku-bukai2.htm