決して論争ではない騒動について(1)

AさんとBさんとCさんが議論してたとする。仮に、場所はweb上。で、AさんはBさんを批判している。CさんもBさんを批判しているとする。Aさんは、かなり説得的にBさんを論破した。対してCさんは、本文から「萎え要素」のみを探す脊髄反射的一行レスで揶揄をしたが、論理が不十分であるため「論破」できず、その指摘のほとんどが的外れだったとする。で、結果的にBさんは、Aさんが言うとおり間違っており、それを認めた。それをみてCさんが「それみたことか」とBさんをさらに批判する。あるいはCさん的な有象無象が、論争の勝利にフリーライドし、こぞってコメント欄などでBさんをたたく。



結果としてBさんは間違っていて、Aさんとの論争によってその事柄が明らかになった。しかしそれは、Cさん等の正しさを保障するような形ではなかった。論争においては、「相手が間違っていること」が「自分が正しいこと」を証明する問題と、決してそうでない問題がある。今回決着がついたのは、AとBの対立においてのみ。にもかかわらず、それが文脈を無視してCにおいても決定事項なんだと振りかざされる機会主義。



たとえば「Bさんの非道徳的振る舞い」が問題になっていた場合はさらに歪むことになる。非道徳的振る舞いを批判するその行為がまったく道徳的ではない。にもかかわらず「相手が間違えているから」と、もっと細かく言うと、相手が「道徳的」に間違っていると世間の多数の人が認めるとし、自分の不快感もたぶんに漏れずそのとおりであり、だからたとえ対応が過剰であったとしても論理によってではなく世間の目によって自分の正当性は保障されるんだと言わんばかりに、叩く、叩く、叩く、叩く。



論争の決着を左右する場、つまり事柄を明らかにする場から見れば、そのコメントは一切不要。その感情の発露は、何かの改善の効果を生むわけでは一切ない。そのようなコメントがいくつも並んだとして、サーバーの付加量と読み手のため息を増やすのみ。それは決して論争ではない騒動である。