とりごろうblogさんへのレスポンス

先日、「ブレンダの悲劇とジェンダー論」というエントリーを紹介したところ、先方のコメント欄でちょっとした議論になっています(といっても、レスは今のところないようですが)。chikiは特に加わるつもりはなかったのですが、「 「女らしさ」「男らしさ」は生まれつき?」というエントリーからトラックバックをいただいたので、簡単に触れさせていただきます。ちなみにchikiはフェミニストではなく、むしろこの議論に関してはラディカルな方から批判を受けるであろう立場の人間であることをあらかじめ但し書きしておきます。



まず「ジェンダーアイデンティティが、身体性を超越するかのような一部のフェミニストの論調」について。その「一部のフェミニスト」が具体的にどのような方で、具体的にどのような発言をしていたのかが分からないので論じることが難しい。また、少々細かいのですが、「一部の○○」という言い方はこの手の議論ではやや危険だと思われます。この言い回しでは、事実確認をしなくても、或いは具体的人物を挙げなくても「ま、そういう輩もいるだろう」と俗情に訴えかけることできるし、文脈上で「一部」を全体として表象代理することも出来てしまう。また、「社会的・文化的な性のアイデンティティであるジェンダーが、生物学的な性を超越しうるという二元論的な考え方をしてきたのは、一部のフェミニストのほうではないだろうか」と言われても、そのような論者はいるだろうし、個人的にはむしろ批判も行いたいが、事実確認が出来ない。具体的発言を参照にしないと分からないので、勉強不足だとしきりにいうのであれば、この点に関しては曖昧な状態で語らないで欲しかったとも思います。



なぜこのことを最初に指摘したかと言うと、例えば言語学構築主義の影響を大きく受けた領域のフェミニズムなどでは、「ジェンダーがセックスを規定する」という言い回しをすることは確かによくあるからです。しかし、これは単純に「ジェンダーアイデンティティが、身体性を超越する」「身体性から自由でありうる」あるいは「生物学的性差より社会的性差の方が優位である」と捉えることとは大きく異なります。かいつまんでいえば、「何が生物学的性差(セックス)なのか、という解釈自体が社会的文脈によって異なる」ということ、生物学的性差の区分け自体が社会的性差の文脈に取り込まれることなどを指摘しています。そして、その前提を踏まえてジェンダーとセックスの領域を吟味、再構築しなおすという議論を行っている。端的な科学的事実や発見が、そのまま社会的言説や価値観を規定するわけではなく、社会的な言説は科学的な事実を元に合理化されているわけではない。むしろ科学的事実や発見があったとしても、それは社会言説によって色づけをされていく。それは、生物学的性差が現前として存在していたとしても、時代、文化、文脈、国、地域、所属、言語体系などによってその捉えられ方が多種多様に異なることで理解できる。ソシュールの議論、ラカンフロイト、クリスティバ、ウィティッグ等の議論を(批判的に)継承した領域では、そのような議論が行われています。



この議論は、性自認の問題と社会的性差、「ジェンダーアイデンティティ」と「ジェンダー(ロール)」とを区分しつつ、慎重な議論が必要であると思います。今紹介した議論は「ジェンダー」についての議論でした。対して、鳥集徹さんが引用した論文、および先日のダイアモンド氏の発言(の紹介部分)は主に性自認、「ジェンダーアイデンティティ」の問題について語っています。そして、chikiはダイアモンド氏の論文は読んでいませんが、「こちら」「こちら」での紹介を見る限り、ダイアモンド氏もジェンダーに関してはとても慎重な態度を取っているように見える。性自認が生得的であるという議論が科学的なものであれ、「何が性の問題として自認されるか」という点が生得的なもののみが根拠であるとはいいがたく、端的にいうと「ふるまい」「好み」「らしさ」自体が生得的であると解釈するのはムリがあるということ。「好み」や「ふるまい」、「らしさ」は極めて文化的なものであり「解釈」が大きく介入してくるため、それは国や育ちによって大きく左右される。生得的なものが無縁ではないでしょうし影響も持っているでしょうが、体格差や生理現象と「ふるまい」「好み」、「らしさ」などを同列において語ることは出来ないし、「生得的」である部分でさえ個体差がある。この点に関しては鳥集徹さんも同意が得られている部分だと推察します。



chikiはこのような文脈で解釈しているので、コメント欄でのtnさんのコメントは「性自認の問題を(しかも一例を持ってして)ジェンダーの問題と混同して語るのはどうか」という意見、rangelife422さんは「性自認ですら生得的な問題のみでなく、ジェンダー(ロール)との葛藤なども含まれる複雑な問題であろうから、単純にどちらが強いという問題ではないのでは」という趣旨の意見を述べていると読みました。そしておそらく、性自認の問題ですらも決着がついているわけではないのでしょう。トランスジェンダーの方がお書きになった「ジェンダーフリーをめぐって〜誤解を解くために〜」というエントリーも、概ねこのようなスタンスではないかと思って読みました。



ここまでをまとめます。(1)「一部のフェミニスト」については確認できないが、ジェンダー概念は何が社会的性差で何が生物学的性差なのかを吟味する言葉であり、単純な二項対立図式的に用いられるものではない。(2)性自認は社会的な<らしさ>と無縁ではないが、単線的に結びつくのでもない。



(2)の部分では鳥集徹さんも牽制しているように、「生得的なもの<だから>こうあるべき」と、生得的なものを根拠に「べき論」へと持っていく議論の仕方は危険ですし、「「生物学的な性」と「社会的・文化的な性」と、どちらが優位かという二元論的な考え方」にはchikiは批判的です。(1)に関しては、論者が単純な二項対立で議論しているなら論者を批判するべきだし、その点で「一部フェミニスト」を批判するのは構わないかもしれない。ただ、逆に論者がそのような議論をしていないにも関わらず誤読してしまっているのなら、批判者を批判する必要があるので、「一部フェミニスト」という論法の仕方では限界と危険性があると思う。




概ね以上です。但し書きしておくと、ジェンダージェンダーアイデンティティの境界についてはもっと慎重な議論が必要でしょうし、性自認の問題に関してはchikiは現時点でこれ以上踏み込むことは出来ません。おそらく、鳥集徹さんが参照になさった杏野丈さんなどの文章を参照する方が確かなのだと思います。杏野丈さんははてなダイアリーをお持ちですから、もしかしたらご意見をいただけるかもしれません。




※補足。どのような意見を言う者が多数派、少数派なのかという点に関しては明確にしがたいし、あまり生産的でもないと思うので気をつけたいし、chikiも代弁的な表現は以後控えたいです。フェミニスト自体の評価をどうするかというメタでアバウトな議論ではなく、どのような解釈であれば合意が得られるのか、社会設計として妥当なのか、という議論が望ましいと思っています。当サイトでまとめを行ったのも、「フェミニストは実はこうだよ」という紹介よりはむしろグラウンド設計の方に関心があったからです。