田代砲的動員と「やれやれ」な態度 ―プラグマティズムとラディカリズム(についての反省)

「自己決定(選択自由)を認めない自己責任論/かくも不自由な新自由主義」とも関連して、リベラリズム、というかプラグマティズムとラディカリズムについて考えています。



例えばラディカルな立場をとる者が、BLOGで特定の気に入らない記事を取り上げては簡単な表象文化や言論分析をする。あるいは自分がラディカルでなくともその立場に共感する者が、特に熱心な批評をせず、リンクを貼って「やれやれ」という意味のコメントを加える(実感では後者のほうが圧倒的に多い)。一方でそのブロガーは、パブリックコメントを送るとかメールを送るというアクションを特にしないでいる場合。



意地悪な見方をすれば、そのBLOGはただ管を巻いているだけの「癒し」を求めていて、それ以上でも以下でもないと見ることも出来る。「癒し」を悪いとしなくても、「やれやれ」とただ言いたいだけのそのエントリーで、「やれやれ」な内容であるはずの記事のgoogleランキングをあげてしまったり、より多くの人の目に留まることを手伝っちゃったりしている。



この例は「端的に悲劇」で、責めるようなものではないかもしれないが、あえてそれが問題なのだとすれば、例えばそれがアカデミシャン日記の域を出ていないものでも、長期的に見れば、理論を鍛え、認識を共有する営みなのだから、と反論も可能だ。多少とも意義あるものだと思うからこそBLOGをせっせと更新する。ただ、そうやって鍛えられた理論が実践されるのは一体いつのことか。BLOGに書くことも実践で、理論=実践なのだ、と見ることも可能だが、実際の政治では時に泥まみれの「動員」と「コネクション」および「実弾」のみが効力をもつ場面が多々ある。



そのような状態で、例えばラディカルな立場からプラグマティックな立場を批判したとする。ラディカル左派からのリベラル左派批判、あるいはラディカルフェミニストからのリベラルフェミニストへの批判、その他なんてもいい。その場合、「分裂は敵を利する」という現象が起こる。例えばプラグマティストがA法案を通すことに賛成していたとして、ラディカリストが「A法案ではカバーしきれない問題がある」として批判する。結果、反対票に加担することになり、結局は現状肯定、あるいは現状をより悪くすることになる。



逆に、プラグマティストがプライオリティ(優先順位)を重視するがゆえに、「分裂は敵を利する」から「批判はせず」にいたとしたら、それもひとつの現状肯定になる。ただ、先の現状肯定とは違い、漸進主義的な、政治手法の現状肯定。その結果、抜本的な改革は見送られ、長引く派閥同士のつなひきの結果、少しテコ入れをした程度、で終わる。そのテコ入れが、改良ではなく改悪であることも。



chikiはこの一年、上のような「ジレンマ(?)」を多く見てきたように思います。具体的には去年の8月15日以降なのですが、特に反差別運動や選挙などについての議論の場で、web上で顕著に目撃しました。プラグマティストがラディカリストを批判していわく、「政治的リアリティが足りない」「実現可能性がない」「もっとアクションを!」。同様に、ラディカリストがプラグマティストを批判していわく、「現場のリアリティが足りない」「論理的矛盾がある」「もっと徹底を!」。互いに互いの「リアリティ」によって批判が行われるこのジレンマ。



このジレンマは、政治的運動に限らないでしょう。大学で映画論を共に学んだ友人が、現在撮影助手として映画を撮っているのですが、たまに似たような話をしてくれる。映画作品をすべてを意図通りに作ることは不可能で、どんなに途中でも各スタッフが決断の連続をしていく。そのことに対する違和感がたとえあっても、決断、判断するポイントをどこに置くかが重要になっていく。



ある種の人は、こういうジレンマを経験したことが多くあるように思う。その場合、たいていは長期的/短期的、マクロ的/ミクロ的に区分し、ラディカルな長期的視点を確保しつつ、プラグマティックな短期的視点をクレバーにこなすこと、という次善の策を選ぶだろう。その際のバランスの置き方はひとそれぞれで、完全な参照項が存在しないからこそ、ぎりぎりまで粘ってネゴシエーションをする必要が出てくる。コミュニケーションを「やり過ごし」していく。



「手続きが民主的で、論理的整合性を持っていれば、必然的に民主的で論理的に正当な結果を導く…わけではない」。プラグマティズムとラディカリズムのネゴシエーションの間には、このテーゼが潜んでいる。極論で言えば、前者は田代砲的な動員もやむをえないとする。後者は常に「やれやれ」とだけ言っていることにもなりかねない。徹底主義が潔癖に見えてしまうが、その徹底の意義もわかる。徹底の意義もわかるが、潔癖な徹底主義に見えてしまう。漸進主義が妥協に見えてしまうが、その妥協の必要性もわかる。漸進主義の必要性もわかるが、それは妥協に見えてしまう――。このように常に揺れてたうえで、判断を下す必要がある。



そんなこんなで、最近はパブリックコメントや意見募集などには、出来る限り積極的に送ることにしている。これは、動員もイヤだし、でも「やれやれ」もイヤだな、というchikiのささやかな抵抗(?)。その上で、やっぱり出来るだけ多くの人にパブリックコメントなどを提出してほしいと呼びかけつつ、その批判的な部分も検討していく。賢しげな「二重の戦略」だ。ネット選挙などが解禁になったとしたら、この手のジレンマは繰り返し襲ってくるんだろう。「高尚な議論」より、田代砲的な動員の方が勝利を収める、という事実を前に。911選挙には「ポピュリズム」という批判もあったけれど、ネットでの議論でもこの性質は変わらないし、むしろ可視的になっている分加速している部分もある。



「その批判が何に加担するのかを見極めること/自分は何に加担するのかを見極めること」。このBLOGで何度も繰り返しているこのテーゼの反復なのですが、そこを徹底的に問い続けるしかない。大好きな小沢健二のアルバムに『Eclectic』というものがあって、このタイトルには「取捨選択」とか「折衷的」とか「無駄なものを捨てる」というような意味があるらしいんですが、突然大人びたこのアルバム同様、なんだか妙に徒労感を覚える今日この頃です。いや、いい意味で。