「性教育」について考えるためのメモ

論じる者の立場によって意見が真っ二つに別れ、議論が平行線をたどりやすいテーマのひとつに「性教育」というテーマがあります。


性感染症や《望まない妊娠》、性体験の若年化などを受けて、あるいは少子高齢化を受けて、性教育のあり方を見直す際に、次のような2つの意見に分かれることがある。


(A-1)道徳の復権などをもって、《成人》するまでは、結婚までは《禁欲を貫く》というような立場をとる「禁欲教育」
(B-1)《知識を与える》ことで、判断能力と自己決定能力を養っていくという立場をとる「包括的性教育

教育側でなく、教育される側=自己というフレームで言い換えれば、(A-2)「自己抑制性教育」(B-2)「自己決定性教育となるでしょうか。また、こちらのサイトに習って言い換えれば、


(A-3)現代社会(日本)は文化的岐路に立っている状態で、精神的・道徳的に退廃していると考える保守(右派)
(B-3)現代社会(日本)は新しい段階へ以降している過渡期で、新たな法則や秩序体系が構築されつつあると考えているリベラル(左派)

という現状解釈の違いということになるかもしれません。




性教育をめぐる議論の目的意識としては、(一応)「性交に関する望まない結果を減らす」ということになるのでしょうが、保守側は、道徳、専業主婦、近代家族制度、国家などの《復権》とセットになったりしますし*1、リベラル側は、制度の改革、自己決定権の拡大、社会保障の充実などとセットになったりして、社会をどのように構築していくのかという設計構想が根本からずいぶん異なり、論者によって様々な意図が付随するので、かなり複雑なようです。




ところで、性教育の議論などでは、ついつい「どのような状態を善と捉えるか」のみに議論が集中し、「憲法改正」をめぐる議論同様、「ノリやフィーリング」で議論が進んでしまうことがあります。社会設計のグランドデザインを話し合うという点においては大変重要なことですが、議論がそのレベルに到達しているかにも疑問がある。一方で「性愛などの欲望や俗情には独自の駆動システムがあるか」「それを踏まえたうえで、性愛などの欲望や俗情はいかにしてコントロール可能か」「どのような介入が望ましいか」「そのコントロールでは誰が得をし、誰が損をするか」などなどの議論が必要になるでしょう。



議論のヒントになるかと思いますので、政治学者である小室直樹さん*2の著書、『小室直樹の資本主義原論』より引用します。経済学、社会科学、自然科学の一般前提について触れた文章で、一見本件と関係ないように思うかもしれませんが、個人的には議論の前提を構築する重要な手がかりになると思ったので、ご紹介します。引用、ちょっと長めです。強調のみ、引用者。



(資本主義)市場を本格的に理解する第一歩は、「市場には法則がある」ということである。経済法則の基本は市場法則である。マルクスはこれを、(人間)「疎外」(Entfremdung)と呼んだ。
「市場には法則がある」とは、はじめ、アダム・スミスを祖とする英国古典派によって発見された。その後、マルクスによって確認され、経済以外の社会現象にも拡大された。
(…)
「疎外」なんていうと、何か深刻なことのように思えてくるかもしれないが、疎外があればこそ、社会科学たる経済学も、自然科学と同じように研究されるのである。
自然科学であれば、(人間)疎外の意味は明白であろう。自然現象には法則がある。この自然現象は人間の意志ではどうすることも出来ない。
癌は好ましくないから、癌よ治れ、と命令したところでどう仕様もあるまい。医学の法則は人間の外にあって、人間の意志で法則を変えることは出来ない。物理の落体の法則のごとし。
では、癌を治したければどうするのか。医学の研究をすすめて、癌を治す法則を発見することである。そして、この法則を適用して癌を治す。疎外された人間は法則を変えることはできない。が、法則を発見しこれを利用することならできる。これ、疎外を止揚する(克服する)方法である。
(…)
「社会現象にも法則がある」「その法則たるや自然現象における法則のように客観的で、人間の意志ではどうすることもできない」。このことを、どうしても未だ納得できない人びとが、まだ、多数生息している。有力な人びとの中にも、このような人が多い。だから厄介なのである。
たとえば失業。(…)
(不況の際)政府が、失業をなくすべし、と命令するか。でも、こんな命令、きかれっこない。
きかれない命令を、強権であくまできかせたら、どういうことになると思う。とんでもないことになる。
(…)
経済法則を理解しないで、経済に命令したりすると、経済の報復(revenge by economy)をうけて、どんでもないことになる。
(…)
さて、ここで日本に目を転じよう。徳川時代に市場法則を見ることができる。幕府が腐心したのは米価の制御である。米価は元禄〜享保ころまでは上昇傾向であり、その後は下落していった。
当時の武士の給与は米で支払われていたから米価が下落すれば武士は生活に困る。吉宗はじめ幕府の為政者は、米価を下げようとした。吉宗などは、なんとしてでも米価を上げようとしたので、世間では彼を米公方と呼んだとか。
武士が特に困るのは、"米価安の諸色高"(米価が安くて、その他の生活物資の価格が高いこと)である。享保八年には、銀河暴騰したために、この米価安諸色高と物価は異常となった。
江戸町奉行大岡越前守忠助は、町奉行所に両替商たちをよびだして、「銀相場を引き下げるよう」に命じた。
大岡越前守ほどの名奉行でも、享保年間には銀の価格は、権力者の命令によって引き下げられると思っていたのであった。この点、平成年間における大蔵省役人をはじめとする日本の権力者とおなじ。
これに対し、当時の両替商たちは、「銀の価格が高いのは、人為的なことではなく、相場のなりゆきだからしかたがない」と答えている。
見るべし。当時のベスト・アンド・ブライテストの大岡忠助にも市場法則は見えなかった。(…)このとき、大岡越前守は、市場法則は権力者の命令では如何ともすることができないことを立証してくれたのであった。
大岡忠助にもまして、「市場には法則あり」ということを、如実に、立証してくれたのが水野忠邦(一七九四〜一八五一年)であった。
(…)物価を騰貴させた原因は何か。風俗が華美になり、生活が奢侈になったからである。忠邦はこう考えた。生活を統制して贅沢をやめさせるにある。忠邦は、改革の政策目標をここにおいた。物価を下げるために贅沢追放。これを権力者の命令によっておこなうことにしたのであった。忠邦は、スターリンをはじめとする後年のソ連の指導者のごとく(人間)疎外を理解していなかったのである。
社会(現象)には法則がある。この法則は自然法則のごとくに客観的なものであるから、人間の意志ではどうすることもできない。無理に意思を押し通そうとしたってどうなるものではない。いやあるいは、社会の報復(revenge by society)をうけるだろう。
(…)(忠邦は)庶民生活のすみからすみまで、華美な祭礼風俗をとりしまった。もうプライバシーも何もあったものではない。これ一種の日本大革命か。
(…)さて、このような干渉に対して市場はどのように反応したか。市場は抵抗して、物価統制は機能しないのであった。
(…)このように、当時のベスト・アンド・ブライテスト水野忠邦ですら「市場に法則がある」ことが理解できなかった。そのために、市場の報復をうけて、改革は大失敗した。ましてや、彼は「社会にも法則がある」ことなんか理解できる筈はなかった。彼の贅沢退治政策は、自殺者や捨て子を激増させただけで何の成果ももたらさなかった。後年のソ連における禁酒令のごとし。
(…)吉宗の享保改革は、かなり成功した。松平定信の寛政改革は、わりあいに成功した。
これと同じようなことをやれば、今度も成功するにちがいない。こう思い込んだところに、忠邦が失敗した原因がある。
「従来正しかったことは今でも正しい」、「いままでのやりかたを踏襲すれば今度もまた成功する」。このような考え方を伝統主義(Traditionalismus,traditionalism)という。マクス・ヴェーバーは「永遠の昨日」(Das ewig Gestrige)と呼んだ。それは、「昨日、かくありき、明日もまたかくありなん」という考え方であるからである。つまり、伝統主義とは、「それが過去に行われてきたというだけの理由でそれを正しい」とする思想である。
(…)
伝統主義の呪縛。忠邦による天保改革は、もって他山の石とすえきか。いや、歴史の教訓とするべきであろう。


議論の前提構築として参考になるだけでなく、倹約令や、禁酒令をめぐる議論のロジックが、剰余(フェティッシュ)や「法則」、文化的差異や成熟度を考慮にいれなかったために失敗したとすれば、性教育の議論と似通う部分もあるのではないかと思います(無論、諸条件が違うので、代入可能ではないでしょう)。




以下は、考えるための個人的なメモ。




○「社会現象にも法則がある」とすれば、社会の性現象、そして性愛コミュニケーションや俗情にも独自の法則があると仮定でき、その仮定の元での研究成果は多くあるはず。統計や文化比較などによって測る諸社会科学による検討は重要。
○その「法則」は、常に-既に駆動しており、命令…例えば道徳命令に依拠した回帰は不可能 →(人間)疎外/ルーマンのシステム論。
○性は「フェティシズム」(フロイト-ラカン)と切り離せない。合理的理性や命令によって言語化、コントロールすること自体が困難。
○法則や疎外同様、風土や道徳観も必要な判断材料、諸条件(それすらも「法則」であるとも言える)。社会が流動化している現状においても、道徳的なものは存在し、一定の機能も持つ。
○「性教育」の問題を、「性道徳」と捉えるか、「性倫理」と捉えるか。「性道徳」は多元化した。では、「性倫理」はどのように機能するか。
宮台真司の研究が提示するように、「道徳」的説教では援助交際を制止する効果は生まれない。
○AをとるかBをとるか、という「極論」のみの想定では漸進不可能。(前時代家父長的なマチズモ/道徳を捨てるアナーキズム、など)
○少々飛躍するが、性教育の問題は、アメリカ型ネオコンの現状などから、ポルノ規制、表現規制、メディア規制、監視型権力、などとの親和性もありうる。それは、北田暁大さんのBLOGエントリー「特集・佐世保事件」などのメディア規制をめぐる議論と類似性を持ち、東浩紀さんの「監視技術の道徳主義的利用」への発展性を持つ。その前提の上で、宮台真司さんは「携帯電話の社会学的機能分析?コミュニケーション変容の社会的意味」において、それらが目論見どおりに機能せず、シニカルな分極化を加速させることを指摘している。
○「道徳」などによる価値の再一元化、あるいは知識のフィルタリングは、ネットなどで多元的な情報に触れられる現状では効果が望めない。徹底すれば、ネット情報のフィルタリングなどにもつながる(上、アメリカ型など)。
○「アメリカの前例」の諸条件…信仰の存在、マルチチャンネル化による意識格差など。
異性愛中心主義・結婚中心主義へのラディカルな批判の意義。性的弱者やセクシャルマイノリティによる批判や倫理的視点からは、禁欲教育/包括的性教育のみでは語れない問題提起が多くある。






参考になるURLなど(リンク先にて既に紹介されているリンクなどは割愛しています)
「個人的な価値観に属することについて、特定の価値観を政治を通して押さえつける全体主義の発想」
「NPO法人「10代の性行動の危機を考え行動する会」HP 徹底批判」
「「ジェンダーフリー教育」論争の論点整理」
「財団法人日本性教育協会 大切なものをどう伝えるか」
「純潔の掟:シルバーリングの教え」
「寺尾由美講演」
「So-net blog想小学校の“性教育”現場」
「10代セックスには親の許可、国の許可?」
「性教育について」
「林道義:蔓延する狂ったフェミニズム」
「アメリカの禁欲主義教育とわが国の性をめぐる諸問題」
「ブッシュが進める絶対禁欲主義の性教育」
「ブッシュ再選で「セックスと政治」はどうなる?」
「禁欲的な教育:ライフウォークプログラムの評価」





※関連リンク集などを含め適宜更新する予定。本文表記は変更される可能性が高いです。
※まだ、ここでがっぷりと骨太な議論を展開するつもりはありませんが、他のサイト読者の方のためにも、参考URLや参考資料などをコメントしていただけると非常に助かります。

*1:「死者の季節」たる八月は、「歴史」をめぐる議論が活発になりましたが、一部保守による、「ポスト歴史教科書問題」(斎藤美奈子)たる男女共同参画批判(ジェンダーフリーバッシング)は、保守層の、歴史教育から性教育への関心以降、闘争移項としても捉えられる。その点で、「荒川区問題」なども、重要なヒントになると思います。

*2:引用からも分かるように、現在の「保守」としては稀有な存在です。社会学者、宮台真司さんの師匠でもある方です。