本日のメインディッシュ

2005年3月30日、青山ブックセンター(渋谷)にて行われた「『嗤う日本の「ナショナリズム」』刊行記念 北田暁大 + 東浩紀 トークショー」の感想&レポ集です。




「Kawakita on the Web」(議論の内容紹介と、丁寧な感想です)
「Where Sweetness and Light Failed」(対談の模様が会話調でメモされています)
「pele-mele」(「人文系」について考察していらっしゃいます)
「東京猫の散歩と昼寝」(「はてな」について考察していらっしゃいます)
「豚飼い玉子」(「サブカル」について考察していらっしゃいます)
「あってなきがごとし?」(お二人の「癖」について考察していらっしゃいますw)




chikiも行って来ました。セッションでは、上記リンクにもあるとおり、東浩紀さんがblogで指摘したことから、95年の切断(時代の切断、或いはテレビとネットというメディアの切断…)などをめぐって白熱した議論が行われました。上記リンクの補足部分(冒頭のみ?)を、以下、メモを頼りに内容をごく簡単にまとめてみます。




鈴木謙介(みんなのチャーリー)さんが急病で倒れ、ピンチヒッターとして東浩紀さんが登場。北田「世代間ギャップを作って話そうと思ったのに(笑)」東「鈴木君は僕の所内(国際大学グローバルコミュニケーションセンター)の部下で、部下を仕事で追い込んだ上司として、情け容赦なく駆り立てられました(笑)」といった内容の挨拶。そしていよいよ対談開始。



北田さんは1971年生まれ。①一章を書かせた動機。60年代連赤からサブカルへ向かう流れを考えてみたかった。「あの時代はよかった」「可能性があった」ではなく、功罪を含めた社会学的な問いとして扱いたかった。②「世界」に「嗤う日本のナショナリズム――『2ちゃんねる』にみるアイロニズムロマン主義」という論文を書いた後、それを詰めたかった。どうも2ちゃん論として受け取られたが、むしろ80年代から続くメディアに対する感性が2ちゃんに引き継がれつつ、別の論理で90年代が動いているのではないかと考え、そのひとつの事例として2ちゃんねるを取り上げた。80年代に遡るナショナリズム論と、60〜70年代に遡ってサブカルチャーとしての学生運動というものを考えてみたかった。



このバラバラだった2つの問いが交差するのではないかと思うきっかけになったのが、東浩紀さんと笠井潔さんによる『動物化する世界の中で』だった。北田「これ、平凡社ですよね」東「ええ。…ん? 平凡社じゃないですよ。あぶないあぶない(笑)。集英社新書です。」などと笑いを取る。壮大なディスコミュニケーションにも読める同書は、60年代まで遡って現代のサブカルや文化を語ろうとする笠井さんに対して、東さんが徹底して抵抗している。現代を語るとき、60年代〜70年代の問題とどう接合するのか、あるいは接合して良いものなのか、という問いが出てくる。北田さんはそれでも繋ぐという道を選んだ。そこで東さんに振る。



東「書きたいことはBLOGに書いちゃった(笑)」と笑いを誘いながら話し始める。以下、東さんの立て板に水を流すような軽快なトーク。東さんが初めて北田さんについて知ったのは、『自由を考える――9・11以降の現代思想』の時に大澤真幸さんに聞いた。それから、北田さんと同じ71年生まれである森川嘉一郎さんについても知ったとか。BLOGのコメントは厳しい批判に見えたかもしれないが、基本的に同じベースで議論しているという前提があって、大変面白い本と感じたとのこと。これでようやく80年代について語る基盤が出来た、と感じたとか。



笠井さんとのディスコミュニケーションは当時はあったが(笑)、現在は普通にお付き合いしているとのこと。あそこには「新人類世代」という問題があり、強烈に反発した理由は、そこに「新人類世代vs団塊世代」という架空の闘争があった(そういうものが本当にあったかどうかはわからない、という但し付き)からだと言う。団塊世代の人、例えば笠井さんだったら、「高橋源一郎は消費社会や新人類世代におもねって団塊世代の問題を忘却した奴だから許すまじ」と捉える。「新人類に取り込まれたヤツvs60年〜70年代の問題意識を確固として守り通したヤツ」という意識がそこにはあって、ではその下の団塊ジュニアをどっちが取り込むんだ、という架空の戦闘に巻き込まれている感じがあり、うんざりしてたとのこと。笠井さんと東さんはそれぞれ団塊世代団塊ジュニアにあたるが、しかし往復書簡では「団塊世代vs団塊ジュニア」という抗争ではなく、「団塊世代vs新人類世代」というもので、東さんは「自分はその土俵にははいらないよ」としか言っていないとのこと。



動物化するポストモダン』などでは「切断」を強調しているが、コジェーブなどを使いつつ、浅田彰宮台真司大塚英志を平行して動かすエミュレーターを作ろうという仕事で(笑)、その意味で「接続」をしようとしている。しかしそれは論壇内の闘争のようなものに使われるとのこと。例えば大塚英志氏から誘われたりするのもちょっと…という気持ちがあったとのこと。それとは別に、メディアに対する感性は連続的に推移してきてるのかという疑問があって、それはテレビというメディアとネットというメディアは全然別のもので、それを一直線に繋いでいいのかという違和感があるとのこと。動物化する世代」というのは北田さんの言う「繋がりの世代」にあたるが、そのメディア基盤はインターネット。それを、テレビやラジオへの態度の延長線上に置くのはどうか。



続いて北田氏のレスポンス。「現在」をどう評価するのか、という問いがあったとき時、笠井、大澤、北田のやっていることは否定神学を行っている、という指摘だった。「2ちゃん的なものを、先行世代に対するレスポンスであるというような、過剰な自意識、高度な言説のずらしの戦略を呼び込むべきではないよ、そうするとつかみ損ねるよ」という批判だったと思います。これは確かにその通りだと思うが、問題にしたかったのは、例えばネット、ケータイコミュニケーションにおいて、多くの人が他人とつながっていないと不安を感じる、というようなデータが出てしまっていることなど。



中央公論(2005年4月)に掲載された本田由紀さんの論文を読むと、若者のコミュニケーションを研究すると、学力格差以上に対人能力の格差が重要になっていることがわかるらしい。しかも、どうも学力と対人能力には相関関係があるらしい。東「どう関係してるんですか?」北田「学力の高い人ほど、対人コミュニケーションスキルが高いらしい。綺麗に相関関係にあるらしいんです」東「ええっ。やっぱバカはだめだ、とか、そういう結論なの?(笑)ちょっとそれは…(苦笑)」北田「学校内でも綺麗に分かれるらしいよ」東「でもさ、ヤンキーとオタクだったらヤンキーの方が対人スキル高そうじゃない?」北田「そうだよねぇ」東「でも、ヤンキーの方が偏差値低そうだよね、やっぱ?」北田「でしょ? どうなんだろ」東「それとも、頭いいヤンキー、頭悪いヤンキー、頭いいオタク、頭悪いオタクって綺麗に分かれるのかな、今は? キビシーなぁ…(笑)」北田「キビシーですねぇ…(笑)」などと、要所に息のあった笑いをしのばせていました。



これらを見ていると、それなりに自意識を肥大させないと生きづらいんじゃないかとも思えてくる。なぜこういうものが出てくるのか、と問うた時、多かれ少なかれ2ちゃん的なものがあるのではないか。先行世代への反発という歴史の枠組みでは捉えられないかもしれないが、他者との繋がりを志向する中で、ナショナリズム、ロマン的な対象へのコミットメントが不可避的におこっていることを考えておかないと、映し出せない現実の側面がある。コミュニケーションの構造としてはそれほど過剰に自意識を持たなくても生きていけるのに、自意識が再生産されている。しかも一部ではない。このアンチノミー、いや、全然対立していなんだけど、その点を議論をしたかった、とのこと。




続いて東さんの応答。以後は上記リンク、および、公式にどこかに掲載されるのであればそちらを参照してください。太字部分を補足する為、前後の文脈をちょっとだけ詳細に触れてみました。





そういえば、どこかで東さんが学生時代(?)を振り返って「<建築>が基礎教養だと思うような雰囲気がかつてあった」というようなことをおっしゃっていましたが、この対談(および宮台真司さんの質疑応答)を聞いて、おニャン子」が基礎教養なのかと焦りました。そして「モー娘。」を基礎教養にする同世代人が出るんだろうな、とも(既にいますな)。




ところで、はてなの機能を利用して、「人文系キーワード巡りアシスタント」とか、作ってみた。イベントの感想などを探すときにとても便利です。リクエストがあれば、どうぞ。