本日のメインディッシュ

「3月14日のエントリー:掲げられた同じ看板の下で」について。
上記エントリーにて、「DIARY :: Limin' in Flatbush ::」さんの「Tsunami Song Controversy」という記事をご紹介させていただきました。その際、多くのことを考えさせられました。今回のエントリーでその全てを書ききれるとは思えませんが、いくつか思ったことなどを。



このエントリーは、「HOT97のDJ、ミス・ジョーンズがスマトラ沖地震津波被害者を侮辱する歌を歌う→各方面から批判があつまる→同番組中止(アジア系ラッパーからのアンサーソングあり)」というニュースの経緯を、事情を知らない者にも分かりやすく解説しているものであり、本当にすばらしいとまとめで、その説明の上手さに感嘆しました。本当に勉強になりました。しかし一方で、残念ながらミスジョーンズの差別的言説を批判しているはずの同エントリーの端々にこそ(批判されているはずの)差別的言説が満ちていて矛盾してはいないか、というのが14日の感想やコメント欄で議論されていたことの趣旨でした。また、この事件をめぐっては、このエントリー以外の文章で、理不尽な罵倒が並んでいるものもありました。以下、それらを踏まえて思ったこと、考えたことなどを書いて見ます。これは、「褒められてるんだか貶されているんだか」という「DIARY Limin' in Flatbush」管理人様からの感想への回答でもありますが、管理人様を不当に貶めるつもりはありませんし、個人を批判する、あるいはディスることを目的としているものではありません。



…ところで、「DIARY Limin' in Flatbush」様のエントリーで、気になった部分を引用しながら考察しようと思ったのですが、「加筆修正」されたことにより、こちらの指摘部分が妥当か否かを、読者の方も含めて検討できなくなってしまいました。ただし、疑問の対象であった考え方自体は不動の部分があるようなので、現在のエントリーに沿うような形で、まずは簡単に疑問の趣旨をご説明します。



疑問の趣旨は主に三つあります。まず第一に、この事件を「黒人」という属性一般の問題にひきつけていること自体とその妥当性。第二に、その妥当性を指摘する際の事実認識。そして第三に、批判者のポジショニングの難しさ。ひとつずつ説明します。





一点目:「属性」について。
まず一点目の「属性」にひきつける事の是非と妥当性についての疑問。この事件に対してchikiは、(JINが指摘しているように?)エンターテイメントの意味(ショッキングな発言をすれば目立てると思っている?)、あるいは言論の自由の意味を履き違え、「天災によって不幸になっていようと、チャイニーズやアフリカンは笑いものにしてよい」とも取れるような不当な人種差別的言動を行ったミスジョーンズは批判されてしかるべきだと思っています。ラジオの降板なども妥当でしょう。ここまでは概ねコンセンサスが得られるのではないかと思います。



問題は、この発言をあたかも一般論であるかのように語る差別的言説「このテの人(=アメリカ生まれ&育ちの黒人)たちは…卑屈」に繋げてしまっては、ミスジョーンズの発言を批判するに足るものにはなりえず、むしろ同じ差別意識に裏付けられているとさえ言えてしまうのではないか、ということです。つまり、不当な属性意識による差別を行ったミスジョーンズに対し、このテの人=アメリカ系黒人(これだから黒人女は、これだから二ガーは、という方もいらっしゃいました)などという形で属性的嫌悪を抱くのは問題への批判にはなりえず、新たな負の連環を生むばかりです。少なくとも差別を批判する言説としては合理的でないでしょう。



また、その属性分析が妥当であるかどうかも疑問です。例えば、「DIARY Limin' in Flatbush」さんのエントリーで、chikiの記憶が正しければ書き換えられたと予測される「カリブや南米の人たちには、混血社会というか彼等の文化自体が混血の賜物なだけに、他人種に対して寛容、尊敬の念を持って接するリベラルな傾向が強いので、つき合いやすいところがある」「一方、アメリカ生まれ&育ちの黒人の中には、学ぶ事が嫌いで、いわゆる"hood"に閉じこもる厄介なタイプが結構いる」以降の部分(その前の「特に女性は嫉妬深いため」なども同様)は、個人の印象として思っている分には自由ではあるが、文化論としては大きく問題がありますし、一般的公式としては無理があります。あくまで通俗的なイメージ、あるいは個人の印象、という程度のものです。個人の経験としてそのような印象を抱いていることは自由ですが、それを普遍化し、マッチポンプのような形で自ら作り出した黒人イメージを叩き、そしてさらにそのことをこの事件の解釈部分に用いる、というのはフェアではない。しかもその公式が偏見であるならむしろそれ自体が差別になってしまいます。



仮に思い込みでなく、一般的にこのような傾向があるというなら、深い差別にも関わる重大な問題だから、せめて印象論ではなく納得いくデータを示すことが必要です(「結構いる」のであれば、それを実証するサンプルが膨大にあるはずです)。「せめて」というのは、「事実、黒人はこういう性質だ」という部分と、「だから、黒人に対してこういう発言をするのが適切なのだ」という部分に論理的必然性はなく、加えて(たとえそれが学問であっても)そのような発言をするにはその言説がもたらすであろう効果への配慮や対象となる相手への節度が求められるからです。もし、あくまでも「こういう人が多い」とか「一部の話だよ」というだけなら、それを「黒人」等の属性に括る必要と妥当性はないでしょう。例外が数多く生じている時点で、定式としての妥当性は疑われなければなりません(ちなみに本件とは少々ずれますが、この種の発言を行う際、「一部の」ないし「ある種の」などの冠詞を用いたり、あるいは「例外はあるが」というような注釈をつけたりしつつ、差別問題に配慮しているポーズをちらつかせながら差別的に語ったり、あるいは単に批判を交わすためだけに保留をつけ、フェアであるかのようなポーズをとってアンフェアに語ることを繰り返し行っている言論人などが右派左派問わずいます。心底軽蔑しています)。



なぜこのようなことが気になったのかといえば、「DIARY Limin' in Flatbush」さんが、いくつかのエントリーを拝読した限り、ゲットーでとても真剣にライム踏んでおり、多くの人種の方と触れ合い、リアルな空気を肌で感じていらっしゃる方だからです。このエントリーはおそらくご自身が、多くの方とのコミュニケーションを通じて肌で感じた「実感」だと思います。実感だからこそ、強度を持ってそのことを主張していらっしゃると思われます。ところがその「実感」を、そのまま普遍的な定義に結びつけてしまい、それが現場でリアルを追求している人であるがため、あたかも「一次資料」などであるかのように受け取られてしまう可能性があると思います。また、それが大変分かりやすく読み応えがあるエントリーだっただけに、どうしても気になったのでした。




二点目:「差別」と「被差別」の捉え方について。
二点目は事実認識についてです。この部分に関して触れる際に改めて指摘したいことは、差別は未だ過去のものではない、ということです。chikiは統計学社会学に明るくなく、まして日本以外の現状に関してはほとんど無知もよいところですが、アメリカには白人と黒人、その他の人種との経済格差やデジタルデバイド、教育格差などの問題が未だ(今だからこそ?)大きく存在するということを方々で見聞しております。いや、そうではない、それは「何十年も前」の話だよ、というのでれば、黒人差別が低下した例として、あくまで現在の白人一般と黒人一般を比較しなければなりません。そうではなく「人の倍の努力で著名な裁判官となった人」や「ライス国務長官」などをサンプルとして出すことは適切ではないばかりか、問題を隠して差別に加担してしまう。どういうことか。



例えば日本でも、女性の「社会進出」や障害者の「社会進出」といった問題を語る際、「女でも社長になった人がいる」あるいは「障害者でもこんなに活躍している人がいる」(乙武さんなど)などと語り、現在はこんなに平等な社会になっている、という冗談を言う方がいらっしゃいます。極端な成功者を例に出し、「こんなに成功している人がいる以上、あなたが出来ないのは自己責任でしょう」というロジックを使っているのですが、しかしこのロジックからは、社会的背景、経済的背景などがすっぽり抜け落ちています。すなわち、「人一倍(男性の倍、健常者の倍、などなど)の努力をしないと報われない平均的な格差」を無視して個人に全てを押し付けることで差別的に振舞ってしまう、ということです。男女の間、あるいは健常者と障害者の間の経済収入の格差を検討せず、「努力すればいいのに」という個人の内面意識等の問題のみで片付けるのは大きな問題です。それでは「単に君の自己責任だよ」と個人に押し付けることによって、差別を覆い隠し、むしろより強固なものにしてしまう。ですから、例として的確ではなく、仮に格差が埋まっているのであれば、別の例が必要でしょう。ちなみにchikiは、このような格差を検討しているデータや記事をネット上でいくつか見つけましたが、そのデータの妥当性まであわせて検討することが出来ないので、逆に当方が直ちに「このような格差がある」と指摘できずにいます。ですので、あくまでこの例からは「格差がない」といえないのではないか、という指摘にとどまるものですが、もし何かのデータをお持ちの方は(格差の有/無、事柄が明らかになるのであればどちらを証明するものでもかまいませんので)ご指摘くだされば幸いです。



また、chikiは「被差別者の発言」についてはこのように考えています。例えば差別の歴史があった者が、その負の遺産、負のアイデンティティを用いて「被差別者」が行う逆差別(被差別者たる自分の声が最優先されるべき)、あるいは更なる差別の連鎖(貧民層のネオナチ化など)などは、自分がされた時は大いに不愉快な気分を味わいますし、言説として批判が必要であるとおも思います。また、当事者でなくとも、議論の際に自らの立ち位置を問わず、相手を沈黙させるためだけに「まだまだ差別がある!」と振りかざすことは、常に慎重に行われなければならないとおもいます(このエントリーを書きながら、常にその点が気になっています)。ただし、長い差別の歴史をみても、現在反動的な形で負の要素を叫ぶことはある程度許容されなくてはならないとも思っていますし(この点は多くの反論を招くと思いますが)、現在もなお根強い差別は残っていることから、逆に被差別者への「逆差別はいけない」との批判が過剰になり、「被差別者は黙れ」(不快な事は言うな)という発言に転化してしまうことはよりまずいと思います。(被)差別の連鎖を批判するのと、(被)差別者を否定し、抑圧するのとではまったく意味が異なりますので、差別を批判しているのか、自分が聞きたくない声だけを遮断しようとしているのかは常に配慮が必要です。



なお、「自分は○○という属性だからだめなんだ」といいながら、現状を変える努力を怠っている者が怠惰であり、そういう方が被差別者の中にはいる、という言説は否定しません。chikiは、先天的に、あるいは自らが望まず他者より与えられた「属性」を、その不当性と戦うというところまで引き受けて生きていく方には惜しみないリスペクトを与えます。しかし、それを出来ない人を単に否定するのは間違っていると思いますし(これは個人的見解です)、その人を「黒人にはこういう人が多い」と、「属性」を強化するような形で批判するのでは堂々巡りになってしまうと思います。




三点目:差別問題へのコミットメントについて。
三点目は、どのようなポジショニングでコミットしていくかという問題。「DIARY Limin' in Flatbush」さんのエントリーで大変興味深かったのは、「自分が『アジア人』である事を痛感させられる」というように、自分が他者からどのような属性を帯びて見られるのかを強く意識した部分です。(2ちゃんでは中国人と韓国人、朝鮮人は頻繁に登場するようですが)日常では人種問題が表立って語られることの少ない(時にはそんなものあたかも存在しないように済まされる)日本に住んでいる者は、なかなか意識することのない問題ではないかと思います(人種問題だけでなく、経済格差や階級の問題もあたかもないかのように思われているのですが、だんだんそうでもなくなるかもしれません)。この部分には、恥ずかしながら目から鱗でした。



もちろん「属性」という確固たるものが存在するのではなく、それは共同体や個人の捕らえ方、あるいは文脈によって大きく変化するというのは言語学や哲学などの領域ではすでに常識となっていますが、それでもなお「属性」を意識する視線や文脈は強固に存在します。そのような問題を意識したとき、「自分の属性に対して誇りを持ちつつ、相手の属性を認める」のか、「相互の属性に捉われず、個人としてリスペクトする」のか、非常に難しい問題です。つまり、「意味も無くアジア人をディスされた時、悔しい」と思う時、アジア人をディスされたことに対して悔しがるのか、意味もなくディスされたことに対して悔しがるのか。発言者やその属性を批判するのか、その暴力的なカテゴライズ自体を批判するのか。それをアジア人として批判するのか、それともそうではない「何者」かの立場で批判するのか。どちらかを取る、というのではなく、戦略的に検討して使い分けていく必要があるのでしょう。



例えばHIP HOPでは、自分がどういう環境で生まれ育ってどういう属性を持ち、それがどのようなアイデンティティになっているのだ、ということを強調するという戦略を取ることがあります。そのアイデンティティがしっかり語れない者、あるいはそのアイデンティティとまったく関係なく単に誰かのスタイルをパクっただけではフェイクとして卑下され、逆に自らをアイデンティファイしているものを「俺は俺」と肯定しながら不当な差別と戦っていく者はリアルとして認められる(ここではスキルなどその他の要因は割愛しました:汗)。自分にはこういう貧困の問題がある、自分にはこういう差別もあった、こういう「現実」がある…といったものを背負いながら責任を持ちながら発せられる強度あるリリックやポリティクスには、HIP HOPをおそらくは「そこそこ」しか聞いていないと思われるchikiもリスペクトしています。もちろん新たな属性差別を必ず招くという問題もあると思います。だから常にバランスが必要で、そこに「正解」などは存在しない難しさがあります。




今回に限ればchikiは、自分と同じアジア人がディスられたから悔しがる、というよりは、稚拙なパフォーマンスによって不当な差別的振る舞いが行われたこと、そしてその不当な差別によって傷つく者がいるという現実に怒りを覚えました。しかし、それとて実存的な問題と無縁ではなく、おそらく「何者か」の立場から批判しなければなりません。「何者」かであることを引き受けつつ、しかし自分が「何者」の立場から発言することでどのような易を得ようとしていないか、あるいはそのポジショニングを選べるのか、などを常に問わなければならないということを強く意識させられました。






まだまとまりませんが、3月14日のエントリー、およびそのリンク先から、上記のようなことを考えさせられました。何か、示唆などがあればありがたいです。